第536話 第四章「誰かにしてほしかったこと」後編
三人目は、豪華な外套を着た商人だった。
「謝罪を頼んだ」
「何をした」とセレナ。
「取引先へ支払いを遅らせた」
「ルメが謝った?」
「私の言葉で、誠実に」
「支払いは」
「さらに遅れた」
「謝罪だけ外注」ハル。
「忙しかった」
「払う時間より、謝る時間がなかった?」
「資金がなかった」
「なら、そのことを」
「言えば信用を失う」
「ルメの謝罪で信用を保った」
「契約だ」
商人は胸を張る。
「私は正規料金を払った」
「誰へ」とセレナ。
「夜市」
「ルメへ賃金は」
「手数料に含まれる」
「明細」
「ない」
「休息費」
「知らない」
「終了権」
「依頼者側」
「ルメ側は」
「設備だろう」
ハルの顔が変わる。
「さっきまで、誠実に謝ったって言った」
「高品質の文面」
「相手が機械なら、誠実って誰の気持ち」
「受け取る側がそう感じれば」
「じゃ、嘘を売った」
「商売だ」
アサがハルの前へ杖を置く。
「殴る?」
「殴らない」
「今、決めた」
「聞かなくても」
「自分で言うため」
ハルは拳を開く。
「謝罪を代わりに言わせたことと、金を払わなかったことは別に記録する」とセレナ。「ルメを設備と思ったことは、人格認定の争点。今ここで判決しない」
「全部、別」商人。
「別にすれば、一つずつ責任が残ります」
商人は、初めて外套の襟を直さなかった。
聞き取りが十人を越えると、同じ理由は一つもなかった。
貧困。
身体の痛み。
夜勤。
介護。
恥。
孤独。
家族へ言えないこと。
職を失う恐怖。
善意を断れない気持ち。
今日だけのはずだった疲労。
共通していたのは、誰も「自分を全部、代わりに生きてほしい」とは頼んでいないことだった。
小さな行為を頼んだ。
小さな行為がつながった。
つながった結果を、誰も全体として契約していない。
「ルメを戻せば、全部の理由がまた一つへ束ねられる」とソムナ。
「戻さなければ、支援が消える」とハル。
「だから、二つじゃない答えを探す」
「ある?」
「今は、ない」
「ないのに行く?」
「ないから、帳簿を見る」
聞き取り札を抱え、四人は灯籠川へ向かった。
夢を売買する地下市場〈ナイト・バザー〉は、町の地図に載っていない。
違法だからではない。
入口が、眠る人ごとに違うからだ。
ある者は寝台の下。
ある者は閉店後の店の奥。
ある者は、亡くなった家族の夢を見た翌朝だけ開く戸。
現実側の搬入口は一つあった。
灯籠川の底。
「潜る?」ハル。
「水へは入らない」とソムナ。
「川の底」
「夢の底へ行く」
「濡れる?」
「現実の服は濡れない」
「夢の服」
「濡れたと思えば濡れる」
「便利?」
「濡れたくないと思い続ける必要がある」
「不便」
「夢は、願えば叶う場所じゃない。願ったことへ気づかれる場所」
参加するのは、ソムナ、ハル、セレナ、アサ。
エリアは現実側の帰還座標を描く。
ロロは灯籠川の旧点検口を固定。
カイルは診療所と配給の支援。
ノクスは入口まで。
「ノクス、夢へ来ない?」ハル。
二本尾の夜獣は点検口を嗅ぎ、顔を背けた。
「匂いがないから?」
「本人が選ばないなら連れていかない」ソムナ。
「ナァ」
「今のは」
「翻訳しない」
ハルは赤いマフラーを結び直す。
「戻る条件」エリア。
「肩四。呼吸三。自分の名前が言えない。出口が一つに見える」
「最後、大事」ソムナ。
「夢では出口が増えるんじゃない?」
「追い込まれると、一つだけ正しく見える」
「現実と同じ」
「現実より、正しく見える」
ソムナは綴灯杖ピロウを点検口へ差す。
橙の紙灯が一本、暗い水の底へ伸びる。
患者がいつでも見つけられる夢の出口〈ウェイク・シーム〉。
夢へ入るための扉ではない。
出るための切れ目を、先に縫う術だった。
「ここ」ソムナ。「戻りたい時、理由を説明しなくていい。触って、現実の場所を言う」
「ゼロスター号」ハル。
「今は川底点検口」セレナ。
「船じゃない」
