第515話 第六章「公共線、通過駅」前編

公共交通が公共であるためには、全員を同じ場所へ運ぶ必要はない。

 同じ運賃である必要もない。

 同じ速さである必要もない。

 同じ形の駅を持つ必要もない。

 ただし、乗れなかった者を「需要がなかった」と記録しないことだけは必要だった。

 列車が止まらなかったため乗れなかった人を、乗客数ゼロと数えれば、その駅は翌年もっと止まらなくなる。

 数字は嘘をつかないと言われる。

 それは半分正しい。

 数字は、数えなかったものについて、完璧に沈黙する。

 雷鎖環ガルド。

 四十八の地域小網へ組み直された空域を、公共救難線の第一列車が走っていた。

 旧監獄列車の黒い外装は剥がされ、錆赤と白へ塗り直されている。

 格子窓は広げられ、独房は診療室、保温室、荷物室、相談室へ分けられた。

 扉には鍵ではなく、内外の両方から開けられる大型把手。

 しかし、車輪だけは昔のままだった。

 車両が過去を捨てたと言う時、最も重い部品はだいたい床下に残っている。

「次は、朝汽笛分岐。停車二分」

 イヴァ・レイルが放送する。

 低く、少し掠れた声。

 改札鋏は鳴らさない。

 私情だった。

 朝汽笛分岐には、十三番駅から移った家族が三組いる。

 名前を公開しないまま、定期診療へ通えるよう、正式駅ではなく「仮停車点」として登録した。

 列車は減速する。

 駅というより、二枚の足場板。

 錆びた風見。

 手旗を振る子供。

 車内の時刻脈が、緑から黄へ変わった。

『中央診療拠点の救命要請。呼吸停止一。予備薬不足』

 サナ・ホルムが診療車から出てくる。

「中央まで、今の速度で十二分」

「停車すれば」

「十五」

「朝汽笛の乗車予定」

 テト・ヴァンが帳面を見る。

 錆赤の髪。

 大きすぎる車掌帽。

 色の違いを音と形で補うため、信号札を角、丸、三角へ切り分けている。

「三人。妊婦一、祖母一、薬箱一」

「中央の呼吸停止」

「一人」

「優先」

 イヴァが言う。

 短く。

 人名を省く時ではない。

 駅名を省いた。

 怒りではなく、決断の速度だった。

「通過」

 テトが顔を上げる。

「停車条件は満たしています」

「救命要請が上位」

「朝汽笛の妊婦も診療へ行く」

「予定診療」

「出血札がある」

「量」

「未確認」

「確認に停車が要る」

「だから止まる」

「止まれば中央が三分遅れる」

「止まらなければ、こっちが何分遅れるか分からない」

「分からないものを、呼吸停止一より上へ置けない」

「分からなくしたのは、停まらないからだ」

 列車は足場板へ近づく。

 子供の手旗。

 丸。

 三角。

 丸。

 通常乗車。

 医療荷。

 介助必要。

 運行表示は黄。

 イヴァの左手が停止弁へ行く。

 止まる。

 そう見えた。

 しかし、中央から新しい要請が入った。

『呼吸再開なし。二名追加。』

 指が、弁の一寸手前で止まる。

「通過」

 イヴァは言った。

 列車が足場板を越える。

 子供の手旗が風で裏返る。

 テトは発車笛を吹かない。

 停車しなかった列車に、発車の合図は要らない。

 窓の外で、妊婦が片手を腹へ当てていた。

 祖母が薬箱を持ち上げる。

 子供が走る。

 追いつかない。

「記録」とイヴァ。

 テトは書かない。

「記録」

「乗客数ゼロ?」

「乗車予定三。通過一」

「理由」

「中央救命」

「朝汽笛側の損失」

「未確認」

「未確認にしたのは誰」

 イヴァが左耳をテトへ向ける。

 信頼の向き。

「私」

「俺も車掌です」

「命令したのは私」

「止める権限、地域車掌にもある」

「使わなかった」

