第539話 第六章「見せる権利、見ない権利」前編
真実を隠す権力は、古い。
王が敗北を隠す。
役所が死者を減らして書く。
家が暴力を体面の裏へ押し込む。
ゆえに、真実を見せることは長く、正義の側にあった。
しかし、見せる技術が強くなりすぎると、正義は別の顔を持つ。
被害者の泣き顔を、理解させるために見せる。
患者の夢を、制度を変えるために見せる。
亡くなった人の最後の言葉を、二度と繰り返さないために見せる。
見せる側は言う。
社会のため。
見られる側は、時に言う。
私のためではない。
鏡砂環の朝は、百枚の鏡へ別々に映っていた。
ユノ・ヴァレントは、そのうち九十九枚を布で覆わせた。
残した一枚にも、白い縁を付ける。
現実の窓ではない。
遠隔伝話の鏡像であることを示す枠。
白銀の髪。
左右で色の違う瞳。
膝へ置いた白いヴァイオリン、アルマ。
「こちらは公開記録室です。ただし、今から扱う内容は非公開です」
鏡の向こうに、ソムナが座る。
夢灯都市の小さな相談室。
椅子は出口が見える向き。
アサが右側。
メイは壁際で、二人の食事記録を取っている。
「公開室で非公開」とアサ。
「矛盾ではありません。公開設備を、非公開設定で使用しています」ユノ。
「設備名が、安心を先に言ってる」
「名称変更案へ入れます」
「今は変わらない」
「今、口頭で訂正します。ここは、公開にも非公開にもできる記録室です」
「長い」
「正確さは、時に長さという礼服を着ます」
「脱げない?」ソムナ。
「場面によって」
ユノが微笑む。
優雅な言葉は、刃を隠すことがある。
彼はそのことを知っている。
知っているから、刃を使わないとは限らない。
「本題へ。ルメへ外注された夢労働の記録を、議会と法廷へ提出したい」
その会談へ持ち込まれた記録は、百四十二件だった。
最初から百四十二人分ではない。
一人が五件を預けたものもあれば、家族四人が一件へ重なったものもある。仕事としては同じ「起床補助」でも、眠り袋を開ける、薬を飲ませる、窓を半分だけ透かす、亡くなった人の名を呼ばない、という条件は別々だった。
メイは内容を見ず、封筒だけを四つへ分ける。
公開可。
集計のみ可。
本人だけ可。
存在も非公開。
「最後の一箱、存在まで隠したら、件数が合わない」とユノ。
「合わないことを表示する」とアサ。
「公開総数、百四十二。内訳の合計、百三十七。差五件は非公開、では駄目ですか」
「差が五件だと見せた時点で、五人しかいない職場なら分かる」ソムナ。
「では、幅を持たせる。非公開件数は一から十」
「数が少ないことまで分かる」
「一から五十」
「数字が役に立たない」
「役に立たない数字にも、守る役はあります」
「それを役に立つって言う」
ユノの微笑みが、目元から先に崩れた。
「あなたは、言葉の意味をこちらへ返すのが上手い」
「返却期限はない」
「それは困る」
「困るまま持ってて」
アサが鼻から短く笑った。
机の端には、見ないことを選ぶ条項〈ウェイク・クローズ〉の札が置かれている。夢療を受ける者が、自分の夢の一部を見ない、聞かない、解釈させないと指定するための条項である。
夢療院は長く、患者が夢を見た以上、治療者は全てを見る権利があると考えてきた。
治すため。
危険を見逃さないため。
家族へ説明するため。
理由はいつも立派だった。
立派な理由は、粗末な鍵よりよく扉を閉ざす。
「見ない条項を、公的監査にも使う」とソムナ。
「患者制度を労働監査へ移植するのですか」ユノ。
「似た傷へ、同じ包帯を巻くとは言ってない。剥がせる留め方だけ借りる」
「夢の中で拒否した記録は、現実でも有効?」
「現実で確認する。確認できない時は、公開しない側へ」
「それでは、故人や失踪者の被害が永遠に出ません」
「出せないことを、勝手に同意へ変えない」
「沈黙を利用した加害者が勝つ」
「故人の生活を、勝つための証拠にしない」
二人の間へ、白いヴァイオリンの弦が細く鳴った。
ユノの慢性耳鳴りは、無音の時ほど強くなる。彼は無意識に右耳を少し傾けた。右手薬指は完全には伸びない。美しい演奏は、演奏者の身体が無傷である証明にはならない。
ソムナの方は、苦い種を噛んでいなかった。
それは眠気がないからではなく、本音を味で誤魔化さない時の癖だった。