「現実位置を正確に」
「灯籠川、冷たい鉄、エリアが外」
「十分」
四人は、紙灯の切れ目をくぐった。
地下夜市は、上から下へ広がっていなかった。
昨日から今日へ。
頼んだ時から、頼まなくなった時へ。
時間の順で、通路が折れている。
最初の店に、目覚ましが売られていた。
鐘ではない。
――薬の前に起こして。
――子供が帰ったら、怒らず聞いて。
――夫の命日に、花を買うのを思い出して。
――眠れない夜、眠れと言わず湯を置いて。
紙札へ書かれた「誰かにしてほしかったこと」が、透明な瓶の中で小さく動く。
「商品?」ハル。
「依頼」とソムナ。
「値札ある」
「夢灯網が代行するための維持費。人間へ頼むより安い」
「人間に払わない分」セレナ。
「それもある」
次の店。
――朝、右足から靴を履かせて。
――亡くなった娘の声で誕生日を祝って。
――上司へ断る文を、私の代わりに書いて。
――台所の火を消したか、眠る前に三回確認して。
ハルは瓶を見つめる。
「自分でできる」
店番が言う。
「できる日に頼む人はいない」
顔を半分、値札布で隠した老人。
「誰」セレナ。
「店番」
「名前」
「買うなら」
「捜査協力」
「捜査なら、令状」
「被害者が確定していないため、令状申請が止められています」
「なら客だ」
「何を買う」ハル。
老人は空の瓶を出す。
「質問の答え」
「値段」
「お前が、誰かにしてほしかったことを一つ」
「金じゃない?」
「ここは夢市だ」
「ハル、答えなくていい」とアサ。
「答えないと進まない」
「進まないことを選べる」
「でも町」
「町を理由に、あなたの私事を取らせない」
ハルは迷う。
父に帰ってきてほしかった。
エリアに置いていかないと言ってほしかった。
誰かに、地球へ帰るかここへ残るか決めてほしかった。
どれも、言えば店番だけのものでは済まない。
「荷物を持ってほしかった」
「いつ」
「左肩が痛い時」
「誰に」
「誰でも」
「嘘ではない」とセレナ。
「全部でもない」と店番。
「全部を払う契約じゃない」ハル。
老人が笑う。
「値切る客は長生きする」
空瓶に、赤い糸が一本入る。
「ルメの仕入れ帳は、奥。今朝、閉じた」
「誰が」
「誰も。支払いが来なかった」
奥へ進むほど、通路は狭くなる。
依頼札が天井から垂れ、顔へ触れる。
どれも小さい。
朝の一言。
鍋を混ぜる十二回。
橋槌を三箇所へ当てる。
薬を挽く音を聞く。
戸鍵を右、左、半回転。
子守歌の二番だけ。
「全人格を作る契約がない」とセレナ。
「小さい仕事だけ」ハル。
「誰も『ルメという人を作ってください』とは頼んでいない」ソムナ。
「じゃ、ルメは勝手にできた?」
「勝手、という語は責任を消す」
「自然に」
「自然も、作った人を隠すことがある」
ソムナは札へ触れない。
夢断片は、触れた者の記憶へ縫いつく可能性がある。
「見えるだけで調べる」
「夢葬師なのに」ハル。
「案内人だから」
急に、通路の床が動いた。
依頼札の棚が、葬列の鐘へ合わせて一列ずつ閉じる。
「停止手順!」ソムナ。
「出口」セレナ。
「後ろ、二本。右は起きる、左は別市場」
「正面は」
「帳簿室!」
「行く」とハル。
「戻る条件」
「出口が一つに見えたら止まる!」
床が縦になる。
夢の重力は、夢らしく自由ではない。
その場で一番強く信じられた向きへ、全員を落とす。
ハルは壁へ走る。
左肩を使わず、右手で紙棚の縁をつかむ。
補助索は夢へ持ち込めない。
代わりに赤いマフラーが長く伸び、紙梁へ絡む。
「それ、現実でできない」とセレナ。
「夢だから!」
「便利に使うと、出口判断が狂う!」ソムナ。
「じゃ、外す!」
ハルはマフラーをほどく。
落ちる。
「ハル!」
「右の棚!」
アサが杖を横へ出す。
「掴む?」
「掴む!」
本人確認。
ハルは杖を右手でつかむ。
アサが引かない。
セレナとソムナがアサの腰へ手を掛け、四人で体重を分ける。
「救助する人が引くんじゃない?」ハル。