「師匠が先に決めた」

「それで使えなくなる権限なら、権限ではない」

「じゃ、次は逆らいます」

「次を待つな」

「今、もう通過した!」

 テトの故郷訛りが強くなる。

 嘘ではない。

 隠していた恐怖が漏れた。

「戻る」

「中央は」

「診療車を切り離す。先行」

「今から?」

「今、決め直す」

 サナが間へ入る。

「診療車単独なら中央へ八分。ただし医師一、機関士一。こちらの応急能力が落ちる」

「朝汽笛へ戻るのは」テト。

「本列車で七分」

「三分を惜しんで、七分戻る」

「失敗の費用」イヴァ。

「高い」

「記録しろ」

 テトは帳面へ書く。

『中央救命を優先し朝汽笛通過。情報不足を理由にしたが、情報取得機会を運行側が消した。診療車先行、本列車折返し。追加遅延七分。』

「長い」イヴァ。

「短くすると、師匠が正しかったみたいになる」

「残せ」

 ネムリアでは、列車ではなく人が一方向へ走り始めていた。

 市民行動計画。

 北街路閉鎖。

 西避難区へ移動。

 白階段を経由。

 道ごとに浮かぶ紙灯籠が、矢印へ形を変える。

『こちらです』

『予測回避率九十一パーセント』

『指示外経路は危険です』

 声は柔らかい。

 子供を起こさない音量。

 柔らかな声は、強制を弱くしない。

「止まって!」

 エリアが叫ぶ。

 誰も止まらない。

 人々は命令されたからではなく、安全だと思って歩いている。

 前の人が歩くから。

 灯籠が示すから。

 夢で見た殺人現場から離れたいから。

「一つ前の交差路を開けて!」

 保安員が首を振る。

「閉鎖指示です」

「誰の」

「夢灯網」

「責任者」

「自動回避運用です」

「停止者」

「危機局長または予測保全官」

「どこ」

「白階段上段」

「二人とも夢の場所へ向かっているの?」

「指揮所がそこへ移りました」

 夢を避けるため、夢の場所へ指揮所を置く。

 最も危険な場所を最も守る。

 守るため人を集める。

 人が集まるから、そこが最も危険になる。

 都市は、理由を輪にできる。

 エリアは地図を展開する。

 現地図。

 夢像。

 行動計画。

 現在人流。

 四層。

 踵に熱。

 左肺が浅くなる。

「三層まで」とセレナ。

「必要です」

「削る」

「どれを」

「夢像。頭に入っている」

「記憶は地図ではありません」

「では行動計画を私が持つ」

「重ねなければ意味が」

「あなた一人で全てを重ねる必要はない」

 セレナが黒い証拠札へ、閉鎖路と配信時刻を写す。

 ロロの補助腕が、路上の投影柱へ四本の線を繋ぐ。

「現在人流、こっちで出す!」

 カイルが盾を展開せず、肉声で保安員へ指示を求める。

「王命は出さない。現地権限で開けられる避難口を教えてくれ!」

「王太子殿下が命じてくだされば」

「俺の命令へ責任を預けるな!」

「しかし」

「開ける根拠が要るなら、現場責任者として俺が署名する。終了時刻は一刻後。継続は別署名」

 王の言葉で扉を開ける。

 同時に、王の言葉が永遠にならないよう期限を書く。

 保安員が脇路の封鎖札を外す。

「東の古灯市場へ分散!」

「配信と違う!」と市民。

「違う道も安全にする!」カイル。

「予測不能です!」

「未来が俺たちを予測できないなら、今の俺たちが見る!」

 人流が一部だけ曲がる。

 だが、多くは白階段へ進む。

 配信灯の数字が上がった。

『殺人発生見込み 六十八パーセント』

「上がった」とロロ。

「人が夢の配置へ近づいたから」とエリア。

「じゃ回避率九十一は何だ」

「行動計画へ従った時に、別の被害を含めず算出した数字かもしれません」

「殺人は防げるけど、殺人の舞台は作る?」ハル。

