第517話 第七章「夢にない匂い」前編
人間は、匂いを証言にするのが苦手である。
見たものには輪郭がある。
聞いた言葉には順序がある。
触れた傷には位置がある。
匂いは、そこにあった時より、なくなってから強く思い出される。
雨上がりの土。
帰宅した家の味噌汁。
病室の消毒薬。
燃えた髪。
だが法廷へ持ち込もうとすれば、瓶へ詰める途中で薄まり、時間とともに変わり、同じ言葉で呼んだ二人が同じものを嗅いだ保証もない。
そのため人類は長く、匂いを「気のせい」の近所へ住まわせてきた。
ノクスにとって、それは人間側の事情だった。
白い階段の下。
ノクスは鼻を上げた。
甘い。
刺す。
乾く途中。
石粉。
油。
夜露。
汗。
不安。
塗料の匂いは一つではない。
夢灯都市の白塗料には、夜でも乾燥を進める眠り樹脂が混ぜられる。樹脂は塗りたてほど甘く、乾くと苦く、三日を越えると紙のような匂いになる。
階段は甘い。
昨日。
あるいは今朝。
橙灯籠の吊り糸も新しい。
古い灯籠は人の夢を吸って、寝汗と薬草と煤を薄く重ねる。
十四基のうち十二基は新しい。二基だけ古い。
夢では、全部同じだった。
人間は同じ色を見て、同じ物だと思う。
ノクスは違う時間を嗅ぐ。
「ナァ」
右尾を階段へ。
左尾を作業車へ。
「階段と車」とハル。
「塗料と搬入元」とエリア。
「新旧差」とセレナ。
「全部違う」とロロ。
ノクスは四人を順に噛んだ。
「俺だけ強くない?」ハル。
「翻訳の幅が最大だったからでは」とセレナ。
「本人へ聞く」エリア。
彼女はしゃがむ。
手を伸ばさない。
「階段」
ノクスの右耳が動く。
「塗料」
両耳。
「新しい」
右尾が一度。
「灯籠」
左尾が二度。
「二種類」
ノクスは鼻から短く鳴らした。
「合ってる」とハル。
「あなたは今、何を根拠に」
「顔」
「前にそれで噛まれたでしょう」カイル。
「学習には回数が要る」
「噛まれる側の同意は」
「ノクス、次も噛む?」
「ナァ」
「同意」
「多分、脅迫です」とセレナ。
ノクスは彼女だけ噛めず、黒外套の裾を引いた。
夢に匂いがなかったことは、予言が偽物だと即座に証明しない。
夢には匂いが少ない人もいる。
共有夢は感覚を削って軽くする。
未来の匂いだけ届かない魔法も、理論上はあり得る。
手掛かりは、答えではない。
答えへ向くための、方向の差である。
「採取します」セレナ。
彼女は白塗料を三箇所から紙羽へ移す。
階段中央。
下段の手すり。
十四番灯籠の基部。
右手首が熱を持ち、筆を左へ持ち替える。
「三箇所?」ハル。
「同じ塗料に見えても、塗布時刻と道具が違う可能性」
「匂いで分かる?」
「私は分かりません」
「堂々」
「分からないことを、分かる者の記録と混ぜません」
ノクスが階段中央を嗅ぐ。
次に手すり。
灯籠基部。
中央は眠り樹脂。
手すりは安い速乾油。
基部には金属磨きと、見覚えのある工房石鹸。
ロロの補助腕が一斉に止まる。
「うちの?」
ノクスはロロの黄色い作業上着を嗅ぐ。
基部を嗅ぐ。
「ナ」
「同じではない」とエリア。
「近い系統」とセレナ。
「王都下面区の機関石鹸は油落ちが強い。こっちでも使ってんのか」
ロロは基部のねじを見る。
「ねじ頭、星六。夢灯規格じゃねえ。雷鎖の新規格」
「第四天鍵の共同保管部品が流用された?」カイル。
「違う。千鎖断線後に大量生産した締結具だ。救難用の余剰をネムリアが買った」
「正規購入?」
「印はある」
ロロが小型鏡を差し込む。
「発注番号も」
「追える」セレナ。
「追えるけど、締結具を買った奴が殺人犯とは限らねえ」
