第531話 第二章「棺が仕事を奪う」前編

道具は、持ち主より正直だ。

 少なくとも修理工は、そう信じたがる。

 人は「一度しか使っていない」と言いながら柄へ十年分の手脂を残し、「大切に扱った」と言いながらネジ頭を潰し、「急に壊れた」と言いながら、急ではない亀裂を布で隠す。

 道具は言い訳をしない。

 曲がった方向へ、曲げられた力がある。

 削れた側へ、繰り返された手がある。

 焦げた金属へ、熱を止めなかった時間がある。

 ただし、道具が正直であることと、修理工の解釈が正しいことは同じではない。

 道具は嘘をつかない。

 だからこそ、人は道具へ自分の嘘を読ませることができる。

「棺を開ける」

 ロロ・ピクスは、葬列の前へ立った。

 黄色い作業上着。

 二眼ゴーグル。

 背中から伸びる四本の補助腕。

 見た目だけなら、葬儀へ来る格好ではない。

 本人に言わせれば、壊れる可能性がある場所へ礼服で来る方が失礼だった。

「誰の許可で」と棺担ぎの老人。

「誰の棺か言え」

「ルメの」

「ルメが許可できる?」

「死んでいる」

「死亡記録なし」セレナ。

「では、遺族」

「誰」

 老人は振り返る。

 葬列にいる全員が、少しずつ手を上げた。

 手を上げなかった者もいる。

 泣きながら顔を背けた者。

 何を失ったか説明したくない者。

 棺を開ければ、本当に死んだことになると恐れる者。

 多数決で棺を開ければいい、とは誰も言えなかった。

 棺の中の鍵一本が、手を上げなかった一人の生活へ属しているかもしれない。

 セレナが言う。

「開封目的を限定します。第一、町の生命維持機能停止との関連確認。第二、道具の所有者特定。第三、腐敗や危険物の有無。持ち出しはしない。作業中止の要請は、理由を問わず受け付ける」

