第532話 第二章「棺が仕事を奪う」後編

 工房の手順を、できるところまで分ける。

 粉を量る者。

 湯を沸かす者。

 生地を押す者。

 炉を見る者。

 配る者。

 カナ一人へ戻さない。

 ルメ一人へも戻さない。

 最初の薄焼きは、硬かった。

 ハルが噛む。

「食べられる」

「歯が武器なら」とエリア。

「君も」

「私は味見役ではありません」

「地図へ硬さ描ける?」

「描きません」

 カイルが一枚食べる。

「王城の非常食より柔らかい」

「基準が悲しい」とハル。

「蜂蜜があれば」

「恐怖何個分」メイ。

「苺三個」

「増えた」

「町が食べられないのは怖い」

 カイルは冗談を止めない。

 止めないまま、粉袋の列を数え、配給先をセレナへ伝える。

 恐怖があるから役に立つのではない。

 恐怖があっても、役割を一つへ絞らないために言葉を使う。

 棺の検査へ戻る。

 ロロは、残る道具へ小さな紙片を付けた。

 所有者確認済み。

 未確認。

 共有使用痕。

 危険物なし。

 返却希望あり。

 返却保留。

「全部に札?」ハル。

「札がないから、全部ルメのものになってる」

「名前を付けると誰かのものになる?」

「逆。誰のものか分からない時、強い奴のものになりやすい」

「棺が強い?」

「死者は強い。返せって言えねえから」

 ロロは木匙を持ち上げる。

 小さな歯形。

 柄の端へ、数え歌の刻み。

「子供用」

「子守区」とアサ。

「返す?」

「持ち主へ聞く」

「ルメの子?」

「誰かがそう言うかもしれない」

 補助腕が、匙を元へ戻す。

 その時、診療所の方角で三つの手動鐘が鳴った。

 長。

 短。

 短。

 薬配合停止。

 メイの顔から、比喩が消えた。

「患者、何人」とユーディ。

「定時薬が十二。うち中断危険、四。代替処方可能、二。残り二は調合し直す」

「配合札は」

「ある。順序を誰も確信できない」

「薬師」

「三人とも、最後の照合をルメへ預けていた」

「戻す方法」ソムナ。

「今は身体を守る。原因は後」

 メイが走る。

 走る前に、ソムナへ小鍋を投げた。

「糖湯。飲め」

「今は」

「低血糖で倒れた案内人を、患者へ数える時間はない」

 ソムナは受け取る。

「甘い」

「苦い種を二つ噛んだ。相殺しろ」

 ハルも走る。

「左肩!」エリア。

「使わない!」

「戻る条件!」

「痛み四、呼吸三、視界揺れ!」

「今」

「一、一、ゼロ!」

「行って」

 エリアが三本の路図を描く。

 診療所正面。

 屋根の伝令路。

 運河の薬材路。

「全員、同じ道へ入らない。ハルは屋根、カイルは正面、ロロは薬研と調合台、セレナは札の保全。私は運搬路を分ける」

「ソムナ」

「患者へ、夢を使わない」

「なぜ」ハル。

「原因が分からない。忘れた手順へ夢を継ぐと、別の人の手順を入れるかもしれない」

「じゃ何する」

「起きたまま、誰が何を覚えているか聞く」

      薬を待つ六時間を、待つだけにはできなかった。

 ロロは診療所の保管庫へ入った。

 保管庫には、使われていない道具が並ぶ。

 古い聴診筒。

 目盛りの欠けた点滴瓶。

 眠り発作患者の手首へ巻く鈴帯。

 夢熱を逃がす銅枕。

「全部、壊れてる?」ハル。

「壊れてねえ。新しい仕組みに替えられて、使う人がいなくなった」

「じゃ、使える」

「使い方が分かればな」

 ロロは銅枕を持ち上げる。

 右側だけ、細かな擦り傷。

 裏面には、四種類の指跡。

「同じ道具に複数人」とセレナ。

「まただ。こっちは小指を使わない。こっちは左親指で弁を押す。三つ目は道具を回して右手用にしてる」

「ルメが使った?」

「道具が誰の名前で使われたかは分からねえ。けど、一人の身体じゃねえ」

「ルメの身体が複数」ハル。

「身体って言うな。手順の出所が複数」

「細かい」

「細かくしないと、全部一人の幽霊にされる!」

 ロロの声が保管庫へ響く。

 直せる物が目の前にある。

 しかし、直す対象の単位が分からない。

 機械なら、故障箇所を探す。

 町では、故障と呼んだ瞬間に、誰かの暮らしを部品へ変える。

