第510話 第三章「犯人として眠る少年」後編
危機局の聞き取りが始まった。
紙面の向こうにユーディ。
その隣へ、細長い男。
黒い眠り帽。
指先へ灰色の塗料。
名札は夢灯網予測整備官、ベレト・カーム。
「夢を見た時の感情を、順に」とベレト。
「最初は驚いた。次に怖かった。今も怖い」ハル。
「エリア・ルーンベルグへの敵意は」
「ない」
「競争、嫉妬、身分差への怒り」
「ある部分もある」
ユーディが顔を上げる。
ベレトの筆が止まる。
「敵意がある?」
「身分差には怒る。エリアにじゃない。地図で負けると悔しい。俺の道を勝手に直されると腹立つ。知らない場所で何でも知ってる顔されると、ちょっと」
「ハル」とエリアの通信像。
「本当は何を守りたいかって聞くなら、こっちも本当を言う」
「今、私への不満を公開記録へ載せる必要は」
「隠すと、後で『実は憎んでた』って話になる」
ベレトは穏やかに笑う。
「正直さは評価します」
「評価しないで」
「なぜ」
「正直だから無害とは限らない。嘘だから犯人とも限らない。今、俺を良い子にして安心しようとしてる」
ベレトの指先が止まる。
「では、あなた自身は、自分が犯行へ及ぶ確率をどう見ますか」
「分からない」
「数字で」
「数字にできない」
「予測には必要です」
「俺の答えを入れて、俺を予測するの?」
「自己評価は一要素です」
「自分で自分を疑ってる人は高くなる?」
「危険認識があると低くなる場合も」
「都合いいな。何を答えても材料になる」
「材料が多いほど精度が上がる」
「何の精度」
「明日を外さない精度」
ベレトは、まっすぐ言った。
その言葉だけ、夢の中の時計のように、動かなかった。
ベレトは質問票を閉じなかった。
「凪野ハル。被害対象へ、怒りを感じたことは」
「ある」
格子の外で、保安員が顔を上げる。
「いつ」
「地図を勝手に完成された時。身体の限界を先に決められた時。俺の帰る道を、俺より先に描かれた時」
「殺したいほど」
「怒りの強さを、殺意の単位で測るの?」
「危険評価です」
「じゃ、君は誰かに怒ったら、殺すか殺さないかで考える?」
「質問へ質問で返さないでください」
「質問に入ってる前提を聞いてる」
「前提」
「怒ったことがある。だから刺すかもしれない。間に何が何個ある?」
「衝動、手段、機会、抑制、関係性」
「五個も知ってるのに、夢は一段で飛んだ」
ベレトの筆が一度止まる。
「夢は結果像です」
「途中を見てない」
「予測は途中を推定する」
「誰の途中」
「あなたの過去行動」
「俺がエリアへ刃物を向けた記録」
「ありません」
「じゃ、刃はどこから」
「予測された手段」
「予測が、予測の材料を作った?」
「一般的な刺突事件の統計」
「一般的な俺」
「個人と類型を組み合わせます」
「組み合わせた後、どこまでが俺?」
ベレトは回答欄を見つけられない。
ハルは零星針の蓋を触る。
一度。
二度。
三度。
四度。
不安。
ベレトの目が、その癖へ行く。
「その行動も記録します」
「何へ使う」
「緊張指標」
「蓋を四回弾く人は、刺す?」
「単独では」
「単独では使えない情報を集めて、最後に名前を出した」
「統合すれば意味が」
「意味を作った人は、誰」
扉の外で、ソムナが苦い種を噛む。
「休憩」と言う。
「聴取中です」とベレト。
「食事と睡眠が不足した相手の回答は、恐怖と迎合が増える」
「夢葬師に心理評価権限は」
「医療側から、聴取継続の身体条件を言ってる」
「彼は協力に同意した」
「同意は、休憩を失う契約じゃない」
ベレトは紙面を見る。
「あと三問」
「三問が何分か分からない」
「短い」
「質問が短くても、答えは長い」
ハルが笑う。
「案内人、言葉遊び強い」
