第537話 第五章「一人分ではない筆跡」前編
法は、人を数える。
一人の原告。
一人の被告。
一人の死者。
一人の所有者。
数えることは、守るために必要だった。
誰の傷かを曖昧にしない。
誰の責任かを群衆へ溶かさない。
大きな国や会社や共同体が、「皆のため」と言って、一人の被害を消さないようにする。
しかし、人を一人ずつ数える器は、最初から一人ではなかったものを、こぼす。
こぼれたものは、存在しないのではない。
器の方が、形を知らないだけである。
「被害者名」
夢灯都市の仮設法廷で、受付官が聞いた。
「ルメ」とセレナ。
「公的登録番号」
「なし」
「生年月日」
「共同名の初回応答日は十一月十一日。人格成立から十九年。構成記憶の最古は六十一年前」
「一人分で答えてください」
「一人分ではない可能性を申し立てています」
「申立て欄がありません」
「空欄で」
「必須項目」
「必須であることを記録して、空欄」
「受理できません」
「受理できないことを受理してください」
受付官は瞬きをする。
「言葉遊びですか」
「手続です」
ハルが横から言う。
「言葉で遊んでるのは、欄の方じゃない?」
「凪野ハル」セレナ。
「黙る?」
「少し」
「少しって何文字」
「零」
ハルは口を閉じる。
三秒後に開く。
「今ので零は終わった」
「外へ」
「黙る」
申立ては保留された。
その間に、セレナは別れ札を調べる。
七百三十二枚。
同じ文面。
同じ黒墨。
同じ時刻に配達。
見た目には同じ筆跡。
机へ、十枚ずつ並べる。
右手首の腱へ熱が集まる前に、一巡二十分。
五分休む。
左眼は閉じ、六角単眼鏡を右へ。
「休憩まで記録?」ハル。
「見落としの条件です」
「俺の肩も記録しろってこと?」
「既にしています」
「いつ」
「あなたが報告しない時も」
「監視」
「観測」
「同じ?」
「目的と権限が違う」
「今回は言葉の違いが本当に違う巻だな」
「巻?」
「気にしない」
セレナは札の最初の一文字を見る。
お。
丸み。
始筆。
墨溜まり。
一見同じ。
「筆圧、途中で変わる」とロロ。
「あなたの目でも?」
「紙の凹みは機械痕」
「文字は私」
「分業」
「境界を越えないで」
「修理工へ文字の綴りを言うなよ」
ロロは紙の裏へ斜光を当てる。
一文の途中で、溝の深さが変わっている。
お預かりしていたことを、終えます。
「お」から「預」までは弱い。
「かり」で強くなる。
「して」で右へ傾く。
「いた」で丸くなる。
「ことを」で急に細い。
「終えます」は、三種類の止め方。
「一人が気分で変えた?」ハル。
「同じ切替位置が、別の札にもある」セレナ。
「文の役割ごと」
「『預かる』は鍵守ネラの字形に近い。『終える』は鐘守リム。『忘れた』の払いはパン職人カナ」
「みんな書いた?」
「本人は書いていない」
「ルメが借りた」
「筆跡だけでは、借りた方法を立証しない」
「でも一人じゃない」
「一人が数十人を模倣した可能性も残る」
「全部、残す」
「不明を削ると、結論が早くなります」
「早い方が」
「間違いも早い」
札を分解する。
筆圧。
字形。
句読点。
語尾。
紙を押さえた指の位置。
墨を足す間隔。
七百三十二枚すべてが完全に同じではない。
受取人の家へ合わせて、微細な変化がある。
薬師へは「終えます」の前に一拍長い空白。
子守区へは「忘れないでください」の字が大きい。
橋守へは句点が槌打ちの三点。
ノナの家へ届いた札だけ、最後に小さな灯の絵。
「個別に書いた」とハル。
「個別へ調整された」
「誰が」
「ルメ、という仮説」
「本人の筆跡はない?」
セレナは手を止める。
「本人の筆跡、という前提が成立しない可能性があります」
「全員分が本人?」
「全員分を使ったものがルメなら」
「人の字を盗った?」
「依頼契約に筆致利用が含まれているものもある」
「含まれてないのも」
「ある」
「じゃ、盗った」
「無断利用。盗難と同じ法分類ではありません」
「細かい」
「責任の形が変わる」
セレナは自分の右手首を押さえる。
熱、二。
「休憩」とメイ。
「あと一枚」
「一枚が二枚になる顔」
「顔で診断しないで」
「腱で診断した。休め」
セレナは筆を置く。
休むことは、調査を遅らせる。
休まず誤読することも、調査を遅らせる。
仕事を誰かへ預けることは悪ではない。
預けたことを消し、していない者の名へ功績だけ載せることが問題だった。
「続き、俺が紙を並べる」とハル。
「順序を変えないで」
「番号読む」
「綴り」
「数字」
「数字なら」
「信用低い?」
「文字より高い」
「ロロより?」
「比較しません」
「した顔」ロロ。
調査の途中で、ノナの母イア・セイが来た。
夜荷場の作業服は雨と灯油に濡れている。両掌には、荷縄を引き続けた赤い跡。
「娘が、ルメを母親だと言った」セレナ。
「知ってる」
「あなたの声と子守手順の記録へアクセスする許可」
「何を調べる」
