第513話 第五章「苦い種の案内人」前編

夢を見る者を案内する職業が、夢を見られるとは限らない。

 航海士がいつも船酔いしないわけではなく、医師が病気にならないわけでもなく、裁判官が正しい人間である保証もない。

 職業は欠落を埋めるために選ばれることがある。

 自分にないものを、他人から奪わず扱う方法を覚えるために。

 ソムナ・リルは夢を見ない。

 正確には、見た夢を朝まで保持できない。

 七歳の冬、家計のために三年分の「朝の色」を夢市場へ売った。買い取られたのは映像だけではなかった。目を覚ました時、自分の夢を自分のものだと確かめる感覚まで、薄く削られた。

 それ以来、眠りは彼にとって扉ではなく、鍵穴のない壁になった。

 だから彼は、他人の夢へ出口を縫う。

 自分が帰れない場所で、帰り道だけを作る。

 静置室の扉は、内側から開いた。

「釈放?」

 ハルが聞く。

「予防拘束の継続根拠を失ったため、外へ出る選択肢が戻りました」とセレナ。

「選択肢」

「出れば安全、とは言っていません」

「出なければ?」

「拘束ではなく自主待機です」

「扉を開けたまま閉じこもる」

「言葉としては矛盾ね」とエリア。

「法律語としては頻出です」とセレナ。

 ハルは立ち上がる。

 左肩を回さない。寝台へ手をつき、右脚から立つ。

 扉の外にはエリア、カイル、ロロ、ノクス、セレナ。

 少し離れて、薄い青緑の寝癖頭。

 少年は背丈より長い綴灯杖を肩へ立て、袖口から覗く紙札を一枚ずつ数えていた。

 柔らかな灰青の上着。

 橙色の縫い糸。

 薄紫の瞳の下に、夜を二枚重ねたような隈。

「ソムナ・リル」

 彼は名乗り、口へ黒い種を一粒入れた。

 噛む。

 顔が少しだけ歪む。

「苦い?」ハル。

「苦い種です」

「説明が仕事してない」

「味を隠す名前は詐欺になる」

「案内人?」

「夢葬師見習い。先生はやめて。治すと決める人ではない」

「じゃ、案内人」

「呼ばなくても振り向く」

「便利」

「眠いだけ」

 ソムナは開いた扉を見た。

 室内の椅子。

 水差し。

 食事皿。

 窓。

 出口。

 患者を見る者は、患者だけを見てはならない。

 眠れない人へ「眠れ」と言う前に、寝台が濡れていないか、隣室が騒がしくないか、空腹でないか、出口を塞がれていないかを確かめる。

「最後に食べたのは」

「焼き苺」

「何個」

「カイルが三個、俺が二個」

「俺が三個だったか?」

「怖い時の数は信用しない」とセレナ。

「食べ物の話をしただけで心理記録へ入れるな」

「三個」ロロ。「俺が請求用に数えた」

「誰から買った苺を、誰が食べたかまで帳簿へ入れるのか」

「船の食料は共同費だ。王子の胃袋だけ独立会計じゃねえ」

 ソムナはハルへ戻る。

「水」

「二杯」

「睡眠」

「殺人一回分」

「時間で」

「三時間と、夢の中で多分三十秒」

「後者は足さない」

「せっかく寝たのに」

「夢の長さは身体の休息時間ではない」

「夢の給料、安いな」

「だから夢を働かせすぎる町は、起きた人を貧しくする」

 苦い種を噛んだまま、ソムナは言う。

 ハルは笑いかけて、やめた。

 言葉の端に、冗談ではないものがあった。

 夢療室へ向かう前、ソムナは一人の患者を診た。

 八歳くらいの子供。

 黄土色の寝巻き。

 両手で、火の消えた紙灯籠を抱えている。

 母親は、子供より先に話した。

「三晩、同じ夢です。父親が井戸へ落ちる。今朝は、この子が突き落としたと」

「話したくない」

 子供が言う。

「でも先生に話さないと治らないでしょう」

「案内人」とソムナ。

