第538話 第五章「一人分ではない筆跡」後編
別れ札は、同じ時刻に届いたと住民が証言していた。
同じ時刻、という言葉も調べる必要がある。
夢灯都市には、町じゅうで同じ一秒を持つ時計がない。
灯籠区は光の巡回。
鐘紙街は鐘。
夜荷場は勤務札。
診療所は脈時計。
「同じ零時でも、最大四分ずれる」とセレナ。
「四分で何が変わる」とハル。
「一人が配ったか、網が一斉生成したか」
「走れば」
「七百三十二軒を四分?」
「俺でも無理」
「比較基準にしない」
配達経路を調べる。
札は戸口へ置かれていない。
枕。
作業台。
薬棚。
子供の靴箱。
受取人が最初に見る場所へ現れた。
「伝羽じゃない」とエリア。
「夢灯網の個人出口」とソムナ。
「無断で家の中へ」ハル。
「依頼札を返す契約条項」セレナ。
「契約した時、分かってた?」
「確認します」
旧契約書は、二百三十頁あった。
返却方法は百八十七頁。
文字は、米粒より小さい。
「読ませる気ない」とハル。
「読める大きさであることと、読める条件は違う」セレナ。
「老眼の人」
「拡大具を別途購入」
「金取る?」ロロ。
「夜市の慣行」
「契約読むための工具を有料にするな!」
契約は、内容だけでなく、読むために必要な時間、視力、教育、静かな場所まで要求する。
署名があるから同意した、と法は言う。
だが歴史上、多くの同意は、読む余裕のない人間へ時間の形で強制されてきた。
「返却条項へ同意した人」とセレナ。
住民説明会で手を上げたのは、八百人中三人。
「読んだ人」
十五人。
「説明を受けた人」
四十六人。
「返却場所を選べると知っていた人」
零。
「同意してない」とハル。
「法的には署名済み」受付官。
「じゃ、法的同意と、知ってたことは違う」
「その可能性」セレナ。
「可能性じゃなく」
「個別に確認する。全員が知らなかったと、今の手上げだけで決めない」
ハルは不満そうにしながら頷く。
正義は、急ぐと、自分に都合の良い被害者像を作る。
札の配達時刻は、六分間へ分散していた。
同時ではない。
しかし、一人が走って配った順でもない。
契約束が終了した順。
最初に、支払周期の短い作業。
次に、医療補助。
その後、感情代行。
最後に、名前を呼ぶだけの依頼。
「命に関わるものが先に止まった?」メイ。
「支払周期が短いから」とセレナ。
「重要度じゃない」
「会計上の更新頻度」
「薬は毎日、慰めは月額」とハル。
「だから薬が先に切れた」
「人の命より、請求周期」
「制度に命の順位が入っていない」
悪意がない。
悪意がないことは、被害を小さくしない。
むしろ、悪意を探す捜査だけでは見つけられない。
「停止の順番が、別れ札の筆跡切替と同じ」とロロ。
彼は依頼札の束と、文字の圧痕表を重ねる。
薬師の線が先に消える。
パン職人。
橋守。
子守。
「書く人が交代したんじゃねえ。停止した記憶が、最後の文へ順番に出た」
「終わった機能が、自分の部分を書いた」とソムナ。
「一つの手が書いたように束ねられた」セレナ。
「一人分ではない筆跡」ハル。
章題のような言葉を、彼は気にせず言った。
実証のため、セレナは公開再現を行った。
住民から許可を得た五つの作業記憶だけを、空の夢紙へ接続する。
鍵を回す手。
生地を折る手。
鐘縄を止める手。
薬匙を量る手。
子供の靴紐を結ぶ手。
「人格を作らない」とソムナ。
「作業単位。相互参照なし。応答名なし」
「終了権」
「各提供者一人で切断」
「監査」
「セレナ、メイ、提供者」
五つの記憶が、同じ文を書く。
――お預かりしていたことを、終えます。
文字は、一画ごとに変わった。
五人が同時に筆を持ったのではない。
夢紙が、文の意味へ最も近い動作記憶を選び、その手癖を使った。
「『預かる』で鍵守」とセレナ。
「『終える』で鐘守」ロロ。
「『こと』で靴紐」とハル。
「なぜ靴紐」
「結ぶものだから?」
「夢紙は意味を完全に理解していない」とソムナ。「近い習慣で穴を埋める」
「ルメと同じ」
再現紙は、最後の署名を書けなかった。
応答名を与えていないからだ。
「ルメという名前が、単なる印刷文字じゃない」とハル。
「機能束が自分を呼ぶ位置」とセレナ。
