第511話 第四章「夢を証拠にしない」前編
証拠とは、真実の別名ではない。
刃物があれば、誰かが刺した可能性を示す。
血があれば、誰かが傷ついた可能性を示す。
足跡があれば、誰かがそこを歩いた可能性を示す。
しかし刃物は、持ち主の心を語らない。
血は、被害者の名前を自分で書かない。
足跡は、歩いた理由を知らない。
証拠はものを言わないから信用されるのではない。
ものを言わないものへ、人が勝手な台詞を足さないために、採取時刻、保管者、場所、変化を記録するのである。
夢は、よく喋る。
顔を見せる。
名前を呼ぶ。
殺す瞬間を見せる。
恐怖まで届ける。
だから証拠に向いているように思える。
実際は逆だった。
よく喋るものほど、誰の言葉が混じったかを分けなければならない。
「分類します」
セレナ・クロウは、灯網配信塔の入口で三枚の黒い証拠札を並べた。
一枚目。
『捜査資料』
二枚目。
『医療情報』
三枚目。
『予測広告』
危機局長ユーディが眉を寄せる。
「一つの夢です」
「一つの映像が、一つの法的性質を持つとは限りません」
「全市民が見た殺人です」
「全市民が同じ広告を見ても、全市民が商品を使用した証拠にはならない」
「広告と殺人予測を同じに?」
「配信された像が受け手の行動を促す点で比較しています。価値を同一視していません」
「言葉を分けすぎれば、緊急時に動けない」
「言葉をまとめすぎれば、誰でも拘束できます」
セレナは黒外套の内側から四枚目を出した。
『法的証拠』
その札だけ、裏返す。
「現段階では、ここへ置きません」
塔の警備官がざわめく。
カイルは王太子の半マントを外し、ゼロスター号の作業外套を着ていた。
身分を隠せてはいない。
赤金の髪と顔は、月冠祭以来、王都新聞が飽きるほど描いた。
それでも半マントを外す意味はある。
王子として命じるのでなく、立会人として入る。
「星律官クロウ」とユーディ。
「全市民の一致は、証明力を持たないと?」
「一致の原因が独立していれば、持ちます」
「独立?」
「百人が別々の窓から同じ火事を見たなら、火事の存在を強く示す。百人が一枚の配信灯を見たなら、示すのは配信灯の内容です」
「夢は各人の頭の中へ届いた」
「同じ井戸から水を引いた百軒は、百の水源ではありません」
ユーディは紙面を三度叩く。
「では、塔へ入って水源を確かめてください」
「許可範囲」
「配信履歴、予測入力、編集履歴」
「医療記録接続」
「患者情報です」
「今回の夢に医療情報が含まれた可能性があります」
「何を根拠に」
「まだ証拠にできない違和感」
ハルなら、そう言う。
セレナは違う言い方をした。
「夢像の手に、公開資料で確認できない傷があるという申告」
「申告は証拠?」
「調査開始の理由です」
「使い分けが多い」
「法は、人を動かす言葉を少なくとも同じ箱へ入れないためにあります」
カイルが口を挟む。
「箱の数が多すぎて、運ぶ者が潰れることもある」
「殿下は黙っていてください」
「一つだけ訂正。今は立会人」
「立会人カイル。黙っていてください」
「肩書を短くしたのに命令は残った」
「法的性質が変わっていません」
ロロの補助腕が、三枚の札を勝手に大きさ順へ並べ直す。
「で、塔はどこから開く」
「正面」とユーディ。
「それは人間の入口。機械の入口」
「同じです」
「同じに見せた設計は、だいたい修理工を嫌ってる」
塔へ入る前、入口広場で臨時の異議聴取が開かれた。
正式な裁判ではない。
拘束の根拠を、拘束されていない市民にも説明するための公開卓である。
最初に立ったのは、白階地区の菓子職人だった。
「私は夢で、ハルが刺すのを見た。今でも手が震える。見た恐怖まで偽物だと言うのか」
「偽物とは言いません」とセレナ。「恐怖は起きています」
「なら、その恐怖を根拠に閉じ込めていいだろう」
「恐怖を和らげる措置と、人の自由を奪う根拠を分けます」
「刺されてからでは遅い」
「だから現実の危険条件を調べます。刃物、場所、接近手段、動機、準備」
「夢で見えている」
「夢で見えたからこそ、現実にあるか確認する」
次は、幼い子を抱いた父親。
「もし拘束を解いて、夢どおりになったら、誰が責任を取る」
カイルが口を開きかける。
セレナが先に答えた。
「責任を取る、という言葉で死者を返せません。だから、判断理由、期限、変更条件、複数の確認者を残します。一人が『私が責任を取る』と言って全員を従わせる形にしない」
「王子でも?」
「王子ほど」
カイルは頷く。
「俺が保証すると言えば、安心する人もいる。だが、俺が間違った時に止められなくなる人もいる」
三人目は、夢治療を受ける女だった。
「夢を証拠にしないなら、私が夢で思い出した暴力も無かったことになる?」
広場の空気が変わる。
セレナはすぐに答えない。
「あなたが夢で思い出したことは、調査を始める理由になります。あなたの苦痛は治療対象になります。ただし、夢に出た顔だけで相手を有罪にはしません。現実の記録、身体痕、当時の証言を探す」
「夢しか残っていなかったら」
「分からないまま残る可能性があります」
「冷たい」
「はい」
否定しない。