「正しい」
「褒めても値引きしねえ」
「請求先は都市危機局です」
「最高」
作業車は無人だった。
ネムリアでは珍しくない。
夢灯網は夜ごとの人流と夢量を読み、灯籠の移設、道路の修繕、寝台の増設を自動で発注する。
眠りながら変わる町は、起きた人間の許可を一つずつ待たない。
待たないことで救えた命もある。
火災夢が増えた夜、三百の紙壁を夜明け前に外した。
感染夢が広がった週、診療所の寝台を市場へ増設した。
子供が同じ転落夢を見た月、百二十七の屋根へ手すりを付けた。
夢灯網は、何度も町を救った。
救った実績は、次に出す命令を正しくしない。
しかし、正しい命令を積み重ねた機械ほど、止めることは難しい。
「運行札」とロロ。
作業車の腹へ潜る。
四本の補助腕が、車輪、記録筒、動力弁、停止鎖へ伸びる。
「昨夜零時十三分、青灰階段を白へ。零時十九分、灯籠十二を撤去、十四を設置。零時二十二分、上段保護室の壁を薄紙から防刃紙へ。全部、夢灯網の自動指示」
「承認者」とセレナ。
「緊急運用だから不要」
「起動条件」
「殺人発生見込み五十超え」
「五十を超えたのは」
「零時十二分」
「塗装命令の一分前」
「その前の予測値」
「四十七」
「何で三上がった」ハル。
ロロの補助腕が記録筒を早送りする。
「市民行動の更新……いや、違う。危機局がエリアの到着予定を公開した」
「私の位置情報」
「それで予測が上がり、自動改装が始まった」
「到着を公開したのは」とカイル。
「局長ユーディの署名」
「犯人?」
「まだ」とセレナ。
「公開理由は保護協力の募集。救難側の判断として説明可能です」
「説明可能なら無罪?」
「説明可能と正当は違う。正当と無害も違う」
「三段」
「事件は、二択より段数が多い」
ノクスが作業車から離れた。
匂いが続いている。
白塗料。
眠り樹脂。
金属磨き。
それに、薄い薬草。
傷口を洗う蒼苦葉。
作業員が怪我をしたのか。
医療者が触れたのか。
夢の中にある掌の傷と関係するのか。
ノクスは道を走る。
「待て!」ハル。
ノクスは待たない。
誰かが先に行くたび、ハルは止める側の言葉を覚えてきた。
覚えたからといって、自分が止まれるわけではない。
「先に飛ぶな!」カイル。
「飛んでない!」
「走って先行するな!」
「君も走ってる!」
「止めるためだ!」
「目的が違えば足の速さは許される?」
「今それを議論するな!」
「追いついたら!」
ハルは灯籠屋根へ。
エリアの声が飛ぶ。
『右屋根、三枚目が補修前!』
「どの右!」
『あなたの進行方向!』
「今、回った!」
『回る前の!』
「歴史的な右!」
『屋根の端へ淡緑線を出します!』
白い線ではない。
夢の色と混同しない。
淡緑の路図が、屋根の梁だけを示す。
ハルは踏む。
一枚。
二枚。
三枚目を避ける。
カイルは下の通り。
盾を開けば群衆が王家の避難命令と受け取るため、右腕の王盾炎を封じたまま走る。
「どけ、とは言わない!」
「じゃ何を言う!」と露店主。
「俺が通る! 止めたい人は止めてくれ!」
「変な王子!」
「知ってる!」
人々が笑い、少しだけ道が開く。
命令ではなく、頼みで空いた道。
ノクスは紙壁の隙間へ飛び込む。
ハルが屋根から降りる。
右手で縁。
腰で回る。
左肩へ荷重を入れない。
狭い路地。
夢灯の廃棄場。
使い終わった紙灯籠が、平たく畳まれて積まれている。
夢を抜かれた紙は、普通の紙より軽い。
人の悲しみを入れていたとは思えないほど、風で簡単に飛ぶ。
ノクスは一つの山へ前脚を掛けた。
「何がある」
紙の下。
橙灯籠二基。