「止めたら町が死ぬ」とユーディ。

「止めた人へ町の死を背負わせない。代替調査を作る」

「代替は」

「外側から重量、匂い、音、熱。時間はかかる」

「薬まで二十三分」

「だから急ぎます。省略はしない」

 ユーディの指が決裁札を三度叩く。

「開封範囲、上蓋の三分の一。立会人、棺担ぎ二名、星律官、修理工、医師。作業時間七分。異議は」

「ある」と、列の中から女が言った。

 カナ・ルーヴ。

 パンを忘れたパン職人。

「鍋を出して」

「開けないで、ではなく?」セレナ。

「鍋を返して。あれがないと」

「使い方は」ロロ。

「分からない」

「じゃ返しても」

「置いてある場所を見れば、思い出すかもしれない」

 ロロは即答しなかった。

 工房の床へ工具を置けば、手が勝手に思い出すことはある。

 身体の記憶は、頭の説明よりしぶとい。

「出すなら、位置を記録してから。戻せと言われたら戻す」

「今すぐ」

「七分のうちに」

「二分」

「俺の見積もりに値切りを入れるな」

「命の見積もり」

「だから安くするな」

 ロロは補助腕の一本を棺蓋へ伸ばした。

「開けるぞ」

 返事は一つではない。

「はい」

「待って」

「早く」

「見たくない」

 セレナが、それぞれを記録する。

 全員同意ではない。

 全員同意でないことも、開封の一部だった。

 棺の留め具は、葬具用の紙樹脂だった。

 釘ではない。

 泣いた人の指でも外せるよう、内側から押せば開く柔らかな楔。

「死者が出るため?」ハル。

「夢葬では、途中で弔うのをやめる権利がある」とソムナ。

「死者に?」

「夢を手放す人に」

「ルメは」

「まだ、どちらか分からない」

 ロロは楔を外す。

 右眼だけでは細い繊維が二重に見える。

 ゴーグルの拡大板を左へ寄せる。補助腕二本で蓋を支え、自分の左手で留め具を触る。

 彼は左利きだった。

 工具を使う手が、一番古い本音を知っている。

「開く」

 蓋が、紙の息を吐いた。

 冷たい空気。

 小麦。

 薬草。

 油。

 石鹸。

 乳児の髪へ使う甘い樹脂。

 雨に濡れた橋材。

 葬儀の匂いではない。

 生活の匂いだった。

 ロロは鍋を最初に見る。

 底に焦げ。

 縁へ五つの小傷。

 片側の取っ手だけ、布が厚く巻かれている。

「右手で持った人が多い」ハル。

「逆」ロロ。

「厚い方を持つ?」

「熱いから厚くした。だが手脂は薄い方に多い。左手で鍋を持って、右手で混ぜた」

「一人」

「じゃねえ」

 ロロは底を回す。

「焦げ跡が三方向。炉へ置く癖が違う。取っ手の押し潰れも、指の太さが違う。こいつは少なくとも四人」

「鍋が?」

「鍋を使った手が」

「共同鍋」とカナ。

「工房の?」

「私の。誰にも貸してない」

「じゃ、四人分の手はどこから来た」

 カナは答えない。

 ロロは次に、橋の検査槌を取る。

 柄の中央が磨かれている。

 右端に小指の凹み。

 左端に親指の爪痕。

「左右持ち替え」エリア。

「だけじゃねえ。腕の長さが違う。打点の角度、十二度、二十度、三十一度。三人」

「橋守は一人だった」とユーディ。

「身体一つでも、手順へ何人分か混じる」ソムナ。

「夢の中で借りた?」ハル。

「まだ仮説」セレナ。

 薬研。

 木匙。

 鍵。

 どれも、一つの所有物へ複数の使い跡がある。

 ただし、誰かが夜中に忍び込んで使った痕ではない。

 時間が重なっている。

 同じ摩耗層の中へ、異なる手の癖が交互に刻まれている。

「道具が共犯者だらけ」とハル。

「犯人がいると決めるな」とロロ。

「使った人」

「使った記憶が、道具へ残る。人がどこにいたかは別」

 補助腕が、赤糸で綴じられたレシピ束を持ち上げる。

 文字は一種類に見えた。

 しかし紙を斜めへすると、筆圧の溝が途中で変わる。

「セレナ」

「後で。今は所有者の確認」

「筆跡、変だぞ」

「変だという記録だけ」

「調べたくねえの」

「調べたいことと、今調べてよいことを分けています」

「職業病」

「修理工も同じでしょう」

「俺は壊れたら開ける」

「人も?」

「人はメイ」

「正しい分業」とメイ。

 鍋を出す。

 所有者はカナ。

 持ち出しではなく一時返却。

 位置、重量、焦げ跡を記録。

 葬列へ戻すかどうかは、使用後に再確認。

 ロロは布へ包み、カナへ直接渡さない。

「熱源近くで落とすと危ない。台車」

「私の鍋」

「所有権と運び方は別」

「私が持つ」

「指、腫れてる」メイ。

「持つくらい」

「落としたら足を焼く」

「では誰が」

「選んで」とアサ。

 カナは周囲を見る。

 ハル。

 カイル。

 ロロ。

 近所の見習い。

「王子」

「私?」カイル。

「粉袋を運んだ。鍋も」

「王家の由緒へ、パン鍋運搬が追加される」

「嫌なら」

「喜んで」

 カイルが両手で持つ。

 左手が自然に底を支え、礼儀で鍛えられた右手が取っ手へ。

「左利き?」カナ。

「本来は」

「直された?」

「教育された」

「同じ言葉?」ハル。

「教育した側はそう言う」

「直された側は」

「直されたことにしておくと、食卓が早く終わる」

 カイルの笑いは軽い。

 その軽さの下に、王子として預けた手がある。

 パン工房で、鍋を元の場所へ置いた。

 棚の右から二番目。

 壁に煤の輪。

 柄の先が、柱の小傷へぴたりと合う。

 カナは鍋を見る。

「ここ」

「思い出した?」ハル。

「置く場所は」

「使い方」

「……湯を」

 彼女は水を入れる。

 炉へ置く。

 火が上がる。

「次」ロロ。

「待つ」

「何を」

「泡」

 水面に小さな泡。

「次」

「粉を」

「パンの生地へ湯?」エリア。

「この町の柔らかい配給パンは、湯種を使う」とメイ。

 カナが粉を入れる。

 木匙を取る。

 右手が止まる。

「回す方向」

「右じゃない?」ハル。

「それを誰が決めた」

「渦」

「炉の傾きで逆もある」とロロ。

「試す」カナ。

「少量で」とメイ。

 右へ三回。

 左へ一回。

 粉が塊になる。

 カナの顔へ、わずかな記憶の光。

「これ」

「思い出した?」

「ルメが、こうした」

「あなたは見てた?」

「手が動いた。私の手が」

「誰の動きで」ソムナ。

「分からない」

 ロロは鍋の柄を見る。

 カナの左手の幅と、摩耗の一つが一致する。

 残り三つは一致しない。

「一部はお前」

「一部?」

「全部忘れたんじゃねえ。自分の手順と、借りた手順が重なってる」

「分けられる?」

「道具の跡なら。頭の中は俺の修理範囲外」

「夢なら」と全員がソムナを見る。

 ソムナは苦い種を噛んだまま、すぐには答えない。

「入れば、見えるかもしれない」

「なら」カナ。

「でも、見えることと返せることは別。夢の中で誰かの手順を切り離したら、起きた後に別の記憶まで抜けるかもしれない」

「パンが焼けない」

「だから急ぐ。でも急ぐことを、あなたの同意の代わりにしない」

「町が飢えたら、私が断ったせい?」

「そう言わせないために、他の方法も作る」

 メイが帳簿を開く。

「配給乾パン、五時間。自由港式の無酵母薄焼きなら、技能のある者が二人。王都式の硬パンならカイルが知っている」

「食べる方だけ」とカイル。

「厨房実習」

「王子教育にあった」

「王族、何でも習うの?」ハル。

「失敗しても使用人が直す範囲を広く学ぶ」

「嫌な制度説明」

「今日は失敗を自分で食べる」

 パンの完全復旧ではない。

 町が今夜まで食べる代替。

 カナは湯種を見つめる。

「鍋は戻さない」

「棺へ?」セレナ。

「工房へ」

「所有者としての選択」

「でも、証拠」ロロ。

「複写を取った。必要なら再提出を求める」セレナ。

「戻さないと、葬列は」カナ。

 外で鐘が鳴る。

 棺は待たない。

「止める?」ハル。

 カナは首を振る。

「まだ、分からない。あれがルメのものなら、奪うことになる」

「お前の鍋」ロロ。

「ルメが使った」

「使ったら所有者?」

「毎日、私より上手に」

「上手い奴へ道具をやるなら、俺の工房は全部姉貴のものになる」

 言った後、ロロの補助腕が一瞬だけ止まった。

 姉ニア。

 まだ再会していない名前を、口へ出さない。

「使えることと、持つことは別だ」とロロは言い直す。「仕事をしたことと、人を所有することも」