「自分で上がる部分を残す」とアサ。
「厳しい」
「左肩は使わない」
「もっと厳しい!」
足を紙棚へ掛ける。
右腕、両脚。
上がる。
床がさらに回る。
帳簿室の扉が、頭上へ移る。
「ソムナ!」
綴灯杖が伸びる。
扉の縁へ、醒め目の切れ目を縫う。
「入る前に出口?」
「奥で閉じたら、ここへ戻る」
「起きる出口じゃない」
「途中退出も出口」
四人は扉へ滑り込んだ。
帳簿室には、机が一つ。
椅子が多すぎた。
子供用。
老人用。
背もたれのない作業椅子。
車輪付き。
床へ座るための薄布。
最後の一脚だけが、空いている。
「誰の席」とハル。
「ルメの記憶に出る癖」とソムナ。
「知ってる?」
「夢葬工房の古い記録。会話の後、椅子を人数分出して、最後を空ける共同夢があった」
「ルメ」
「名前は伏せられていた」
机の上へ、仕入れ帳。
紙ではない。
何千枚もの薄い灯が、一冊の形をしている。
セレナは右手首を固定し、左眼を閉じる。
「閲覧だけ。複写は公開範囲確認後」
「今は町が止まってる」ハル。
「だからこそ、急いで私生活を持ち出さない」
帳簿を開く。
依頼者名。
行為。
時刻。
報酬。
更新。
終了条件。
小さな契約が、十九年分。
最古の技能記憶は六十一年前。
古いパン職人の手。
亡くなった橋守の耳。
子守歌。
薬の音。
「ルメが十九歳で、記憶は六十一歳?」ハル。
「人格として名乗ったのが十九年前。材料はもっと古い」ソムナ。
「人間なら?」
「十五歳の僕に、祖父の手順が入っているようなものではない。持ち主が別々のまま、使う時だけ前へ出る」
「一人じゃない」
「でも、ただの一覧でもない」
帳簿の端へ、赤い糸。
複数の依頼が同じ時間へ重なると、糸が結ばれる。
朝のパンと、薬と、子守歌。
互いに関係ない仕事が、町の一日を作るため同時に必要になる。
その結び目へ、名前が付いていた。
ルメ。
多数の依頼を束ねた共同人格〈ルメ〉。
「誰が名前を付けた」セレナ。
「記録は」
ソムナが指す。
最初の自己応答。
――呼ぶなら、ルメ。
「本人が?」ハル。
「本人という単位が、その時にできた」
「依頼の束が、自分で名前を言った」
「そう読める。でも一文だけで人格を証明しない」セレナ。
次の頁。
支払記録。
昨夜、公開予測配信停止。
予測統合会計から支払われていた共同処理費が凍結。
医療、火災、記録保全へ属さない依頼が、一斉に未払いへ移る。
七周期未払いで自動終了。
「七周期?」ハル。
「夢灯網の内部時刻。現実では、昨夜から今朝までに七回」ソムナ。
「誰かが殺したんじゃない」
「会計が止めた」
「会計は人じゃない」
「会計を作った人、支払先を隠した制度、止める時に確認しなかった危機局、無料の仕事として使った町」セレナ。「責任候補は複数」
「葬列は」
帳簿の最後。
契約束の停止時、夢労働人格を静かに解結するための終了儀式。
道具を棺へ集める。
依頼札を返す。
各区を一周し、結び目を順に消す。
「停止手順が葬式の形」とアサ。
「犯罪隠しじゃない」とハル。
「隠しているものはある」セレナ。
「何」
「労働終了を『自然死』へ見せる。未払いを『別れ』へ。責任を『悲しみ』へ」
ソムナは苦い種を噛まない。
「戻せば、町は動く」
「契約を払う?」
「全部を再結合する」
「できる?」
「たぶん」
「やる?」
答えの前に、帳簿室が揺れた。
停止手順が次の段階へ入る。
椅子が一脚ずつ消える。
子供用。
老人用。
作業椅子。
最後の空席だけが残る。
ソムナはその椅子を見た。
「今は、戻る」
「町を戻すんじゃなく?」ハル。
「僕たちが」
醒め目へ手を伸ばす。
「答えを持ち帰る。決めるのは、起きた人たち」
四人は灯籠川の冷たい鉄へ戻った。
現実の葬列は続いている。
ルメは殺されていなかった。
未払いの何千件もの小さな依頼が、同時に「もうしない」と言われた。
誰も殺していない。
誰も無関係ではない。
犯人のいない真相は、町全員へ薄く責任を配った。