第516話 第六章「公共線、通過駅」後編
公共救難線は、朝汽笛分岐へ戻った。
足場板に、妊婦はいなかった。
祖母と子供だけ。
テトが列車から跳び降りる。
「どこへ!」
「旧採鉱索へ」と祖母。「荷運び船が拾った」
「出血は」
「増えた。薬箱はこっち」
イヴァが改札鋏を鳴らさず、祖母の前へ膝をつく。
「名前」
「記録へ?」
「呼ぶため」
「ルア」
「ルア。何が必要」
「追って」
「列車は旧採鉱索へ入れない」
「じゃ、何のための救難線」
イヴァは答えない。
問いに答えるより先に、列車の限界を変える仕事がある。
「テト」
「はい」
「小型救難車を切り離す」
「俺が」
「地域車掌として決めろ」
テトは時刻表を見る。
中央診療車は先行済み。
本列車には慢性患者十二、荷物三十七、機関士二。
小型車を切れば、帰路の牽引力が落ちる。
「切ります」
「理由」
「通過して消した情報を取り戻す」
「乗客へ説明」
テトは放送口へ立つ。
「次は――」
いつもの口癖で始める。
止まる。
「次ではありません。今、予定を変えます」
乗客が顔を上げる。
「朝汽笛分岐で診療予定者を通過しました。中央救命を優先したためです。通過後、妊婦の出血が増え、別船へ移りました。小型救難車を追わせます。本列車は遅れます。反対の方は、ここで理由を聞きます」
沈黙。
沈黙を賛成へ数えない。
「反対札は四角、賛成札は丸、保留は三角です。声で言わなくていい」
札が上がる。
丸。
丸。
三角。
四角。
一人の反対。
イヴァはその人の席へ行く。
「理由」
「薬の時間だ。遅れると発作が出る」
「代替」サナの助手が確認する。「車内薬で二十分延長可能」
「費用」
「公共線負担」
「なら丸」
札が変わる。
全会一致ではない。
情報が増え、条件が変わった。
小型車が切り離される。
テトが乗る。
イヴァは残る。
「師匠は来ない?」
「地域車掌が決めた」
「失敗したら」
「記録して戻れ」
「成功したら」
「記録して戻れ」
「褒めない?」
「戻ったら焼き林檎」
具体的な食べ物。
恐怖だった。
テトは笑う。
「二個」
「一」
「俺が救うのに」
「公共費」
「ケチ」
「運行」
小型車が暗い索へ飛び出した。
小型救難車は、列車というより工具箱に車輪を付けたものだった。
座席二。
薬棚一。
牽引索二。
屋根なし。
テトは大きすぎる車掌帽を顎紐で固定する。
「次は――旧採鉱索」
放送する乗客はいない。
それでも声に出す。
自分がどこへ向かうかを、本人が聞き失わないため。
雷鎖の名残が遠くで光る。
旧採鉱索は地域小網から外され、時刻脈がない。
地図には線がある。
現在の安全はない。
車輪が錆びた接続点へ入る。
右の索が低く鳴る。
左は無音。
テトには赤と緑の信号が同じ暗さに見える。
だから色を見ない。
音程。
板の形。
風の震え。
「右、生きてる。左、切れ」
右へ。
小型車が傾く。
下は雲。
「停まってから考えよう」
口癖。
停止弁。
効かない。
「停まれないから考える!」
矛盾ではない。
条件変更。
テトは牽引索を一本、前の支柱へ撃つ。
届く。
車体が回る。
次の停車位置を足元へ示す標〈ネクスト・ストップ〉が出る。
光の標は、線路の先ではなく、右下の荷運び船を指していた。
「駅じゃない」
標は駅名を示さない。
次に止まれる場所を示す。
「そういう意味か」
テトは小型車を索から外す。
落下。
荷運び船の帆へ。
「車両が降ります!」
「何だと!」
船員が上を向く。
小型車は帆へ落ちず、牽引索で船尾へ振られる。
衝撃。
テトの左肩が座席へ当たる。
痛み二。
「救難線です! 妊婦ルア!」
「船倉!」
船倉では、ルアが横になっていた。
出血。
意識あり。
「医者?」
「車掌」
「帰って」
「医療車は中央へ行った。応急薬と伝話を持ってきた」
「列車が止まらなかった」
「はい」
言い訳を先にしない。
「戻った」
「遅い」
「はい」
「それでも、薬」
「使う?」
ルアが頷く。
テトはサナの遠隔指示を一つずつ読む。
薬を渡す。
身体へ触れる前に聞く。
出血量を測る。
車掌の技能ではない。
だから、自分だけで治したことにしない。
「船を次の小網へ」とテト。
「採鉱索は切れてる」船長。
「救難車を信号中継へします。公共線が迎えに来る」
「また通過したら」ルア。
「今度は、あなたの緊急度を先に送る」
