第542話 第七章「町を支えた代理人」後編
ルメの機能表は、仕事の一覧だけでは足りなかった。
いつ始まったか。
誰から誰へ引き継がれたか。
何を補うために別の習慣が足されたか。
依頼者がやめた後も残ったか。
エリアは、機能の系譜を地図へした。
最初の線は、六十一年前のパン窯。
老職人が、弟子へ生地の匂いを教えるため、自分の夢記憶を一晩だけ貸した。弟子が覚えた後、返す契約だった。
「返ってない」とカナ。
「弟子は覚えた。でも記憶の複製が教育庫へ残った」とセレナ。
「違法?」ハル。
「当時は規定なし」
「規定がないと、何してもいい?」
「後から違法にはできない。ただし、今後使う条件は変えられる」
その教育記憶が、四十年前の共同窯へ転用された。
手を負傷した職人の補助。
さらに、戦後の食糧不足で夜間無人窯へ。
そして十九年前、ルメの最初の生活束へ。
一本の線が、時代ごとに意味を変える。
教育。
医療支援。
自動化。
公共供給。
人格機能。
「最初に貸した人は、子供へ教えるだけのつもり」とハル。
「六十一年後、町の朝を支えるとは知らない」エリア。
「同意は」
「最初の教育利用だけ」
「じゃ、今の利用は無断」
「現在の利用者は、出所を知らなかった」
「誰の責任」
「線の各節で違う」
エリアは、責任を一本の矢印にしない。
古い職人の家族。
教育庫。
共同窯組合。
市。
夜市。
ルメ。
現在の利用者。
それぞれへ、異なる線。
「地図が蜘蛛の巣」とハル。
「蜘蛛の巣は中央へ集まる。これは中央がない」
「もっと面倒」
「現実に近い」
二本目の系譜は、子守歌だった。
リムの妹が、自分が死んだ後も娘へ一節だけ残したいと依頼した。
契約は、娘が十歳になるまで。
ミルは十二歳。
「二年越えてる」とハル。
「自動更新」とセレナ。
「誰の同意」
「保護者」
「リム?」
リムは首を振る。
「更新した覚えはない」
「更新拒否がない場合、同条件で継続」
「死者の依頼を、生者の沈黙で延長した」とソムナ。
「悪かった?」リム。
「悪いと決めてない」
「ミルは助かった」
「助かった」
「じゃ」
「でも、今も聞きたいかは、ミルに聞いてない」
ミルは診療所で眠っている。
今すぐ聞けない。
「起きてから」とメイ。
「起きるまで、歌は」リム。
「停止」
「それで眠れなかったら」
「今夜は人がいる」
「母の歌じゃない」
「同じにはできない」
リムは怒る。
「同じじゃないから、意味がない!」
ソムナは反論しない。
「そう感じるかもしれない」
「何で他人事」
「母の歌を、僕が代わりに価値判断しない」
「夢葬師だろ」
「だから」
夢を弔う職は、忘れさせる職ではない。
残す夢、手放す夢、今は決めない夢を、本人へ返す職である。
リムは子守歌の線を切らなかった。
保留環へ通した。
「ミルが起きてから」
「うん」
「答えが、私の欲しいものじゃなくても」
「それは、今は約束しなくていい」
「逃げ道をくれるな」
「出口」
「同じだ」
「違う。逃げた後も戻れる」
リムは泣きながら、少しだけ笑った。
三本目は、橋の閉鎖判断。
始まりは、港の荷縄師の習慣だった。
軋む索は荷を半分にする。
その記憶が、紙橋の振動判定へ転用された。
「索と橋は違う」とロロ。
「似ているから使われた」とエリア。
「似てる部分だけな。索は一本切れても荷を下ろせる。橋は中央で止めると人が取り残される」
「転用時の検証」セレナ。
「三回」
「十分?」
「当時の基準では」
「今は」
「三十回、異常条件十種類」
「じゃ、昔は危なかった?」ハル。
「昔の人が雑だったとは限らねえ。人手不足と戦後復旧で、三回しか試せなかった」ロロ。
「使わない方が」
「橋がなかった」
不完全な支援が、完全な無支援より多くの命を救った。
その成功が、改良しなくてもよい理由になった。
「一時対応が、六十年」とカイル。
「王国にも多い」とセレナ。
「王家の歴史を今刺す?」
「比較例」
「痛い比較だ」
ロロは橋判断を三つへ分けた。
振動検知。
通行規制。
避難誘導。
ルメは三つを連続して行っていた。
「検知は灯網で残せる。規制は橋守と市。避難は現場の人と路図」
「誰が最終責任」とユーディ。
「一人へしない」
「事故時、互いに責任を押しつける」
「だから時刻を残す。誰が何を見て、何を止めたか」
「全員が正しい判断をして事故が起きた巻もあった」とハル。
「巻って言うな」とエリア。
「でも、あった」
「だから、判断者を分けるだけで安全とは言わない。相互の命令が衝突した時の停止条件も要る」
嵐庭園の経験が、別の町で制度になる。
冒険は、敵を倒した数だけ残るのではない。
次に同じ失敗をしないため、誰かの手順へ変わった時、世界へ痕を残す。
四本目は、謝罪文。
ルメは、町じゅうの謝罪を代筆していた。
遅刻。
借金。
喧嘩。
親子の絶縁。
医療ミス。
行政の通知。
「謝るのまで外注」とハル。
「言えない人もいる」とアサ。
「でも、本人の言葉じゃない」
「本人の言葉を整理する支援と、本人の代わりに責任を引き受ける代行を分ける」セレナ。
謝罪文の記録を読む。
ルメは、多くの場合、三つの文を使った。
