第518話 第七章「夢にない匂い」後編

 廃棄場の管理人は、眠ったまま働いていた。

 身体は受付椅子。

 意識は夢内の焼却炉。

 ソムナが個別の出口線を送り、管理人だけを起こす。

「全員では?」ハル。

「聞く人だけ。休息を仕事の都合で一斉に奪わない」

 管理人が目を開ける。

 五十代の女。

 頬へ紙粉。

 寝起きの手で、まず自分の名札を確かめる。

「ネラ・ヒューム。今、何時」

「都市標準、三時十二分」とセレナ。

「勤務は」

「夢内継続中」

「身体は」ソムナ。

「口が乾いた。脚はある」

「水」

 飲む。

 セレナはすぐ質問しない。

 覚醒後の現実負担を確認する。

「十四灯の交換を覚えていますか」

「十二を外して十四を入れた」

「指示」

「自動。保全局。緊急だから承認なし」

「古い灯籠十基が燃却済み」

「燃やした」

「通常より早い?」

 ネラは目を閉じ、作業時刻を探す。

「通常は朝色の後。今回は即時」

「なぜ」

「予測像の残留が市民を混乱させる、と札に」

「誰の文」

「自動文。末尾に保全官確認」

「ベレト・カーム」

「たぶん。名は見てない」

 セレナは「たぶん」を名へ変えない。

「燃却炉の記録」

「夢内」

「原本を保全できますか」

「止めれば、今夜の医療紙も止まる」

「分けられる?」ロロ。

「古灯炉と感染紙炉は同じ熱路。排出箱は別」

「燃やした灰」

「西箱」

 灰にも記録が残る。

 紙の繊維。

 樹脂。

 夢液の塩。

「取る」とセレナ。

「誰の許可」ネラ。

「管理人として、あなたに求めます」

「取ったら、夢の秘密が漏れる?」

「内容は再生しない。灯籠の年代と交換時刻だけ」

「なら、三掬い。全部はだめ」

「理由」

「死者の夢も混じる。全部を証拠にされるのは嫌」

「三掬い。採取位置をあなたが選ぶ」

 ネラは西箱の端、中、底を指す。

 ノクスが先に嗅ぐ。

 端は古い。

 中は新しい。

 底に白塗料。

 セレナが別々の袋へ。

「ノクスの鼻を記録へどう書く」とハル。

「嗅覚反応。右尾一、左耳後退、鼻鳴一。意味は断定しない」

「細かい」

「後で別の人が別の意味を足さないため」

 ノクスはネラの椅子の下へ座る。

 管理人の手から、古い灯籠と同じ煤の匂い。

 ネラが手を差し出す。

「触る?」

 ノクスは額を当てない。

 鼻先だけ近づけ、離れる。

「断られた」とネラ。

「嫌われた?」ハル。

「翻訳停止」と全員。

 声が揃う。

 ノクスがハルだけ噛んだ。

 廃棄札の発行元は、予測保全局だった。

 夢灯網の塔とは別に、町の改装と予防計画を扱う行政棟。

 入口には、眠る目を模した紋章。

 閉じた瞼の中央へ、小さな鍵穴。

 ノクスが扉の前で止まる。

 破られた約束の匂いがする時、背びれが青く光る。

 光らない。

「犯人なし?」ハル。

「ノクスは犯人検知器ではありません」とセレナ。

「約束違反なし」とエリア。

「ここに入った人間が、誰とも約束してないだけかも」とロロ。

「それ、もっと怖い」カイル。

 扉は自動で開く。

 中に人はいない。

 机が二十。

 椅子が二十。

 眠っている職員が二十。

 全員、勤務中だった。

 夢灯都市では、夢の中で事務をする職種がある。

 身体は寝台へ置き、意識だけ共同作業場へ入る。

 紙の帳簿は自動筆がめくる。

 夢内で出した判断が、現実の署名へ変換される。

「起こせる?」ハル。

「強制覚醒は危険」とソムナの伝話。

 彼は夢療室から、接続状況を確認している。

『現実側で火災や身体危機がない限り、個別出口を開く。全員一斉はしない』

「時間」