「ロロ」とメイ。

「何」

「呼吸」

「平気」

「音」

 紙粉を吸い、彼の喉に細い笛音がある。

「吸入器」ハル。

「まだ」

「係の権限」

「勝手に役職を強くするな!」

「ロロが倒れたら、修理代を誰へ請求する」

「俺!」

「倒れた本人に?」

「……吸う」

 ハルが器具を渡す。

 ロロは二呼吸。

 メイは音が消えるまで待つ。

「続けるなら十五分」

「二十分」

「十五」

「十七」

「十五」

「医者、値引き交渉できねえ!」

「命は定価」

 保管庫の奥で、古い投薬輪が見つかった。

 円盤へ患者名札を差し、時刻になると該当区画だけ光る。夢灯網ができる前、診療所はこれで薬を配っていた。

「戻せる」とロロ。

「名札、古い」とメイ。

「今の患者へ差し替える」

「時刻変更、手作業」

「できる」

「一人では」

「できる!」

「できるか、では決めない」

 さっき自分が橋守へ言ったことを、今度は自分へ返される。

 ロロは補助腕を止めた。

「何人」

「最低三人。名札確認、時刻確認、患者確認」

「面倒」ハル。

「面倒だから安全なんだよ」とロロ。

「一人が間違えたら、二人が止める」

 ネラ、若い看護師、鐘守リムが作業へ入った。

 リムは薬の仕事を知らない。

 だから、時刻だけを見る。

 ネラは患者を知る。

 看護師は薬を知る。

 三人とも、全部を知らない。

 全部を知らない者が、知らないことを隠さなければ、一人の万能な手順より強い時がある。

「名札、ミル」とリム。

「薬、代替一号」と看護師。

「投与済み。次は六時間後」とネラ。

 投薬輪が、かちりと進む。

 光は小さい。

 ルメの灯りほど滑らかではない。

 それでも、誰が回したかが見える。

 第二の患者は、薬ではなく食事を忘れていた。

 眠り病棟の若い男は、食事札を見ている。

 読むこともできる。

 腹も減っている。

「食べない理由」とメイ。

「ルメが、最初の一口を言った」

「何と」

「今日は汁から。昨日はパンから」

「自分で選べる」ハル。

「選ぶと、間違える気がする」

「食べる順で?」

「病気になってから、全部」

 ルメは食事順を決めていた。

 栄養管理の支援だった。

 同時に、男は小さな選択まで自分の外へ置いた。

「今日は何から」とソムナ。

「決めて」

「俺が決めると、明日も俺を待つ」

「じゃ、食べない」

「二つじゃない」

 ソムナは皿を三つの位置へ動かす。

「汁。パン。果物。触って、今いちばん嫌じゃないもの」

「好きじゃなく?」

「最初は、嫌じゃないでいい」

 男は長く迷い、果物を取った。

「正解?」

「食べられた」メイ。

「正解とは言ってない」

「明日、変えていい」ソムナ。

 支援を外すことは、突然一人で立たせることではない。

 選択肢を小さくし、間違えても戻れるようにする。

 その手間もまた、誰かの仕事だった。

 保管庫の投薬輪が回り始めた頃、ロロは棺から戻した銀匙の柄へ、細い番号を刻んだ。

「何」セレナ。

「誰が触ったか残す。次に摩耗を見た奴が、一人分だと思わないように」

「個人名」

「許可を取った人だけ。名前を出したくない人は組番号」

「監査可能性」

「帳簿は別。匙へ全部書いたら薬より字が多い」

 セレナは頷く。

「適切」

「褒めた?」

「評価しました」

「もう一回」

「記録済み」

 ロロは不満そうにしながら、銀匙を薬台へ戻した。

 道具を棺から取り戻しただけではない。

 次に誰かが使い方を忘れた時、複数の手があったことを忘れない印を付けた。

 修理とは、壊れる前へ戻すことではない。

 次に壊れた時、前より少しだけ見つけやすくすることでもある。

 町の上を、葬列の鐘が進む。

 診療所の警報鐘と、弔いの鐘。

 二つの音は似ていた。

 死者を送る音と、死者を出さないための音。

 棺の薬研が、透明蓋の下でかすかに揺れた。

 道具を戻せば、仕事が戻る。

 ロロはそう考えていた。

 薬研は棺にある。

 薬師は診療所にいる。

 両方を同じ場所へ戻しても、手順だけが、どこにもいなかった。