第540話 第六章「見せる権利、見ない権利」後編

 メイが卓へ小鍋を置いた。

「二人とも食べろ」

「議論中です」とユノ。

「血糖は議論へ参加しない」

「こちらには食事が」

「鏡越しに執事へ言え」

「王家の食事を私的記録へ入れますか」

「食べた量だけ」

「夢灯都市の医師は外交へ強い」

「空腹の外交官は判断が雑」

 ソムナは温かいスープを口へ運ぶ。

 湯気はない。

 熱すぎるものを好まない。

「昨夜、何時間寝た」とメイ。

「零」

「今朝」

「数秒」

「相談後、休む」

「町が」

「町の睡眠を一人で代行するな」

 ルメの話をしている場で、ソムナも同じ形へ近づく。

 皆が休むため、自分だけ休まない。

 役に立つことで存在を証明する。

 ソムナは苦い種を噛もうとする。

 やめる。

「休む」

 メイは帳簿へ丸をつける。

 議論だけでは、公開範囲は決まらない。

 次に必要なのは、本人が実際に選ぶ場だった。

 相談室へ、五人が一人ずつ入る。

 イア・セイ。

 カナ・ルーヴ。

 紙橋の橋守。

 匿名を希望する元夢灯会計官。

 ノナ。

 同じ質問票を使わない。

 文字を読む人。

 声で聞く人。

 図で選ぶ人。

 理由を言わず、札を裏返す人。

「統一書式がないと、後で比較できない」とユノ。

「比較のために、答え方を統一すると、答えられない人が落ちる」アサ。

「最低項目は必要です」

「質問の意味を同じにする。形は変える」

「その変換が誘導になる」

「なる」

「では」

「誘導した可能性を記録する」

 完全に中立な質問はない。

 はい/いいえ、と聞けば二択を作る。

 自由に、と言えば、言葉を多く持つ者が有利になる。

 沈黙を許せば、沈黙を賛成に数えたがる者が出る。

 中立とは、影響がない状態ではない。

 どの影響を与えたかを、後から見えるようにする努力である。

 イアの記録は、夜の台所だった。

 ユノの案では、顔を消し、部屋を抽象化し、子供の姿を紙人形へ変える。

 それでもイアは、最初の三秒で自分の記録だと分かった。

「なぜ」とユノ。

「棚の欠け」

 映像の背景。

 抽象化された白い棚の右下だけ、半月型に欠けている。

「装飾要素へ置換した」

「ノナが三歳の時、鍋を落とした跡」

「他人には分からない」

「近所は知ってる」

 ユノは棚を消す。

「次」

 イアは、子供の紙人形が靴を左右逆に履くのを見て、自分だと分かった。

「癖?」

「ノナは、右だけ二重に結ぶ」

「動作を一般化」

 今度は、母が戸口で一度戻る。

「私、仕事へ出る前、必ず振り返る」

「そこまで消すと、記録の意味が」

「だから出さない」

 ソムナが言う。

「構造を示すための映像が、本人を消しきれないなら、本人を出す映像になる」

「統計だけでは、夜勤者が子守を必要とした切迫が伝わらない」ユノ。

「切迫を、イアの顔で証明しない」

「社会は、顔のない苦痛を数字として処理する」

「顔を出した苦痛は、物語として消費する」

「なら、何を見せる」

 イアが答えた。

「夜荷場の勤務表」

 二人が見る。

「私の部屋じゃなく、夜勤が六日に四日あること。賃金。昼の子守費。夜間支援の不足。そこを見せろ」

「泣いた夜は」ユノ。

「見せない」

「理由」

「言わない」

 アサが記録する。

 理由なし拒否。

 有効。

「紙の魚だけ」とノナが戸口から言った。

「まだ順番」イア。

「聞こえた」

「入っていいと」アサ。

「入る」

 ノナは、夢の中を泳いだ魚灯の映像だけ公開すると決めた。

「部屋はなし。私の顔もなし。魚は、みんな見ていい」

「魚が何を意味するか、説明を付ける?」ユノ。

「『夜に一人じゃないため』」

「ルメが作ったと」

「それも」

「母親代わり」

 ノナは首を振る。

「そこは私が言う。知らない人が言うと、違う」

 八歳の子供は、公開の権利だけでなく、説明する人を選んだ。

 カナの夢映像には、腫れた指が映っていた。

「手だけなら公開」とカナ。

「顔なし。店名なし」とソムナ。

「店は出す」

「特定される」

「されていい」

「後から撤回できない」ユノ。

「分かってる」

「競合店が、衛生不安へ使う可能性」