「今度がある前提」
「失敗の後、同じ道をなくさない」
ルアは目を閉じる。
「焼き林檎、二個」
「何」
「帰ったら、師匠に請求する」
恐怖を食べ物へ変えた。
テトは伝話札へ、初めて自分の判断で発信する。
『朝汽笛患者へ接触。出血継続、意識あり。旧採鉱索使用不能。荷運び船を仮駅とする。迎えを求む。』
仮駅。
駅は建物ではない。
誰かが、ここで止まる必要を伝え、別の誰かが止まると決める関係だった。
伝話から十九分後、中央小網から切り離された診療車が、荷運び船へ横付けした。
妊婦ルアは船底へ横たわっている。
出血は止まりきっていない。
同行者は夫ではなく、同じ集落のパン焼き職人。
「夫は」とテト。
「朝汽笛で発電機を直してる」祖母が答える。「停電すれば保温箱が止まる。そっちも命だ」
一人の患者を運ぶと、残った場所の仕事が一つ減る。
列車の時刻表には、そこまで書かれていない。
サナの助手が処置を始める。
「中央へ運ぶ。本人同意を」
ルアは目を開ける。
「帰りは」
「中央で治療後、次便」テト。
「次便、いつ」
答えられない。
公共救難線は、緊急時に人を運ぶ線として始まった。
戻す便は、まだ時刻表へない。
「夫と子供を置いて、知らない日に帰る?」
「今は治療が」
「行かない、じゃない。帰る約束が欲しい」
テトは自分の車掌帽を押さえる。
師匠なら、救命を優先して運ぶかもしれない。
本人が拒む時、意識低下を待って代理判断にすることもできる。
それは法的に可能な場合がある。
可能と、今するべきは違う。
「中央へ着いた後、俺がこの車で戻す」
「運行許可」助手。
「地域車掌として仮便を作る」
「本列車へ戻れなくなる」
「戻れないなら、師匠が別の車掌を増やす」
テトは改札鋏を一度鳴らす。
「次の停車は、あなたが決めて」
ルアは息を整え、頷いた。
「中央。治療。帰りは朝汽笛」
「記録」
紙へ、目的地だけでなく帰着条件を書く。
その時、荷運び船の船主が、錆びた機械軸を持ってきた。
「これも中央へ」
「荷物?」
「朝汽笛の発電機の予備軸。中央工房でしか削れない」
「患者を優先」助手。
「これがないと、明晩の保温箱が止まる」
命と荷物を分ける分類が、生活では分かれない。
テトは車両の荷重を見る。
患者。
祖母。
助手。
自分。
機械軸。
上限を二十斤超える。
自分の工具箱を下ろす。
「帰りの修理は」助手。
「船の工具を借りる」
「合わなければ」
「その時、失敗を記録する」
工具箱を荷運び船へ預け、機械軸を載せる。
救難線は、人だけを救う線ではない。
人が戻って暮らせるための道具も運ぶ。
だが何でも救命と呼べば、また全荷物が同じ優先札を持つ。
だからテトは、紙へ理由と期限を書く。
『発電機軸。保温箱三台。明晩まで。』
数字は、数えなかったものを救わない。
なら、数える欄を増やすところから始める。
ネムリアの白階段へ、市民が集まる。
上段保護室へエリア。
下段へハル。
十二段目へ保安員。
橙灯籠十四。
夢の配置。
夢灯網は、現実が夢へ近づくたび、回避成功率を上げていた。
『九十三パーセント』
『九十四』
『九十五』
殺人発生見込みも上がる。
『七十一』
二つの数字が同時に上がる。
「おかしい」と市民が言う。
「回避できるのに、起きやすくなる?」
「予防策が効いている証拠だ」と別の人。
「危険が高いから対策が必要なんだ」
「対策したから危険が高くなったんじゃ」
数字は答えない。
配信灯は命令だけを繰り返す。
白階段へ。
白階段へ。
白階段へ。
エリアは地図の上で、人の流れが一本の太い線になるのを見た。
太い線は、見やすい。
見やすい道は、管理しやすい。
管理しやすい人流は、予測しやすい。
予測しやすくなったから、予測精度が上がる。
予測精度が上がったから、さらに人を同じ道へ集める。
「閉じた輪」と彼女は言う。
ハルが階段下から見上げる。
「切る?」
「まだ」
「何を見る」
「夢にないもの」
その時、ノクスが白い階段の下で立ち止まった。
鼻を上げる。
右の尾が、階段。
左の尾が、塗料を積んだ作業車。
「ナァ」
夢にはなかったものが、現実には濃く漂っていた。
乾いていない白塗料の、甘く刺す匂い。
白い階段は、明日の殺人を防ぐために、昨日塗られたばかりだった。
夢は未来を見たのではない。
夢を見た人々が、未来へ色を塗っていた。