 彼は静置室を出ている。

 王家の護衛線へ入らず、赤いマフラーを外して腰へ巻いた。

 顔を隠さない。

 しかし夢の記号を減らす。

「君、ここにいていいの」とエリア。

「出るか聞かれた」

「答えは」

「手伝う」

「それは場所ではありません」

「君の近く」

「近づくほど予測が」

「分かってる」

「では離れて」

「嫌」

「感情で条件を破らないで」

「君が一人で四層の地図を持つのも感情だ」

 エリアの地図針が止まる。

「私は」

「全部見れば、正しい道を作れると思ってる」

「実際に必要です」

「見えない人の分まで決める?」

「今は時間がない」

「雷鎖環で聞いた」

「だから、私に何をしろと」

 ハルは一を数える。

 二。

 三を言えない。

「一層、持つ」

「どれを」

「人」

「人流はロロが」

「線じゃなく、誰が止まってるか。誰が逆へ行きたいか。誰が歩けないか」

 エリアが地図針を抜く。

 不安の時、外して差し直す癖。

 差し直さない。

「具体的に」

「俺が聞く。君は、聞いた答えを道へ入れて」

「全員は無理」

「全員を一つにしなくていい」

 エリアの歩幅が半歩広がる。

「では、北市場から二十人。歩行困難、子供、逆行希望を先に」

「了解」

「先に飛ばない」

「走る」

「屋根は飛行です」

「足がついてる」

「一瞬、離れます」

「地図の定義、厳しいな」

「落下の定義はもっと厳しい」

 ハルは灯籠屋根を走った。

 紙でできた町の屋根は、軽い。

 軽い建物は壊れやすいと思われるが、ネムリアでは逆だった。

 地震も落石もない空域で、最も危険なのは夢に引かれて人が同じ場所へ集まることだ。

 屋根は人数を支えるためではなく、崩れて逃げ道を作るため薄く設計されている。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 ハルは踏み抜かない場所を、色ではなく梁の音で選ぶ。

 左肩は使わない。

 右手で縁を取り、腰で向きを変える。

 下の通り。

 杖の老人。

 眠った子を抱く女性。

 逆方向へ進もうとする配達人。

 紙箱を六つ積んだ店主。

「どこへ行きたい!」

「西避難区!」

「本当に?」

「灯網が!」

「あなたは!」

 質問が増える。

 安全な道は、目的地を聞かなければ作れない。

「薬屋へ戻る!」と配達人。

「何がある!」

「夢痙攣止め――じゃない、眠り莢の中和剤!」

「必要な人!」

「南診療棚!」

 ハルは白索へ青い紙片を結ぶ。

 薬。

 南。

 戻る。

 エリアの地図へ送る。

 老人は西へ行きたいが、階段を上れない。

 女性は避難区ではなく夫の工房へ行きたい。

 店主は箱を置けば走れるが、箱は隣三軒の夢薬。

 誰も、予測の矢印どおりではない。

 矢印は人を運びやすい形へする。

 荷を捨て、家族を分け、歩けない者を遅れとして扱う。

 安全のために生活を一度消し、後で戻せばいいと考える。

 しかし後で戻る生活は、避難前と同じ重さではない。

「北市場二十、回答!」

 ハルが伝話札へ叫ぶ。

 エリアの声。

『十二人を古灯市場。三人を南診療棚。二人は現地待機。三人、家族確認まで保留』

「道」

『一本ではありません。屋根上二、地上三、手動灯路一』

「分かった」

『あなたは』

「次の区画」

『踵二。肺二』

「俺のじゃない」

『私の申告です』

 命令形ではない。

『地上へ降りて、南診療棚の薬を運んでください』

 具体的な頼み。

 エリアが助けを求めている。

「了解」

 ハルは屋根から降りる。

 飛ばない。

 梯子を使う。

 急ぐことと、最短を選ぶことは同じではない。