第514話 第五章「苦い種の案内人」後編

 接続前の休憩で、ハルはソムナの袖札を数えた。

「三十七」

「数えないで」

「秘密?」

「患者の夢。数だけでも、誰が何回頼ったか分かる人がいる」

「全部、持ち歩く?」

「返せるまで」

「返せないのは」

「燃やさない」

「夢葬師なのに」

「夢葬灯礼では、苦しい夢を燃やして眠りを軽くする。私は、燃やす前に持ち主へ選ばせたい」

「嫌われる?」

「教会には」

「家族は」

 ソムナは苦い種を噛む。

「母は、夢を売った金で冬を越した。父は、売らせたことを謝らない。謝れば、あの冬を生きたことまで間違いになると思ってる」

「君は」

「売ったのは必要だった。戻す方法を作らなかったのは、必要じゃない」

「二つに分ける」

「一つにすると、家族を憎むか、制度を許すかの二択になる」

 ハルは自分の父を思う。

 家族を守るためだった。

 世界を救うためだった。

 その言葉が、いずれどんな真相へ使われても、理由と結果を一つにはしない。

「夢を売った時、何を失った?」

「朝の色」

「色だけ?」

「最初は。あとから、夢を自分のものだと感じる印」

「印」

「夢から起きた時、これは私が見た、と身体が分かる感じ」

「なくなると」

「映像は残ることがある。でも広告か、他人の記憶か、自分の夢か区別できない」

「今回の町みたい」

「だから、夢の内容より、戻った後の生活を見る」

 メイが小鍋を洗いながら口を挟む。

「見ると言いつつ、こいつは自分の生活を見ない」

「今、スープを飲んだ」

「一杯」

「二杯目は夢接続後」

「未来へ食事を借りるな」

「名言」とハル。

「栄養指導」

 ソムナは袖の一番奥から、何も書かれていない札を見せる。

「これは」

「僕の」

「夢がない札」

「空席」

「自分の夢を見られたら、ここへ入れる?」

「すぐには。夢を見たことと、持ち続けたいことは別」

「夢まで保留できる」

「人は何でも、今決めさせすぎる」

 アサが椅子の位置をもう一度確かめる。

「治療をやめた時も、今後一生やめるか聞かれた」

「その日やめる、でいい」とソムナ。

「あなたは、私を戻したかった」

「戻したかった」

「今も?」

 苦い種。

 ソムナは噛まない。

「生きていてほしい。夢療へ戻ってほしいとは、今は言わない」

 アサの長い沈黙。

「今は、でいい」

 夢の検査は、この会話の後に始まる。

 未来を決めない練習をしてから。

 ソムナが袖の内側から四枚の紙札を外した。

 夢を入れる紙灯籠へ、一枚ずつ差し込む。

 ハルの札。

 エリアの札。

 アサの札。

 ソムナの札。

「あなたの夢はないのでしょう」とエリア。

「ない札も、位置を取る」

「空席」

「空席を消すと、誰かの夢で埋まる」

 杖ピロウの先が、橙に点く。

 夢の断片を縫う共有術〈ドリーム・ステッチ〉

 四枚の札の縁から、細い糸が伸びる。

 視覚。

 音。

 身体位置。

 覚醒合図。

「匂いは」とハル。

「縫えない」

「痛み」

「本人のものだけ。共有しない」

「温度」

「現実の身体を優先」

「じゃ、今回の夢にないものばかり」

「だから比べる」

 ソムナは四つの椅子の足元へ線を縫った。

 患者がいつでも見つけられる夢の出口〈ウェイク・シーム〉だった。

 橙の短い線。

「出口は一つ?」エリア。

「一人一つ」

「全員で同じ夢へ入るのに」

「同じ場所から出る必要はない」

 その言葉に、雷鎖環を走り抜けた列車が残したものがあった。

 行き先は、一つに統一しなくていい。

「目を閉じて」ソムナ。

「君は」

「閉じる」

「見えないのに」

「見えないから、目を開けていていいとは限らない」

 ハルは目を閉じた。

 白い階段。

 橙の灯籠。

 エリア。

 左手。

 刃。

 夢は、もう始まっている。

 しかし今回は、縫い目が見えた。

 階段の角へ橙の糸。

 灯籠の影へ橙の糸。

 エリアの声の後ろへ、薄い灰色の継ぎ目。

『ハル』

 同じ声。

 エリアが夢の中で口を開いた。

「今、私は呼んでいません」

 現実のエリアの声。

 夢のエリアの声。

 二つが重なる。

「俺も、手を動かしてない」

 左手は進む。

 ハルの意思と関係なく。

「身体位置、外部」とソムナの声。

 彼の姿はない。

 夢へ入れない案内人は、継ぎ目の外から声だけを置く。

「アサ」

「いる」

 長い間の後に返事。

「匂い」

「ない」

「痛み」

「ない」

「足元」

「段差は見える。でも、足が踏んだ感じがない」

「エリア」

「風がありません。灯籠は回っているのに」

「ハル」

「時計、四時十七分」

「アサ」

「九時、二十六分」

「エリア」

「七時三分」

 時計だけが、見る者ごとに違う。

 階段の数は同じ。

 灯籠の数は同じ。

 刃の角度は同じ。