「呼び方の話では」

「呼び方の話です。先生と呼ぶと、僕が答えを知っている人になる」

 子供へ椅子を向ける。

 出口が見える角度。

「話したくないなら、話さなくていい」

 母親が立ち上がる。

「では何のために来たのです」

 メイが小鍋の蓋を開ける。

「この子が三晩眠れていない。まず、食事、熱、呼吸、昼の生活」

「夢を見たからでしょう」

「夢を見た後、母親が一晩中意味を聞いたからでもある」

 言葉が鋭い。

 母親の顔が固まる。

 メイは続ける。

「責めていない。あなたも怖かった。怖かったから、答えを急いだ」

「夫が死ぬかもしれない」

「現実の夫は」

「井戸浚いの仕事へ」

「安全帯、同行者、井戸の状態を確認する。夢を話さなくてもできる」

 ソムナは子供の灯籠を見ない。

「灯籠をここへ置く?」

 子供は首を振る。

「持って帰る?」

 頷く。

「燃やす?」

 首を振る。

「今は決めない?」

 頷く。

「じゃ、決めないための袋を渡す」

 夢を隠す灰色の袋。

 鍵はない。

 本人だけが開けられる折り方。

「お母さんも開けない」とソムナ。

「親です」

「親だから、開けない約束を先にできる」

 母親はしばらく黙る。

「もし本当に、この子が夫を」

「夢の中の行動を、現実の子供へ返さない」

「でも」

「僕も、家族のために夢を売ったと言われました」

 苦い種を噛まない。

「七歳の僕が、自分で選んだ良い子だったと。家族がそう言うたび、断れなかったことが消えた」

 母親が、子供を見る。

 子供は灯籠を抱いている。

「私は、今、消そうとした?」

「怖さで、答えを一つにしようとした」

「どうすれば」

「今夜は聞かない。明日、夫の安全を現実で確認する。子供が話したくなったら、聞く前に、途中でやめていいと言う」

 子供が初めて顔を上げる。

「井戸の夢、臭くなかった」

 自分から、一つだけ言った。

 ソムナはそれを言い換えない。

 紙札へ、そのまま書く。

『井戸の夢、臭くなかった』

「ありがとう。続きは今、言わなくていい」

 診療が終わる。

 母親が会計台へ穴あき硬貨を四枚置く。

 ソムナは一枚だけ受け取る。

 メイが三枚増やす。

「取りすぎ」ソムナ。

「診察、食事、安全帯の点検依頼、夢袋」

「子供から取れない」

「母親が払う」

「払えない人は」

「減免簿へ書く。全員を無料にして診療所を潰すと、払えない人から先に治療を失う」

「お金で夢を売った」

「だから、金を汚れたものにすると、売らずに済む仕組みも作れない」

 ソムナの指が、紙札の端へ行く。

 折らない。

「二枚」

「三枚」

「二枚半」

「硬貨を切るな」

「次回へ半枚」

「帳簿が面倒」

「僕の仕事を増やす?」

「会計は私の仕事。お前は勝手に安くするな」

 ハルが小声で言う。

「メイ、強い」

「身体と生活は、夢より先に請求書が来るから」

 子供が帰り際、苦い種を一粒、ソムナの机へ置いた。

「これ、甘いの?」ハル。

「噛んでみる?」子供。

 ハルは噛む。

 顔が歪む。

「苦い!」

「名前どおり」とソムナ。

「案内人、知ってて止めなかった」

「本人が選んだ」

「同意の使い方が細かい!」

 子供は笑いながら、出口から自分で出ていった。

 夢療室は円形だった。

 壁へ十二の扉。

 どれも外へ続かない。

 患者が夢の中で「出口」を見失わないため、現実側に同じ形を作っておく。

 床には灰青の布。

 中央へ四脚の椅子。

 椅子はすべて、最も近い扉へ正面を向けていた。

「出口へ背を向けないんだ」とハル。

