第534話 第三章「パンの焼けない朝」後編
朝を失った町を、ハルたちは三区画だけ歩いた。
三つで十分だとセレナが決めた。
「全部を見ない?」ハル。
「全部を見る間に、全部が悪化します。代表例を選び、報告を集める」
「見なかった場所は」
「見ていないと記録する」
「それで公平?」
「公平ではありません。見たふりをするより正確です」
最初は学校。
教室には二十六人の子供がいて、教師は出席簿を持っていた。
「名前は読める」と教師。
「返事もする」と子供たち。
「何が止まった」とハル。
「欠席者の家へ、誰が確認に行くか」
「先生」
「教室を空けられない」
「別の先生」
「今朝は一人」
「いつもは」
「ルメが灯りを飛ばした」
欠席は四人。
一人は発熱。
一人は夜勤の母と眠っている。
一人は橋が止まって来られない。
一人は理由不明。
同じ「欠席」を、同じ対応へまとめられない。
「灯りだけ戻せば」とハル。
「家の中まで見る権限が、ルメにあった」と教師。
「同意」セレナ。
「入学時の包括札」
「毎年更新」
「していない」
「六年前の同意で、今朝も寝室を見る?」
教師は出席簿を閉じた。
「そう言われると、怖い」
「でも、四人目は心配」とハル。
「そう」
怖いからやめる。
心配だから続ける。
二つの気持ちの間へ、ルメは毎朝、答えを置いていた。
今日は答えがない。
エリアは保護者連絡を一斉送信にしなかった。
近隣に住む三家庭へ、確認できる範囲だけを頼む。
「家へ入らない。返事がなければ教師へ戻す。緊急音があれば診療所」
「遅い」と教師。
「遅いけれど、誰が見たか残る」
「四人目が倒れていたら」
「だから、時間を決める。十分で返事がなければ危機局」
十分後、四人目は祖父の看病で休んでいると分かった。
事故はなかった。
だから手順が正しかったとは限らない。
事故が起きなかった一日は、制度の安全証明として使われやすい。歴史上、最も危険な安全神話の多くは、「昨日まで大丈夫だった」という一文から始まる。
二つ目は共同浴場。
湯は沸いている。
番台もいる。
入浴者も列を作っている。
「何ができない」とハル。
「入れる順」と番台。
「先着」
「足の悪い人、夢熱の子、夜勤明け、皮膚薬を使う人は時間を分ける」
「名簿」
「ある」
「順番」
「ルメが、その日の体調を見て変えた」
メイが入浴者を診る。
「全員を私が決めない」
「医者なのに?」
「身体上の危険だけ。夜勤明けで先に入りたいか、静かな時間まで待ちたいかは本人」
老人が先を譲る。
若い荷運び人は、眠る前に入りたいと言う。
夢熱の子は、湯を怖がるため最後を選ぶ。
最適な順番は一つではなかった。
「ルメは、どう決めてた」とセレナ。
「過去の希望」と番台。
「今日の希望を聞いた?」
「忙しい時は、聞かなかった」
「当たってた?」ハル。
「大体」
「外れた人」
列の後ろで、一人の女が手を上げた。
「私は夜勤明けでも先に入りたくない。混んでると眠れない。でも毎回、先へ回された」
「言わなかった?」
「善意を断ると、わがままみたいで」
善意は、受け取る者へ感謝の義務を作ることがある。
メイは順番札の横へ、空白札を置いた。
「選ばない。後で決める。今日は入らない。全部、有効」
「浴場へ来て、入らない?」ハル。
「来てから変えていい」アサ。
女は空白札を取った。
その選択を見た別の三人も、列から外れた。
三つ目は市場。
魚屋が氷箱を開けられず、果物屋は売れ残りをどの診療所へ回すか決められず、食堂は常連の注文を覚えているのに、本人へ今日も同じか聞く言葉を失っていた。
「注文を聞けば」とハル。
「常連へ聞くと、覚えてないと思われる」と食堂主。
「覚えてるなら、何で聞く」
「昨日と今日が同じとは限らないから」エリア。
「じゃ、どう言ってた」
「ルメが『いつものでも、違うのでも』って」
その口癖を、魚屋も知っていた。
浴場の番台も。
学校教師も。
ただし声は全員違う。
市場のルメは、甲高い少年。
浴場では、眠そうな女。
学校では、咳をする老人。
「同じ台詞を、違う声」とセレナ。
「一人が声を変えた」とハル。
「可能性」
「複数人が同じ台詞を使った」
「可能性」
「町全体が、ルメの口癖を作った」
「可能性」
「全部、可能性」
「だから証拠を集める」
ハルは食堂主へ向く。
「俺、いつものない」
「何を食べる」
「今日、いちばん失敗してないもの」
「景気が悪い注文だな」とカイル。
「お前の口癖うつった」
出てきたのは、形の崩れた豆粥だった。
味は悪くない。
「失敗してる」とハル。
「形だけ」と食堂主。
「見た目と中身、同じじゃない」
「今日の町みたい」とソムナ。
町は形を失っている。
中身まで消えたわけではない。
しかし、中身が残っているから形を戻せばよいとも限らない。
豆粥を食べ終えた時、昼番の開始予定時刻を過ぎていた。
昼番の開始予定時刻を過ぎた頃、生活区長エダ・フェルが工房へ来た。
銀灰色の髪を四角く結び、襟へ色違いの依頼札を何十枚も縫い付けている。札は町の仕事を分類する古い仕組みで、青は水、赤は火、白は医療、黄は子守、灰は記録。