「患者を言葉で疲れさせる人に、言葉を返してる」
「患者では」ベレト。
「静置対象?」ソムナ。
「予測犯行者」
「まだ犯行していない」
「高危険者」
「身体は少年。睡眠不足。左肩痛。今、空腹」
名称を変えるたび、同じ人が別の扱いへ近づく。
ソムナは格子の内側へ椀を通す。
豆と根菜のスープ。
「熱い」とハル。
「温度がある」
「夢にはなかった」
「今を食べて」
ハルは一口。
舌を火傷しかける。
「現実、強い」
「熱いだけ」
「明日の俺が刺すとしても、今の俺はスープで舌を焼く」
「両立します」とベレト。
「何でも両立させるな」
「人間は複雑でしょう」
「複雑って言いながら、犯人役へ一つにした」
ベレトの筆先が、紙へ小さな穴を開ける。
最初の感情の漏れ。
「休憩後、再開します」
「俺が同意したら」
「拒否すれば、拒否を記録」
「危険へ足す?」
「……足しません」
「今、決めた?」
「運用上」
「記録して」
セレナが外から言う。
「予測整備官ベレト・カーム。聴取拒否を危険指標へ加算しないと明言。時刻記録」
ベレトは自分の言葉が、制度の外へ出たことに気づく。
言葉は、質問する者だけの道具ではない。
静置室には、運動時間があった。
身体を壊さないため。
眠りを深くするため。
拘束が刑罰ではなく予防であると示すため。
最後の理由が、最初の二つより大きく書かれていた。
中庭へ出る。
紙壁に囲まれた空。
頭上を夢灯籠が流れる。
地面には、外周を十二歩で回れる青い線。
ハルの手首には赤い札。
『対人危険予測』
隣の老人は黄色。
『財物危険予測』
自分の薬箱を盗む夢を見たという。
「自分の物なら、盗めないんじゃ」ハル。
「医療費の担保に入ってる。今は半分、保険屋の物だと」
「夢で盗んだ?」
「飲んだ」
「必要だから?」
「痛かったから」
その向こうの少女は青札。
『設備危険予測』
夢の中で、学校の灯籠を割った。
「本当は割りたい?」
「毎日、成績の悪い夢を全員の前で流すから」
「それは割りたいかも」
「肯定しないで」と保安員。
「気持ちと行動を分けてる」
「分けて言ってください」
「割りたい気持ちは分かる。現実で割るなら、下に人がいないか見ろ」
「助言が犯罪寄り」と保安員。
少女は笑った。
「赤札の人、普通だね」
「普通の犯人候補」
「普通と犯人って両立する?」
「すると思う。悪いことする人が全員、朝から悪い顔してたら楽だから」
自分で言って、自分へ返る。
明日、自分が刺すかもしれない。
今、普通に話せることは無罪の証明ではない。
同時に、夢で刺したことも有罪の証明ではない。
老人が青線を一周し、息を整える。
「わしら、いつ出られる」
保安員が用紙を見る。
「危険時刻通過後、再評価」
「夢の時計は壊れてた」ハル。
「都市標準へ換算します」
「どうやって」
「危機局が」
「危機局は、俺たちの夢の何を標準にした?」
保安員は答えられない。
手続を守る人が、手続の根拠まで知るとは限らない。
ハルは青線の外へ出ない。
出れば、逃走傾向として記録される。
出ないことを、制度への同意にもさせない。
「俺、線の中にいる。でも、この線が正しいとは思ってない」
「記録します」と保安員。
「助かる」
「皮肉?」
「半分。本当に残して」
運動時間の終わり。
少女が、紙片を渡す。
白い階段の絵。
階段の途中に、横へ出る小さな扉が描かれている。
「夢にはなかった」ハル。
「だから描いた」
「地図屋みたい」
「地図屋は、ない道を描いていいの?」
「まだない道なら、作る約束として」
運動時間の終わりに、カイルが面会へ来た。
王太子は格子の外。
ハルは内側。
「立場が逆だな」とカイル。
「君、昔どっち?」