 ソムナの指が、一枚の紙札で止まる。

「本人が望めば背を向ける」

「君の癖?」

「患者の選択肢」

「君の椅子も出口向き」

「案内人が先に逃げられないと、出口が出口だと証明できない」

「逃げるのが仕事」

「戻るのが仕事。戻れない時に、残るふりをしないのも仕事」

 メイ・カフが小鍋を持って入ってきた。

 黒い顎線ボブの中央に白い筋。

 四角い透明眼鏡。

 生成りの診療上着の裾へ、食事、睡眠、住居、仕事を示す四つの方眼。

「全員、先にスープ」

「夢の検査前に?」とエリア。

「血糖が落ちた状態で恐怖反応を測っても、夢と空腹を分けられない」

「味は」ハル。

「豆、根菜、塩」

「夢がない」

「食事へ夢を求めるな。栄養を求めろ」

「夢の町で強い」

「夢は排泄しない。人間はする。だから身体が勝つ」

 ロロの補助腕が、本人より先に椀へ伸びた。

「一杯いくら」

「診療費込み」

「怖い言い方」

「無料と言う方が怖い。誰かが払っている」

 メイはソムナの前へ一番大きい椀を置く。

「お前は二杯」

「一杯で」

「体温、三十五度四分」

「平常」

「平常が低いのは正常とは言わない」

「言葉遊び」

「診断」

「今から寝る」

「だから食え」

 ソムナは苦い種を噛む。

 噛んだ。

 まだ本音を隠している。

 メイは追わない。

 小鍋を机へ置き、手袋の代わりに指へ塗った保護蝋を確認する。

「夢接続は四人まで。十分。体温低下〇・五、記憶欠落一項目で中止」

「記憶欠落は、本人が欠けたと気づけない」とセレナ。

「外部確認表を作る」ソムナ。

 紙札へ書く。

 自分の名。

 今日の日付。

 スープの味。

 ハルのマフラーの色。

 エリアの地図針の位置。

 カイルが食べた苺の数。

 ロロの請求額。

 セレナの単眼鏡の側。

 ノクスの尾の数。

「俺の請求額、まだ出てねえ」ロロ。

「空欄」

「後で増える」

「増えたら記憶違いか、請求違いか分からない」

「じゃ上限を書く。接続一回、材料費込みで八ルク」

「高い」とハル。

「夢の中へ入る前に値切るな」

「戻ってから忘れるかもしれない」

「それは一理ある」

「ない」とメイ。

 参加者は、ハル、エリア、アサ、ソムナ。

 セレナは現実側の記録。

 メイは身体監視。

 カイルとロロは配信線の切断に備える。

 ノクスは夢へ入らない。

 匂いを比較する者は、現実側に必要だった。

「私も入る」とセレナは言った。

「左眼の逆流負荷」とメイ。

「短時間なら」

「短時間が何分か、身体で言え」

「再生なしで十五分」

「夢内は時間換算できない」

「では記録役に徹します」

 セレナは反論を一つ減らした。

 それが彼女なりの身体申告だった。

 アサは椅子を出口へ半尺近づけた。

 暗い梅色の髪。

 左右で丈の違う薄青の上着。

 胸の札には『退出可』。

 細い杖を椅子の右へ置き、左足の位置を二度直す。

「途中でやめてもいい」とソムナ。

「札に書いてある」

「書いてあるから言わなくていい、にはしない」

「同じことを言われ続けると、やめたい時に言葉が増える」

「合図」

 アサは考える。

 間が長い。

 待てない人間は、その空白へ返事を入れる。

 ソムナは入れない。

「杖を倒す」

「一回で終了」

「理由を聞かない」

「後で聞いていいかを聞く」

 アサが鼻から短く息を出した。

 笑ったらしい。

「細かい」ハル。

「細かくない同意は、危機で大きく破れる」とエリア。

「君たち、合うな」

「私はまだ案内人を信用していません」

「信用を参加条件にしない」とソムナ。

「それも、合う」