「分かってる」

「客が、かわいそうだから買うと言う可能性」

「それは嫌だ」

「公開は、使い道を選べない」

 カナが止まる。

「じゃ、店を隠す」

「今、変えた」とアサ。

「悪い?」

「変えていい」

 同意は、一度決めた自分へ忠誠を誓う儀式ではない。

「手の腫れ。労働時間。人員不足。パンの供給先。店名なし」とユノ。

「夫の声は」

「出さない」

「ルメが休めと言った声」

「出してもいい。でも、夫の声紋を使わない再現」

「誰の声」

「文字」

 映像ではなく、画面へ一文。

 ――今日は休め。

「それなら」とカナ。

 ユノは美しい書体を選びかけ、やめた。

「書体も、印象を作る」

「読めればいい」とカナ。

 普通の公用書体。

 音楽なし。

 終止の余韻なし。

 彼にとって、それは演出を捨てるのではない。

 演出を最小化したことを表示する、新しい演出だった。

 紙橋の橋守は、全公開を選んだ。

「聴力検査を受けなかった。補助具を買えなかった。ルメへ隠した。全部出せ」

「雇用契約も」とユノ。

「出す」

「家族」

「出さない」

「理由」

「家族は橋を守ってない」

「あなたの判断へ影響した可能性」セレナ。

「影響はした。でも責任を家族へ移すな」

 橋守は、自分の過失を隠さない。

 同時に、過失の背景を説明することが、免罪の要求と同じではないと主張した。

「私は職を失うのが怖かった。だから黙った。市は、補助具を出さなかった。請負契約で検査を避けた。ルメは色を出した。全部、同時に本当だ」

「見た人は、一番悪い者を選びたがる」とユノ。

「選ばせるな」

「映像を見せる時点で、選びます」

「じゃ、最後に『一人を選ぶな』と書け」

「命令になります」

「『一人では説明できない』」セレナ。

 橋守が頷く。

 責任を薄めない。

 責任を一人へ濃縮もしない。

 元会計官は、顔も声も出さなかった。

 ただし、支払停止の仕組みだけは公開した。

「私は、ルメ統合口座が予測網会計へ接続されていると知っていた」

「停止時の影響」とセレナ。

「医療保全系統へ自動移管されると思った」

「根拠」

「設計書」

「実装確認」

「していない」

「なぜ」

「担当外」

「担当者」

「退職。後任なし」

「報告」

「予算申請に書いた」

「結果」

「保留」

「公表する?」ユノ。

「私の名は伏せる。役職と決裁経路は出す」

「責任逃れと思われる」

「思われる」

「それでも」

「名を出すと、私一人の怠慢になる。出さないと、匿名の制度へ逃げたと思われる」

「どちらを選ぶ」

「今は、役職。刑事責任が問われるなら、法廷へ実名」

「社会的評価だけ匿名」とセレナ。

「そう」

 ソムナは元会計官を見る。

「自分を守りたい?」

「守りたい」

「町を守りたい?」

「それも」

「両方、言っていい」

 善意だけの証言者を作らない。

 自分を守る気持ちがあるから、証言全体が嘘になるわけではない。

 五人の選択を並べると、共通の公開範囲はほとんどなかった。

 顔を出す者。

 出さない者。

 声だけ。

 手だけ。

 数字だけ。

 紙の魚だけ。

 役職だけ。

「統一資料にならない」とユノ。

「統一しない資料」とソムナ。

「議員は読みづらいと言う」

「読め」

「本気の時、口が悪くなる」

「一拍待つ余裕がない」

 ユノはアルマを持ち直す。

「では、入口だけ統一する」

 最初の画面。

 この記録は、異なる人が異なる範囲を選んだ。

 映っていない部分を、不存在、虚偽、同意と解釈しない。

 途中で退出できる。

 閲覧者も、見ないことを選べる。

「閲覧者にも?」ハルの遠隔声。

「見る側が強制される場合もある」とアサ。「子供、当事者、似た経験がある人」

「公共記録なのに、見ない?」ユノ。

「公共であることと、全員が今見ることは違う」

「逃げる人も」

「いる」

「責任者が見ないと言ったら」

「職務上必要な部分と、私的映像を分ける」セレナ。

 見ないことを選ぶ条項は、責任から逃げる万能札ではない。

 何を見なくてよいか。

 何を職務として確認しなければならないか。

 誰がその境界を監査するか。

 閉じる権利にも、また権力が必要になる。