「法が温かい嘘をつくと、別の人を焼くことがあります」
女は納得しなかった。
それでも、卓を去る前に言った。
「私の夢を、広告と同じ箱へ入れないで」
「医療情報として分けます。本人が望む範囲で」
「なら、そこだけは賛成する」
全員の賛成を取らない。
反対の中から、一つの条件だけを持ち帰る。
公開卓は、結論を速くするためではなく、速い結論が踏んだものを見えるようにするためにあった。
夢灯網の中央配信塔は、紙でできていた。
正確には、紙だけでできているように見せていた。
外壁は何千枚もの夢札。
柱は竹に似た星晶骨。
床は薄い樹脂紙を何層も重ね、歩く者の体重に合わせて硬さを変える。
塔の中央を、灯籠の列が昇っている。
個人の夢。
治療用の夢。
娯楽。
広告。
予測。
色の違う灯籠が、同じ風路へ載る。
「混線しない?」カイル。
「札の縫い方で区別します」と案内係。
「色ではなく?」
「色覚差、夢内変色、商業上の模倣があるため、縫い目と鈴音を併用します」
「テトが喜びそう」ロロ。
「色だけの信号、嫌いだからな」
ノクスは塔へ入らなかった。
紙粉が鼻へ入り、夢札の残り香が多すぎる。
外の階段を調べる役を本人が選んだ。
セレナは黒い証羽を一枚、入口へ置く。
証羽は、見たものを真実へ変える道具ではない。
置いた場所の光、音、時間を限られた範囲で記録する。
記録しなかったものは残らない。
再生する者の角度も混じる。
「入口時刻。都市標準、二十時十三分」
右手で書く。
手首に熱。
固定帯は外れたが、雷鎖法廷での長時間筆記から腱がまだ戻り切っていない。
セレナは筆圧を落とす。
痛みを無視することは、強さではない。
証拠の字を読めなくする行為である。
「代筆」とカイル。
「綴りが雑」
「王太子教育を疑ってる?」
「あなたの始末書を二十七枚読んでいます」
「二十六」
「一枚、名前を書かず出したものがあります」
「それは始末書として数える?」
「今、二十八枚目を作りますか」
カイルは黙った。
「有効」とロロ。
第一層は夢の受入口だった。
市民の寝室から上がった紙灯籠が、細い針へ引っかかる。
夢の断片が糸へほどける。
色。
音。
形。
触感。
匂い。
すべてが揃う夢は少ない。
「匂い線は」とセレナ。
案内係が壁の細い溝を示す。
「薄い緑。通常、全夢の一割程度」
「今回の共通夢」
「匂い線なし」
「欠落として記録された?」
「匂い情報ゼロ」
「未取得と、匂いがなかったは別です」
「受け手全員が匂いを報告していないため、ゼロと」
「報告様式に匂い欄は」
案内係は用紙をめくる。
視覚。
聴覚。
登場人物。
危険行為。
発生時刻。
匂い欄はない。
「ないものは報告できません」
「自由記述へ」
「記述した人は?」
「二十七人が『匂いを覚えていない』。十二人が『無臭』。他は空欄」
「空欄を無臭へ数えた?」
「予測処理上、欠損値は中央値へ」
「匂いの中央値とは何です」
案内係が詰まる。
ロロが壁の配線を覗く。
「中央値じゃなく、計算から抜いてる。見ろ。匂い線だけ予測核へ入ってねえ」
「仕様です。匂いは個人差が大きい」
「個人差が大きいから抜いた?」
「予測精度を下げるため」
「精度を下げる情報は、現実を区別する情報かもしれません」とセレナ。
「ばらつきは雑音です」
「誰にとって」
「モデルにとって」
「モデルが読みやすい世界へ、人を揃えたのですね」
第二層へ上がる階段はなかった。
夢札の帯が、螺旋に回っている。
足を置けば硬くなる。
次の一歩を予測し、先に床ができる。
「予測階段」と案内係。
「今の事件に相応しいな」とカイル。
「一歩を外したら?」ロロ。
「通常歩容から外れない限り」
「通常って誰」
「成人標準」
ロロは身長百四十九センチ。
四本の補助腕。
成人標準ではない。
彼が一歩乗る。
床が遅れる。
「ほらな!」
補助腕二本が上の夢札を掴む。
本人の左手が縁へかかる。
右手は工具箱を離さない。
カイルが腕を伸ばす。
「掴まれ!」
「どの手に!」
「本人の!」
「四本も本人だ!」
「生身の左!」
ロロが掴む。
カイルは引き上げる。
盾を出さない。
王盾炎を使えば床全体へ熱が流れ、夢札を焼く。
セレナは安全な場所から叫ぶ。
「階段を停止!」
「停止すると全帯が軟化します!」
「では標準歩容を変更」
「即時学習には三十歩」
「三十歩落ちろって?」ロロ。
「補助入力を」とセレナ。
ロロが工具箱から四枚の金属板を投げる。
一枚目、短い足。
二枚目、補助腕。
三枚目、工具箱。
四枚目、三点支持。
床へ貼る。
「俺の歩き方を、俺より先に決めるな!」
予測階段が形を変える。
ロロの一歩へ追いつく。
「機械へ怒鳴って学習させた」とカイル。
「怒鳴りは入力じゃねえ。板だ」
「感情の出力は?」
「無料」
「珍しい」
「お前に請求する!」
階段を上り切った時、ロロの呼吸が細く鳴った。
紙粉。
気管支。
「喘息」とセレナ。
「一」
「吸入」
「まだ」
「申告と判断は別です」
「お前ら、全員メイに感染した?」
「感染症ではありません」
「言い方!」
それでもロロは吸入器を使う。
自分の身体を、修理可能な機械より後へ回さない。