「一件、試しましょう」とユノ。
「本人が選ぶ」
「当然です」
「当然って先に言うと、断りにくい」アサ。
「訂正します。本人へ、選択肢を提示してよいか聞きます」
対象になったのは、紙服職人の女だった。
名前も、年齢も、地区も、鏡へ出さない。
彼女がルメへ預けたのは、毎夜、仕事着を脱がせる手順だった。
職人は自分で服を脱げないのではない。
指関節が腫れた夜、袖口の糊を剥がすと翌日の仕事ができなくなる。だから眠りへ落ちた後、ルメが夢の中で「今日はここまで」と言い、現実側の補助灯が留め具を緩めた。
その記録には、同居人の怒鳴り声も入っている。
仕事を休むな。
金が足りない。
痛みは気のせいだ。
「怒鳴り声を出さなければ、外注の理由が分からない」とユノ。
「出せば、同居人が特定される」とソムナ。
「加害の可能性がある」
「可能性を、公開映像で判決にしない」
職人本人へ、四枚の札を渡した。
全映像。
手元だけ。
契約条件だけ。
非公開。
彼女は五枚目を求めた。
「私の手だけ出す。声は出さない。仕事着の留め具は見せる。怒鳴り声があったことは文字で出す。言葉の中身は出さない」
「理由を添えますか」とユノ。
「添えない。理由を見た人が、私を可哀想な職人にするから」
「制度を変えるには」
「私を見せなくても変えられる制度にして」
ユノは返事を急がなかった。
「その要求を、要求した本人の顔を使わず伝えます」
「それなら」
「ただし、伝わらなかった時、私は別の方法を提案します」
「勝手に出さないなら」
「勝手には出しません」
同意札へ、本人が自分で穴を開けた。
穴は中央ではない。
端に近い。
いつでも切り離せる位置だった。
「個別の夢は出さない」ソムナ。
「匿名化します」
「声、部屋、家族、病気で分かる」
「再現像を抽象化します」
「抽象化した人を、本人だと思われる」
「では、事実が伝わりません」
「伝えるために、本人を材料にしない」
「本人を守るために構造を隠せば、構造が続きます」
二人の言葉は、同じ人を守ろうとして衝突する。
ユノは外注搾取を公へ見せたい。
ソムナは、依頼者の私生活を公から隠したい。
「例を一つ」とユノ。
「出さない」
「架空例」
「架空だと明示」
ユノはアルマの弦を一度だけ鳴らす。
鏡の中央へ、白い縁の幻像。
夜の台所。
手が震える老女。
鍋を混ぜる灰衣の人影。
像の右下へ表示。
複数記録から構成。
実在人物一名の再現ではない。
確度、七割。
「これなら」ユノ。
「誰が見せられる」アサ。
「議会、公聴会、法廷」
「本人は」
「閲覧できます」
「見ない時」
「閲覧しない」
「他人が見るのは止まらない」
ユノの弓が止まる。
「共同被害の証明に必要です」
「必要と決めるのは」
「法廷」
「法廷は、被害者がいないと言った」ソムナ。
「だから見せる」
「見せたら、見せられた人が被害者の役をする」
「役を担わなければ、制度は動かない」
「その制度を変える話」
「制度を変えるために、今の制度を一度通る必要がある」
「その一度を、誰に払わせる」
鏡砂環と夢灯環の間に、沈黙。
ユノは右手薬指を押さえる。
古傷。
長く弓を持つと腱が熱を持つ。
「私自身の記録なら、公表します」
「ユノの記録で、ルメの依頼者は証明できない」
「同意者を募る」
「同意しない人が、隠した側に見える」
「では、何も見せない?」
「何も、じゃない」
ソムナは丸い折畳眼鏡を掛ける。
細字を見る時だけ。
「人数。契約件数。作業時間。賃金。終了条件。身体負荷。拒否率。公開を断った件数。中身を見せなくても、構造は出せる」
「物語がない」
「物語を要求する側が、他人の傷を分かりやすく並べる」
「数字だけでは、人は動きません」
「人を動かすために、誰かを映像へ固定する?」
「固定しない表示を作る」
「表示する時点で、見る順番を決める」
ユノは反論しない。
彼はかつて、確度を白い縁で示せば誘導を減らせると考えた。
その後、中央に置くこと、明るくすること、美しい音で終えること自体が、選択を誘導すると知った。
「ソムナ。あなたは、見せないことを美しくしすぎています」
今度はソムナが止まる。
「どういう意味」
「沈黙を守れば、清廉に見える。しかし、ルメへ仕事を預けた人の中には、他者へ押しつけた責任を隠したい者もいる」