 エリアが倒れる位置も同じ。

「時計は受信者の生活時刻を埋めてる」とハル。

「断定しない」とエリア。

「仮説」

「それなら可」

「夢の中でも採点される」

「夢の中だから言葉を雑にしていい理由にはなりません」

 刃が近づく。

 夢のエリアの影が倒れる。

 ハルは左手を止めようとする。

 止まらない。

 代わりに右手を出す。

 夢にはなかった手。

 右手が、橙の縫い目へ触れた。

 糸が震える。

「未知動作」とソムナ。

「予測外?」

「共有像の外」

 右手で左手首をつかむ。

 刃は止まらない。

 しかし映像が崩れる。

 夢が用意していない抵抗へ、夢の背景が追いつけない。

 白い階段の裏から、別の映像が覗いた。

 青灰色の階段。

 まだ塗られていない壁。

 灯籠は十二。

 保安員はいない。

「前の版」とエリア。

「最初の都市条件」

「夢が未来を見たなら、現在の改装前を下へ隠す必要はありません」

「更新されてる」ハル。

「現在に合わせて、未来像を直している」

 階段の向こうで、誰かの声がした。

『ハル』

 エリアではない。

 父でもない。

 複数の声を重ね、近い響きだけを選んだ声。

 ハルの胸が冷える。

 父の声を使われると思っていた。

 夢は人を動かすため、本人の最も強い記憶を使うものだと。

 だが、ない。

 凪野ソウジの声は、どこにもない。

 夢はハルの記憶を深く読んでいない。

 外から集めた情報だけで、ハルらしい犯人を作っている。

「俺の夢じゃない」

 ハルは言った。

「みんなの夢でもない」

「では、誰の」とエリア。

「町が見せたい夢」

 その瞬間、アサの杖が倒れた。

 全員の目が開く。

 椅子。

 円い部屋。

 十二の扉。

 アサは息を速くしていた。

 左手で椅子の縁を握り、右手で胸の『退出可』札を押さえている。

 ソムナが近づかない。

「終了」

 それだけ言う。

 理由を聞かない。

 メイが血圧紐を巻く許可を、目で求める。

 アサが頷く。

「低い。横になる?」

「椅子」

「背を倒す」

「出口は見えるまま」

「うん」

 メイは比喩を使わない。

 椅子の角度、脚の高さ、水の量だけを言う。

 ハルは立ち上がらない。

 助けに行くことが、相手の出口を塞ぐ時がある。

 エリアも地図を出さない。

 ソムナは自分の確認札を見る。

 名。

 日付。

 スープ。

 赤いマフラー。

 淡緑の地図針。

 苺三個。

 八ルク。

 左の単眼鏡。

 尾二本。

「読んで」とメイ。

 ソムナが読む。

 一つずつ。

 苺の数で止まる。

「三」

「カイルが食べた数」

「三」

「覚えている?」

「札を読んでる」

「自分の記憶は」

 ソムナは苦い種へ手を伸ばす。

 止める。

 噛まずに話す。

「分からない」

 本音だった。

「接続前、カイルが何個食べたか。覚えていない」

 記憶欠落一項目。

 中止基準。

 検査は終わる。

 ハルが口を開く。

「ごめん」

「何に」

「君が払った」

「検査前に説明した」

「説明して同意したら、損してないことにはならない」

「損はある」

「じゃ」

「借りにしない」

「でも」

「あなたが犯人でない証明のためだけじゃない。町が患者の夢を何に使ったか、私が調べたい」

 ソムナは紙札を破らない。

 怒ってはいない。

 ただ、種を噛んでいない。

「自分の仕事です」

 ハルは返事を飲む。

 感謝を借金へ変えない方法は、相手の目的を尊重することかもしれない。

「手伝って」と彼は言った。

 一、二、と数える前に。

「何を」

「夢を、未来じゃなく記録として比べる」

「具体的」

「匂い、痛み、温度、時計、更新版、知らない傷」

「うん」

 部屋の配信灯が、勝手に点いた。

 誰も起動していない。

 壁の十二の扉すべてへ、同じ文字が浮かぶ。

『明日の殺人を回避するため、市民行動計画を開始します』

 続いて、指示。

『白階段周辺を除く北街路を閉鎖』

『橙灯籠を十四基へ統一』

『被害予測対象を上段保護室へ移送』

『予測犯行者を下段静置区へ配置』

『市民は白階段を経由し西避難区へ』

「ハルを下段へ戻す気?」カイル。

「違う」とエリア。

 彼女の地図針が、指示文の上を走る。

 北街路を閉じる。

 西へ避難させる。

 上段へエリア。

 下段へハル。

 夢の位置が、完成する。

「回避案じゃない」

 エリアの歩幅が、立ったまま半歩広がる。

「配役表です」

 配信灯の最後に、確率が出た。

『回避成功見込み 九十一パーセント』

 その下へ、小さく。

『指示に従わない行動は、予測不能として危険側へ分類されます』

 未来を避けるための命令が、未来と違う選択を危険と呼ぶ。

 ソムナは袖から一枚の紙札を外した。

 折らない。

 真ん中から、破った。