「宮殿の中に閉じ込められて、外の人間へ手を振る側」
「今も?」
「今は自分で戻る」
「戻らない選択」
「ある。選べると言うには、戻らなかった時に誰が国を背負うかまで話す必要がある」
「重い自由」
「軽い自由は、誰かが重さを持ってる」
カイルは格子へ焼き苺を一つ通そうとする。
幅が足りない。
「王家権限で格子を広げる?」ハル。
「苺一個で施設改修した王として歴史に残りたくない」
「良い王かも」
「食料政策だけ評価される」
具体的な食べ物の冗談。
恐怖が戻った。
「怖い?」ハル。
「お前が明日、変わることが」
「俺も」
「お前自身を?」
「みんなが同じ夢を見た。俺が知らない俺を、全員が知ってるみたいで」
「全員が同じ噂を聞けば、噂の方が本人より大きくなる」
「噂なら否定できる」
「夢は否定すると、隠していると言われる」
「じゃ、どうする」
「今のお前を増やす」
「分身?」
「行動記録。選んだ言葉。利き手。肩。エリアと喧嘩した回数」
「最後いる?」
「仲が良いだけだと、殺すほどこじれたと言われる。喧嘩して仲直りしない日もある方が現実的だ」
「恋愛助言?」
「政治的危機管理」
「王家、便利な言葉持ってる」
カイルは笑い、すぐ真顔へ戻る。
「もし、怖くなってエリアから離れたくなったら」
「うん」
「離れていい。守るため近くにいろ、とは言わない」
「君が守る?」
「俺も、本人へ聞く」
「王子なのに」
「王子だから、聞かずに決められる。だから聞く」
ハルは格子へ額をつけない。
中と外の距離を、悲劇の画にしない。
「今、頼み」
「何だ」
「エリアが一人で地図を持ちすぎたら、止めて」
「本人へ言え」
「言う。でも俺が疑われてる時、俺の言葉だけだと別の意味になる」
「分かった」
「約束?」
「担当」
「みんな約束を避ける」
「約束を軽くしない旅をしてきただろ」
格子の向こうで、カイルの左手が上がる。
私的な慰めの時、彼は左手で肩へ触れる。
格子がある。
届かない。
手は途中で止まり、代わりに焼き苺を床へ置く。
「あとで食え」
「届かない」
「出た後」
「出る前提」
「目標」
「変えた」
ハルは笑う。
笑えたことを、無罪の証明にはしない。
ただ、今の自分へ一つ足す。
夢の中の手にはなかった時間を。
ハルは紙片を静置室へ持ち帰る。
通信格子へ貼る。
エリアが見る。
「誰の地図」
「設備危険予測の子」
「肩書で呼ばない」
「名前、聞かなかった」
「次は聞いて」
「予測札じゃなく」
「本人が名乗りたいなら」
エリアは紙の横扉を指でなぞる。
「良い地図」
「存在しない道」
「存在しないから、悪い地図とは限らない。作れる位置へ描いてある」
「夢にも足す?」
「夢へ足す前に、現実へ出口を増やす」
その言葉が、後で一枚の作戦紙へなることを、二人はまだ知らない。
今はただ、檻の紙壁へ、小さな横扉の絵が一つ増えた。
五度目の夢。
ハルは、左手を見続けた。
傷。
刃。
指の長さ。
爪。
握り方。
刃は、人差し指を柄の背へ伸ばしている。
ハルは包丁でも短剣でも、指を巻く。
走ってぶつかった時、刃を落とさないため。
夢の手は、切るためでなく、突く距離を測る持ち方だった。
時計は一時十九分。
エリアが「ハル」と呼ぶ。
男の声。
『帰る』
父の声ではない。
ハルは今度、はっきり分かった。
父の声を、思い出せないからではない。
夢に、父の声が入っていない。
自分の恐怖を材料にした夢なら、最も古い恐怖が欠けている。
それは夢が自分を深く読んだ証拠ではなく、自分の外側だけを集めた証拠かもしれない。
刃が進む。
ハルは右手を増やさない。
左手へ聞く。
「お前、誰だ」
答えはない。
夢の手は、問いへ答えるために作られていなかった。