『最短でも二十分』

「その間に記録」セレナ。

 彼女は自動筆の動きを見る。

 筆は休まず、命令を書いている。

『白階段東壁へ補強板』

『十四灯の照度統一』

『下段視界確保のため露店撤去』

『上段保護室へ医療寝台搬入』

 夢の舞台を、細部まで現実へ寄せる命令。

「止める」とカイル。

「停止権限が」とロロ。

 操作盤へ潜る。

「危機局長、予測保全官、夢療監査官。三者二署名」

「ユーディは白階段。予測保全官は」

 名札。

『ベレト・カーム』

 ハルは、第七版記録で会った男を思い出す。

 薄茶の髪。

 左右の袖口の長さが違う。

 「確率は市民へ理解されない」と言った声。

「どこ」

 職員位置表示。

 ベレトの席だけ、空。

「白階段指揮所へ出向」とセレナ。

「ユーディと一緒」

「二署名が同じ場所」

「止められる?」

「二人が同意すれば」

「同意しなければ」

「設備を物理停止」ロロ。「ただし全市の夢療、火災予測、睡眠診療も落ちる」

 万能な停止はない。

 危険な網だけ切ろうとすれば、救命の網も同じ線を通っている。

「分けるには」エリア。

「配信層、予測層、医療層、作業命令層。今は一つの核から出てる。分離に三時間」

「殺人予測の時刻は明日」ハル。

「夢の時計は全員違う」とセレナ。「正確な実行時刻は未確定」

「行動計画の完成予定」

「白階段の改装完了まで四十六分」

 未来の時刻は分からない。

 舞台が完成する時刻は分かる。

「じゃ、四十六分を期限にする」ハル。

「殺人の期限ではない」とエリア。

「舞台を止める期限」

「賛成」

 自動筆の一本が、別の命令を書いた。

『市民の混乱を避けるため、発生見込み表示を七十一から七十八へ補正』

「補正?」セレナ。

「上がる根拠がない」ロロ。

 記録を開く。

 予測モデルの内部値は、六十六。

 表示値だけ七十八。

「不安を与えないため段階語へ変換してたはず」とハル。

「今度は、行動遵守率を上げるため危険側へ表示を変えています」とセレナ。

「数字が説得役」カイル。

「予測ではなく命令の道具」

 自動筆の署名欄。

 夢灯網自動決裁。

 人名がない。

「誰も決めてない?」ハル。

「最初に、危険時は遵守率を上げる表示を許可した人間がいる」とセレナ。

「それが今の数字まで決めた?」

「違います。過去の規則、現在の入力、自動判断、停止しなかった管理者。責任は分かれる」

「分けたら薄くなる」

「薄くして消してはいけない。分けず一人へ積んでもいけない」

 嵐庭園の事故報告書。

 誰も壊していないのに壊れた庭園。

 似ている。

 しかし今は、意図を持つ誰かが混じっている可能性がある。

 自動網だけに罪を着せれば、その人間は消える。

 人間一人へ罪を積めば、網は次も同じことをする。

「二つ調べる」とハル。

「何を」

「網がどう動いたか。誰が網を動かしたか」

「犯人と制度を分ける」

「分ける。でも、別々に終わらせない」

 最初の職員が目を覚ました。

 アサ・ノーンだった。

 職員ではない。

 非常時の市民保安連絡員として、夢内の案内作業へ参加していた。

 長期夢療後の筋力低下で現場警備へ常勤できない彼らは、避難者の退出意思を確認する役を引き受けている。

 椅子から起き、すぐには立たない。

 血圧が戻るのを待つ。

「アサ」ソムナの声。

「いる」

「出口」

「見える」

「体」

「脚、遠い」

「三十秒」メイの声。「立たない」

 アサは頷く。

 胸の『退出可』札が、眠っている間に裏返っていた。

 表へ戻す。

「夢内で何をしていた」とセレナ。

「避難案内。白階段へ」