「人格?」
「判断材料」
「まだ言わない」
「まだです」
公開再現を見た住民の中から、声が上がる。
「なら、ルメは私たちだ」
「私たちが死んだ?」
「誰も死んでない」
「じゃ、泣いたのは何だった」
セレナは、答えを一つにしない。
「仕事を失った。声を失った。習慣を失った。頼っていた関係を失った。共同名が停止した。どれを悼んだかは、住民ごとに違う」
「葬儀は間違い?」
「事実評価ではありません」
「役人の逃げ」
「私には、他人の悲しみを正誤判定する権限がない」
その言葉に、怒っていた女が黙った。
正しい悲しみだけを認める法は、認められない者を二度失わせる。
再現後、セレナの右手首が腫れた。
「熱、五」とメイ。
「三」
「測った」
「感覚は三」
「身体は五」
「記録を」
「ハル」
「俺?」
「筆記」
「字」
「今回は音声も残す」
「信用された?」
「二重記録」
「半分」
ハルは筆を取る。
「何を書く」
「私が、これ以上は見ていないこと」
「見てないことを書く?」
「単眼鏡を外した時刻。以後の判断は、ロロの圧痕記録と公開映像に基づく。私の直接観察ではない」
「弱くならない?」
「証言は弱くなる部分を隠すと、全部が弱くなる」
ハルは、ゆっくり書く。
字は不格好。
時刻は正しい。
「署名」とセレナ。
「俺の?」
「筆記者」
「星律官の記録に、俺の字」
「責任を分ける」
ハルは名前を書く。
筆跡は一人分だった。
だからこそ、誰が書いたかが残った。
仮設法廷が、夕刻色の灯籠を点けた。
受付官ではなく、移動法廷の審理官が座る。
灰色の法衣。
名前はエノ・ヴェイル。
細い声で、書類を一枚ずつ整える。
「申立て。ルメ死亡、または人格停止に伴う共同被害の調査継続」
「はい」とセレナ。
「死亡記録なし」
「はい」
「身体なし」
「夢外の固定身体なし」
「登録人格なし」
「人格登録の対象外として十九年運用」
「原告」
「町の複数住民。個別契約者。生活機能停止の影響者」
「全員の名簿」
「公開を拒否した者がいる。匿名申立てを含む」
「被告」
「未確定。会計制度、契約管理者、危機局、夢灯網運営体、利用者側の責任を分けて調査」
「一件へまとめすぎです」
「分けると、人格停止を誰も扱えません」
「まとめると、個別行為の責任が薄まる」
「だから、記録を分けたまま同時審理を」
エノは首を振る。
「法に、その人格がいません」
「生活にはいました」ハル。
「発言許可を」セレナ。
「今取る。発言していい?」
エノが一瞬、答えに詰まる。
「許可します」
「パンが焼けなくなった。薬が止まった。子供が母親を失った。なのに、法の欄に名前がないから、被害者なし?」
「被害は、個別住民の業務損失として申告できます」
「ルメに起きたことは」
「法的人格でなければ、設備停止」
「設備が別れ札を書く?」
「自動生成の可能性」
「設備が、自分を葬る?」
「儀式化された停止手順」
「それを誰がしたか調べるのが捜査じゃない?」
「被害者が成立しない」
「成立しないと、調べない。調べないから、成立しない」
言葉が輪になる。
葬列と同じ、町を一周する輪。
セレナが前へ出る。
「被害者の単位が未確定であること自体を、調査対象へ」
「法的根拠なし」
「共同誓術による複数主体の規定」
「人格ではなく契約主体です」
「労働主体規定」
「身体を持つ労働者が前提」
「文化共同体保全」
「存続中の文化が対象」
「存続しているか調べるために」
「被害者がいません」
審理官は判を押す。
捜査終了。
個別損害申告へ移管。
ルメ人格停止については、被害者不成立。
紙の音は小さい。
町じゅうの人がいなくなった音より、ずっと小さい。
セレナは判を見つめる。
怒りで、右手首の痛みを忘れない。
忘れれば、自分も仕事へ身体を預ける。
「不服申立て」と言う。
「受理要件は」
「今から作ります」
「法を作るのは捜査官ではありません」
「だから、作る人へ事実を持っていく」
「事件は終了です」
「事件名を変えます」
「何に」
セレナは、別れ札を一枚掲げる。
一人分ではない筆跡。
「被害者のいない葬列」
法廷は捜査を終えた。
町の損失は、終わらなかった。