「ルメを戻す準備を始めます」
挨拶の代わりだった。
「戻せる?」ソムナ。
「夢灯網に残った構成記憶を再結束する。危機局の技術者は可能と言っている」
「誰の同意で」アサ。
「町の非常権限」
「終了時刻」カイル。
「二十四時間後に再審査」
「誰が再審査」
「私と生活区評議会」
「同じ人が延長できる」
「王子殿下。パンと薬が止まっています。権限の美しさを磨く時間はない」
「美しいと言っていない。危ないと言った」
「危険なのは、今です」
エダは冷たいのではない。
冷たく見える人の多くは、感情がないのではなく、感情へ時間を使うと目の前の誰かが死ぬ場所に長くいた。
「再起動で何が戻る」とセレナ。
「確認できている生活手順。配合、開錠、点検、配達、起床合図」
「感情代行」
「技術者は分けられないと言っています」
「判断代行」
「同じく」
「全部まとめて戻す?」ハル。
「町が持つまで」
「町が持ったら、また止める?」
「その時に決める」
「誰が」
「住民が」
「今、決めるのも住民じゃない?」
エダの襟の札が揺れた。
「住民は、薬を待っています」
「待ってる時に聞くのはずるい」ハル。
「助かりたいかと聞けば、助かりたいって言う」
「なら助けるのが悪い?」
「助け方まで同じ答えにするな」
言い合いを、ノクスが低い二音で止めた。
「ノゥ、ノゥ」
尾が、工房の外へ向く。
小さな足音。
橙色の紙帽子を深く被った子供が、入口に立っていた。
八歳ほど。
右靴だけ紐が二重。
胸へ、夜勤家庭の子へ配られる月札。
「ノナ」エダが言う。「学校へ」
「学校、朝の歌を忘れた」
「先生がいるでしょう」
「先生も、二番を知らない」
子供は棺の方向を見る。
「ルメ、どこ」
「葬列に」とハル。
「中?」
「身体は入ってない」
「じゃ、死んでない?」
誰も、すぐには答えない。
子供へ嘘をつかないことと、大人がまだ分からないことを全部投げることは違う。
ソムナが膝を曲げる。
目線を合わせるが、近づきすぎない。
「ノナが知ってるルメは、何をした?」
「夜、靴をそろえた。朝、髪を結んだ。怖い夢のあと、紙の魚を泳がせた」
「声は」
「お母さん」
エダが目を閉じた。
「ノナ。あなたのお母さんはイアです。夜荷場で働いている」
「知ってる」
「ルメは母親では」
「お母さん」
子供の言葉は、訂正されなかった。
訂正できないのではない。
どの意味の母親を否定するのか、誰も決められなかった。
「イアさんは?」ハル。
「夜荷場。まだ戻ってない」エダ。
「毎晩?」
「六日に四夜」
「その間、ルメが」
「子守契約を」
ノナが首を振る。
「契約じゃない」
「何だった?」ソムナ。
「お母さん」
同じ言葉。
今度は、誰も意味を減らさなかった。
ノナは橙帽子の内側から、小さな別れ札を出した。
お預かりしていたことを、終えます。
返せないものがあります。
忘れたままにしたことを、忘れないでください。
ルメ。
「この字」とセレナ。
「みんなと同じ?」ハル。
「見た目は」
「また、見た目は」
「ノナ」セレナは柔らかくしない。代わりに、正確に小さくする。「この札は、誰が置いた」
「枕」
「見た?」
「寝る前なかった。起きたらあった」
「ルメの声は」
「聞いた」
「何と」
「『急がなくていい。靴が違ったら、戻って履き直せばいい』」
同じ口癖。
だが、ノナが再現した声は、子供の声でも女の声でも老人の声でもなかった。
複数の声が、重なっていた。
一音ごとに、年齢が変わる。
語尾だけ、別の誰かになる。
ソムナの薄紫の瞳が細くなる。
「夢の中?」
「起きてた」
「本当に?」
「眠ってたかもしれない」
「どっちでもいい」とアサ。
「よくない」セレナ。
「証拠には」アサが長く間を置く。「よくない。ノナの経験には、どちらでも残る」
セレナは一度だけ瞬いた。
「訂正。区別して記録します」
ノナが棺へ走ろうとする。
「待って」ハル。
「お母さん返してもらう」
「棺を開けても、人はいない」
「じゃ、どこ」
「探す」
「いつ」
「今」
「一人で?」
「一、二――」
ハルは三を言えない。
エリアが、彼の配達鞄の端を掴んだ。
「一人ではない」
ノナは二人を見る。
「ルメを見つけたら、返して」
ハルは約束を急がない。
「何を返すか、先に一緒に決める」
「お母さん」
「その呼び方を、勝手に消さない」
それだけを約束した。
町のどこかで、焼き上がった最初のパンが窯から出た。
形は不揃い。
塩が少し多い。
朝の時刻からは大きく遅れていた。
それでも、パンの匂いが通りへ流れた。
ノナは匂いへ顔を上げる。
「ルメが焼いた?」
「町の人が」とハル。
「何人?」
「たくさん」
「じゃ、ルメみたい」
子供の一言は、真相ではない。
だが、真相より先に、正しい場所へ届くことがある。
ソムナは棺の向こうへ目を向けた。
多数の依頼を束ねた共同人格〈ルメ〉。
まだ、その呼び名を誰も口にしていない。
けれど、一人の母親を捜す事件ではないことだけは、もう隠せなかった。