「ウェイク・クローズの監査者」とユノ。

「本人代表、医療、法務の三者。緊急時は一者で非表示、再公開は三者」ソムナ。

「本人が公開を望み、医療者が止める場合」

「危険を説明。最終は本人。ただし他者の私生活を含む部分は分離」

「本人が判断できない場合」

「過去指定。なければ保留」

「保留中に制度が続く」

「統計で争う」

「弱い」

「弱くても、人を材料にしない」

 ユノは、また完全には納得しない。

 だが、彼が納得しないことを理由に、本人の選択を削らなかった。

 試作された公開資料は、美しくなかった。

 画面の大半が灰色。

 ところどころ数字。

 手。

 勤務表。

 紙の魚。

 普通の書体で書かれた「今日は休め」。

 音楽はない。

 最後に涙を誘う言葉もない。

 ユノは一度、アルマの弓を上げた。

 そして、下ろした。

「音を入れない?」ソムナ。

「入れれば、どこで悲しむかを私が決める」

「成長」

「褒め方が医師に似てきた」

「評価した」

「セレナにも似た」

「嫌?」

「悪くない」

 公開資料の最後には、内容を見せない二百十一件の封印札が、番号だけ並んだ。

 それを見た議員は、空白ばかりだと言った。

 ユノは答えた。

「空白ではない。見せないと選ばれた記録です」

「中身がなければ、証拠にならない」

「検証者、検証方法、件数、契約時刻はある。あなたが見られないことと、存在しないことを同じにしないでいただきたい」

 その言葉は、夢灯都市の法廷へそのまま送られた。

 セレナは受領記録へ、こう書く。

 ――非公開であることは、未確認と同義ではない。

 ただし、検証者の誤り、利害、権限濫用の可能性は残る。

 正義は完成しない。

 完成しないことを隠さず、次に争える形で残す。

 ユノとソムナが、この夜に得た合意は、それだけだった。

 公開範囲を、五つへ分けた。

 一、制度統計。原則公開。

 二、契約文。個人識別部分を分離し、監査権限を限定。

 三、夢映像。本人の個別選択。

 四、医療情報。治療目的と法廷目的を分離。

 五、見たくない本人のための非表示。

 見ないことを選ぶ条項〈ウェイク・クローズ〉

「閉じる権利だけでなく、後から開く権利」とソムナ。

「期限は」ユノ。

「本人が決める」

「死亡後」

「事前指定。なければ非公開」

「共同人格の構成員が不明なら」

「個別記録は閉じる。構造統計だけ」

「それでは、議会が弱い証拠だと言う」

「言わせる」

「敗れたら」

「別の立証を作る」

「時間がかかる」

「早く勝つために、戻せないものを出さない」

 ユノは、完全には納得しない。

「私は、同意者の再現像を公表する案を残します」

「残していい」

「反対し続ける?」

「本人ごとに聞く」

「あなたの原則で止めない?」

「僕の原則も、本人の選択を代行しない」

「では、完全合意ではない」

「合意しないことを公開する」

 ユノはアルマの弓を上げる。

 演奏ではない。

 採決のように、一本の線を空へ置く。

「共同声明。非公開証言が存在する。件数、契約構造、賃金停止、終了手順は公開する。夢像の中身は本人ごとの許可なく公表しない。再現像案については継続協議」

「僕は署名する」

「私は、留保付きで署名します」

「どこ」

「公共性の判断を、個人拒否だけへ委ねない条項を今後検討」

「その条項には署名しない」

「だから留保」

「喧嘩したまま文書」アサ。

「文書は、仲直りの写真ではありません」とユノ。

「次に違う場所を残す地図」とソムナ。

「エリアの影響?」

「必要な影響」

 鏡通信を閉じる前、ユノは白い縁を一度指す。

「この通信の録画は」

「公開しない」ソムナ。

「私は自分の発言を公開してよい」

「僕の顔と声を切る?」

「あなたが決める」

「文面だけ。僕の私生活が映る部分は削除」

「食事量?」メイ。

「それは医療記録」

「正解」

 鏡が暗くなる。

 ユノとソムナは、同じ結論へ着かなかった。

 それでも、誰か一人の映像を勝手に真実の顔として差し出さないことだけは、同じ紙へ残した。

 法廷へ送られた声明には、夢の中身がない。

 その代わり、見せなかった証言が存在することが、初めて公的記録へ入った。