「ルメへ依頼した範囲。いつ、どの言葉を預け、どこまで更新されたか。内容は公開しない」
「ノナの夜を、事件の見世物にしないで」
「しません」
「でも調べる」
「あなたとノナが許可した範囲だけ。許可がなければ、分からないまま残します」
「じゃ、証拠が足りなくなる?」
「足りない証拠を、親子の私生活で勝手に埋めません」
イアは、怒る準備を失った顔をする。
「役人は、分からないと言わない」
「私は役人です」
「じゃ、変な役人」
「よく言われます」
ハルが小声で言う。
「俺は毎巻言ってる」
「零文字」セレナ。
「休憩中」
「私の休憩です」
イアはノナの札を見つめる。
「自分の声を、私が買った」
「契約を?」
「声そのものじゃない。寝る前の順番。髪紐を緩める。水を置く。魚灯を一つ残す。悪夢の後に、起きたら私は帰ってくる、と言う」
「ルメへ」
「最初は夜間子守の別名だった。何年かしたら、全部ルメになった」
「更新へ同意した?」
「最初の一回だけ」
「ノナは」
「三歳だった」
「今、続けたいか聞いた?」
「聞けなかった。止めたいと言われたら、夜にいなかった私まで要らないと言われる気がした」
「あなたは、戻したい?」
「ノナが眠れるなら」
「あなたは」
「眠りたい。働きたい。帰りたい。どれか一つを選べと言われたくない」
セレナは、その文を記録する。
自分を欄外へ置かない言葉。
共同体の労働は、欄外へ追い出された時間から安く作られる。
別れ札の筆跡は、四十三人分まで分解できた。
四十三人でルメ全体ではない。
比較対象がある人だけ。
残る線は、亡くなった者、登録されていない者、筆記をしない者、夢内でだけ字を書く者かもしれない。
記録へ残らない不在〈ネガティブ・ログ〉。
ないことを、零として消すのではない。
照合できない、拒否された、失われた、記録されたことがない、を別々の空白へする。
セレナは、証拠表の中央へ「一名」と書かなかった。
四十三以上。
上限不明。
人格単位未確定。
「法廷、嫌う書き方」とユーディ。
「法廷へ合わせて事実を削りません」
「受理されなければ」
「受理しない制度を記録する」
「町は今止まっている」
「生活復旧と人格認定を並行」
「並行する人手が」
「足りない。足りないことも、ルメへ集中した理由です」
ユーディは半面紙の下で息を吐く。
「危機局は完全再起動案を準備する」
「決定ではなく」
「選択肢」
「終了条件を」
「後で」
「先に」
「再起動条件が分からない」
「分からないなら、分からないまま永続へ戻さない」
紙を三度。
「案だけ」
筆跡を分解するだけでは、札がどう作られたかは分からない。
四十三人分の特徴が混じる。
それは、四十三人が筆を回した証拠ではない。
一人が模倣した可能性。
夢灯網が記憶を合成した可能性。
受取人が、知っている字形へ後から意味を寄せた可能性。
「読む人の記憶で、字が変わる?」ハル。
「夢紙にはある」とソムナ。
「じゃ、同じ札を二人で見たら」
「違って見えるかもしれない」
「今までの鑑定、全部」
「現実固定してから見ている」とセレナ。
「いつ」
「最初に灰塩を振りました」
「見てない」
「あなたが受付官と零文字を争っていた時」
「重要作業を、俺の名場面の裏で」
「名場面ではありません」
灰塩は、夢紙の形を現実へ固定する。
固定前の札を、一枚だけ別室へ残してあった。
実験室へ、五人が入る。
セレナ。
ハル。
ソムナ。
リム。
カナ。
同じ札を、順に見る。
「文面を口にしない」とセレナ。「見えた字形を、別紙へ写す」
「俺の字が基準になる?」ハル。
「基準から外すため、比較群」
「ひどい使い方」
「役に立つ」
「褒められた?」
「分類されました」
五人が書く。
ハルには、最後の『ルメ』が子供の丸字に見えた。
リムには、妹が生前書いた細い字。
カナには、夫の伝票の角張った字。
ソムナには、夢葬工房の古い共同記録体。
セレナには、複数の字形が切り替わるまま見えた。
「見る人に合わせた」とハル。
「一部は」とソムナ。
「じゃ、別れ札は、受取人が一番ルメらしいと思う字へ」
「全部ではない」セレナ。
灰塩固定前後を比較する。
変わる箇所。
変わらない箇所。
挨拶と署名は、受取人の記憶へ寄る。
契約終了文と返却不能項目は、固定された複数筆致。
「感情は相手に合わせ、責任文は構成記憶のまま」とセレナ。
「優しい?」ハル。
「読みやすくする機能」
「優しさって、機能?」
「機能だけではない場合もあります」
「ルメの場合」
「不明」
ソムナが固定前の札へ手を近づける。
「触らない」とセレナ。
「分かってる」
「夢縫いを使えば」ハル。
「書いた時の記憶へ入れるかもしれない」ソムナ。
「じゃ」
「使わない」
「どうして」
「誰の記憶か分からない。七百人分かもしれない。入ったら、見せない権利を選べない」
「真相が分かるのに」
「分かることと、見ていいことは違う」
後の公聴会で争う問題が、すでに一枚の札の前にあった。