「誰の指示」

「灯網」

「人間の担当者は」

 アサは長く黙る。

 待つ。

「ベレトが、案内文を直した」

「どこを」

「『推奨』を『必須』に。『複数経路』を『白階段経由』に」

「理由」

「迷う人を減らすため」

「あなたは反対した?」

「した」

「記録」

「ない」

「なぜ」

「夢の中で声を出すと、皆へ聞こえる。個別に話す場所がなかった」

「沈黙を同意にされた」

「沈黙してない。反対した。消された」

 アサの声が、少しだけ硬くなる。

 セレナは訂正する。

「反対発言が記録されなかった」

「うん」

「ベレトは今」

「先に退出した」

「時刻」

「分からない。夢に時計が多すぎる」

 アサは立つ。

 杖を取る。

 右手の袖が、少し上がる。

 掌の付け根に、斜めの薄い傷。

 夢の手と同じ位置。

 ハルが見る。

 アサも、ハルの視線を見る。

 袖を下ろさない。

「夢で見た?」

「傷だけ」

「私の」

「似てる」

「医療記録にある」

 その言葉で、部屋の空気が変わる。

 予測網は、市民の夢だけでなく、治療記録へ接続している。

「いつの傷」とセレナ。

「夢療を中断した夜。退出扉の硝子で切った」

「公開」

「してない」

「誰が見られる」

「治療者。夢療監査。緊急保安」

「予測保全官は」

「緊急時だけ」

 緊急は、今。

 ハルの夢にある手は、ハルのものではない。

 エリアを呼ぶ声も、エリア本人が発していない。

 赤いマフラー、左手、傷、刃。

 市が持つ情報から、犯人役が合成されている。

 誰かが、その材料を選んだ。

 ノクスはアサの傷へ近づかない。

 代わりに、アサの袖口を嗅ぐ。

 蒼苦葉。

 新しい灯籠と同じ。

 アサが触れたからか。

 アサの記録を使った誰かが、同じ医療棚へ入ったからか。

 まだ答えではない。

 しかし夢にない匂いは、現実で誰が何へ触れたかを、黙って残していた。

 白階段の配信灯が鳴る。

『市民行動計画、最終段階へ移行』

 地図上で、北と東の脇路が閉じる。

 エリアの保護室。

 ハルの立会位置。

 アサの保安配置。

 三つの点が、夢と同じ線へ入る。

「ベレトは白階段」とカイル。

「ユーディも」セレナ。

「行く」とハル。

「待って」とエリア。

「四十六分」

「今、二十九」

「減った」

「時間は通常減ります」

「君、来る?」

「被害予測対象として、行かない選択もあります」

「どうする」

 エリアは地図を見る。

 白階段へ行けば夢に近づく。

 行かなければ、市民は彼女を守るためさらに集められる。

 どちらも予測の材料になる。

「第三の道を作ります」

「どこ」

「白階段へ行く。でも、夢の配置では立たない」

「俺は」

「来る。ただし赤いマフラーは外す。左手に何も持たない。私から七段下へ立たない」

「細かい」

「細かくない条件は、夢に吸収される」

「了解」

「アサ」

 エリアは、傷を見ず、顔を見る。

「保安配置を断れます」

「断ったら、別の人が入る」

「入るかもしれない」

「私が入る。夢の傷を、犯人の証拠にさせない」

「危険です」

「危険だから選べない、にはしないで」

 アサは杖を床へ一度つく。

「退出可。途中で抜ける。理由は後」

「記録します」とセレナ。

 ハルは、アサの傷へ意味を足さない。

 被害者でも。

 容疑者でも。

 予言の手でも。

 本人が今選んだ役だけを聞く。

 ノクスが扉へ向かう。

 匂いの線は、白階段の上へ続いていた。

 夢には存在しない、塗料と薬草と人間の手の匂い。

 未来には残らない。

 現在にしか残らない証拠を追って。