古い。
町で外された十二基のうち二基だけ。
「残り十基は?」ロロが追いつく。
廃棄札を見る。
「燃却炉へ」
「もう燃やした?」セレナ。
「自動搬送、零時四十分」
「夢像の旧配置を示す物証が消えた」
「改装の通常工程でもある」
「通常工程が、結果として証拠を消した」
「結果として、で止めろ」とロロ。「誰かが消させたかは別だ」
ノクスは古い灯籠へ鼻を押しつける。
煤。
寝汗。
柑橘薬。
子供の蜜飴。
古い町の匂い。
夢にはない。
新しい灯籠を嗅ぐ。
樹脂。
金属。
白塗料。
蒼苦葉。
そして、紙札を扱う者の指油。
同じ匂いが、廃棄札の端にある。
ノクスは札を咥える。
「証拠を食うな!」セレナ。
ノクスは飲み込まず、床へ置く。
「偉い」ハル。
「当然です」
「君、ノクスへの基準高いな」
「人間と同じです」
「俺、前に証拠の砂糖食べた」
「ノクス以下という自己申告を記録します」
「撤回」
「記録済み」
ノクスが廃棄場を出ようとした時、上で紙骨の折れる音がした。
人間の耳には、乾いた枝を踏んだ程度。
ノクスには、屋根の三本目の梁が荷重を失い、四本目へ重さを渡した音まで分かる。
二本の尾が上を指す。
「下がれ!」ハル。
見物人が夢像を見るため、廃棄場の薄屋根へ集まっていた。
紙屋根は、崩れて逃げ道を作るよう設計されている。
だが下に人がいれば、逃げ道は落下物になる。
梁が沈む。
子供が一人、橙灯籠の吊り索へ足を取られた。
ハルが走る。
「左肩!」エリア。
「使わない!」
右足で廃紙の山へ上がり、右手で屋根縁を取る。
身体を振り上げず、膝を畳んで高さを稼ぐ。
ノクスが先に屋根へ飛ぶ。
子供の上着の襟を咥え、引く。
だが吊り索が足首へ絡む。
ロロの補助腕が下から伸びる。
「索を切る!」
「灯籠が落ちる!」露店主。
「人より先に商品を叫ぶな!」
「中に祖母の夢が入ってる!」
ただの品ではない。
人より大切ではない。
人と切り離せないことはある。
「落下先、空けて!」カイル。
盾を広げない。
両腕で人を押し退け、屋根下へ空間を作る。
「今!」
ロロが通常の吊り索だけを切る。
切れない。
「何だこれ!」
紙糸の内側へ、黒い金属線が通っている。
新しい。
細い。
異常な張力。
「灯籠用じゃねえ!」
補助腕二本で線を押さえ、一本で外皮を裂く。
最後の腕が子供の足首から輪を外す。
ハルが子供を受け取る。
左肩へ体重を載せないよう、胸ではなく右腰へ抱える。
「痛み」エリア。
「一!」
「子供」メイの遠隔声。
「意識あり!」
「名前」
「聞く!」
「名前、リム!」と本人。
「リム、足」
「痛いけど動く!」
「自分で言える。偉い」
「偉いって言われると痛くないふりするから、普通でいい!」
ハルが目を丸くする。
「この町の子、同意教育が強い」
「痛いままで普通」とアサの伝話。
屋根が崩れる。
全員が退避した後。
廃紙の上へ、夢灯籠と梁が落ちた。
ロロは切り取った黒線を持ち上げる。
「これ、灯籠を吊るす線じゃない。滑走用だ」
「何を滑らせる」とセレナ。
「軽くて薄い物。刃、札、撮影鏡。張れば手すり沿いに一直線」
白階の夢。
手に持たれたように見えた細い刃。
「発注記録」とエリア。
「作業車の補強材一覧にはない」
「誰かが後から入れた」ハル。
「可能性」とセレナ。
「今は可能性。線は証拠」
ノクスが黒線を嗅ぐ。
新しい金属油。
眠り樹脂。
蒼苦葉。
そして、灯網塔の紙粉。
二本の尾が、同じ方向を指す。
行政棟ではなく、その上に立つ中央配信塔。
未来の像より先に、現実の凶器の道が作られ始めていた。