「いる」
「その拒否も同じに守る?」
「拒否を守ることと、行為を免責することは別」
「どう分ける」
「記録の中身を見ないまま、契約時刻、報酬、権限、終了条件は監査する」
「私生活と制度を切る」
「完全には切れない」
「また不完全」
「完全に切れないことを表示する」
「美しくない」
「ユノに褒められた」
ソムナが、ほんの少し笑う。
四時間後、公開案は十三層になった。
第一層、制度の存在。
第二層、契約総数。
第三層、無報酬件数。
第四層、終了条件なしの件数。
第五層、身体負荷。
第六層、年齢別。ただし少数区分は合算。
第七層、依頼理由。ただし本人が語った語を別の語へ美化しない。
第八層、具体場面。本人が選んだ部分だけ。
第九層、非公開証言が存在するという事実。
第十層、非公開の理由は問わない。
第十一層、公開後の撤回方法。
第十二層、複写先。
第十三層、誰が見なかったかではなく、誰が見る権限を持ったかの記録。
「十三は多い」とユノ。
「七夜舞踏会は七夜あった」とソムナ。
「外交儀礼と記録公開は違います」
「長い礼服を脱げない人が言った」
「一本取られました」
「何本あるの」
「外交官は負けを総数で数えません」
「数えたら負けが増えるから?」
「勝ちも増えます」
「便利」
メイが帳簿を閉じた。
「便利という語を、便利に使うな」
三人が同時に黙る。
鏡越しのユノには、彼専用の食事が届いていた。葡萄と薄いパン、塩気の弱い豆。彼は一口ごとに感想を偽らない。酸い、硬い、温度は適切。
「外交設備としては不格好です」と言いながら、全部食べた。
ソムナは半分で手が止まった。
「残すな」とメイ。
「眠い」
「眠い時に食べる」
「口が仕事を拒否」
「拒否理由は有効。代替を選べ。スープ、糖片、二十分休む」
「休む」
「二十分」
「議論が」
「議論は患者じゃない。待てる」
ソムナは椅子を出口へ向けたまま、目を閉じた。
夢を見られない夢葬師は、眠りを休息として使うのが下手だった。
眠れば、自分だけが何も見ない。
他人の夢へは入れるのに、自分の眠りには誰もいない。その空白を彼は長く、欠損と呼ばれてきた。
アサが相談室の扉を半分開ける。
「出口」
「見えてる」
「閉じてもいい」
「今は開ける」
「有効」
ソムナは十七分だけ眠った。
起きた時、ユノは待っていた。
待つことは、相手の同意を尊重する最も簡単な方法に見える。
だが待てる者には、待つための時間と食事と地位がある。待つことを美徳にしすぎれば、待てないほど困窮した者を責める。
「町は、待てません」とユノ。
「だから急いで決める?」
「急ぐ項目と、急がない項目を分ける」
「同じ」
「あなたの言葉を借りました」
「返して」
「利息を付けて」
「契約してない」
ユノは、最後の案を映した。
画面中央には誰の顔もない。
空の椅子が十四脚。
十三脚には、公開範囲を示す札。
最後の一脚だけ、札がない。
字幕。
この調査には、公開されない証言が存在する。
公開しない選択は、行為の免責を意味しない。
監査者は私生活を閲覧せず、契約条件と権限だけを確認する。
証言者は後から公開範囲を狭められる。
既に複写された記録の所在は通知される。
削除不能な複写があれば、その不能自体を表示する。
「最後の椅子」とソムナ。
「存在も公開したくない証言のため」
「椅子を置いたら、存在を公開してる」
「これは実数ではない。欠席のための席です」
「欠席を演出してる」
「そうです」
ユノは逃げなかった。
「演出を完全に消せないなら、演出した者を表示する。私の名を付けます」
「名を付けたら、ユノの善意が中心になる」
「では、制作記録へ。画面には出さない」
「それで」
「合意?」
「一部」
「どこが不合意です」
「空椅子。僕は置かない方がいいと思う」
「私は、見えないものがあると知らせる方がよいと思う」
「どっちも残す」アサ。
「映像版は空椅子あり。文書版は記号だけ。証言者が選ぶ」
「統一されません」とユノ。
「統一しないのが、今回の統一」とソムナ。
「言葉遊び」
「手続」
ユノは笑った。
ソムナも、少し遅れて笑った。
完全な合意はない。
完全でないことを隠さない合意だけが、できた。