何をしたか。
何が起きたか。
次に何を変えるか。
感情は、依頼者が指定した時だけ。
「正しい謝罪」とハル。
「正しすぎる」とカイル。
「何が悪い」
「受け取る側が、文の完成度に負ける。怒り続けると、自分が不合理に見える」
「謝罪されても許さなくていい」とアサ。
「でも、きれいな文だと」
「許す圧力が出る」
「ユノの演出と同じ」とソムナ。
謝罪支援を利用した男が、会議室へ来た。
「妻へ、ルメの文を送った。戻ってきた」
「許された?」ハル。
「家へは戻った。でも、妻は私と話すと、ルメの文みたいに言えと言う」
「本人の言葉が下手」
「下手だ」
「それで」
「またルメに頼んだ」
支援が、本人の言葉を練習させず、支援なしでは話せない状態を作った。
「全部やめる?」ソムナ。
「できない。怒ると、私は相手を傷つける」
「なら、送る前に一緒に読む。話す時は短い文。途中でやめる合図」
「誰が一緒に」
「相談組」
「人手」
「必要」
「金」ロロ。
「必要」
「結局そこ!」
感情の支援を機械から人へ戻す時、無償の優しさを当然にすれば、別のルメが生まれる。
賃金。
休み。
交代。
拒否。
優しさにも、構造が必要だった。
五本目は、配給判断。
夢灯都市は、十七年前の飢饉で食料を順位づけた。
乳幼児。
妊婦。
患者。
重労働者。
一般。
当時、命を救った順序である。
飢饉が終わった後も、順位は一部残った。
ルメは、配給が足りない日、古い優先表を使った。
「今、妊婦でない人の記録が妊婦のまま」とメイ。
「更新漏れ」
「本人は、優先を返したと思っていた」
「返却欄がない」セレナ。
「病気が治った人も患者順位」
「得してる」とハル。
「本人が知らない場合も」
「不正?」
「意図なし。利益はあった」
「返す?」
「過去の食料を返せない」
「罰する?」
「利用者より、更新を作らなかった制度」メイ。
しかし、現在も食料を多く受けていた者の中には、黙っていた人もいた。
「責任を一つにしない」とセレナ。
「制度が悪い、で全部許さない」ハル。
「個人が悪い、で制度を残さない」
配給判断は、毎月更新へ。
本人申告だけでなく、医療確認。
ただし病歴公開は不要。
優先を返すことも、受けることも恥にしない。
「完璧?」ハル。
「不正申告、診断漏れ、監査負担が残る」とメイ。
「言い切るなあ」
「問題が残ることを隠す制度は、最初から次の事故を育てる」
機能系譜は、壁三面から床へ広がった。
エリアは立ったまま描き続け、左肺の奥が浅くなる。
「呼吸」とメイ。
「二」
「座る」
「あと一本」
「座って描く」
「視点が変わる」
「変えろ」
エリアは不満そうに椅子へ座る。
床近くから見ると、別の線が見えた。
子供。
車椅子。
背の低い作業者。
立って描いた地図では、机の下を通る支援線が消えていた。
「私が立っていたから、見えなかった」
「能力の問題?」ハル。
「視点の問題」
「座った方が正しい?」
「違う。立つ人と座る人、両方の地図が要る」
彼女は、描く役をノナと車椅子の老人へ渡した。
「ここ、線ない」とノナ。
「何の」
「夜、怖い時」
「呼び鈴が」
「押す前」
「押す前?」
「怖いって分かる前」
エリアは筆を止める。
ルメは、過去の行動から先に灯りを出した。
支援だった。
同時に、本人が自分の感情を言葉へする前に、答えを置いた。
「その線は、描けない」とエリア。
「ルメは描いた」ノナ。
「だから便利だった」
「残せない?」
「残すなら、止められる形にする」
「怖いって言えない時、止めるって言えない」
ノナの指摘は、制度の中心を刺す。
拒否できる人だけが拒否権を使える仕組みでは、最も支援が必要な時に権利が消える。
「後から確認」とアサ。「落ち着いた後、続けるか聞く。何度も答えなくていい。変えた時だけ」
「後から嫌だったって言ったら」
「次を変える。過去のノナを責めない」
「ルメも責めない?」
「行為は調べる。存在を悪い一つへしない」
ノナは床へ、点線を描いた。
怖い時に現れる灯り。
朝になったら、続けるか聞く。
一方向だった支援へ、戻り道ができた。
歴史をたどるほど、ルメは一人の発明品ではなかった。
戦後の人手不足。
夜勤家庭。
請負労働。
医療費。
孤独。
古い夢記録。
便利な統合会計。
読まれない契約。
町が少しずつ作った。
だから、町全体が悪い、と言えば誰も責任を負わない。
誰か一人が悪い、と言えば、町を作った線が残る。
「責任の地図」とハル。
「責任を道へすると、逃げ道にもなる」とセレナ。
「じゃ、何」
「経路。どこで止められたか。誰が止めなかったか。止める権限がなかったか」
「止められなかった人まで責めない」
「止める権限を持ちながら使わなかった人と、権限を持たせなかった制度を分ける」
「細かい」
「細かくしないと、薄くなる」
壁の中央は、最後まで空白だった。
ルメを描かなかったのではない。
一つの顔で覆わなかった。
空白の周囲へ、何千もの線が出入りする。
その空白は、欠落ではなく、多数の存在が同時にいた場所だった。
機能表が完成する前に、町の損失が増えた。
橋二本、通行止め。
低血糖食、残り三時間。
ごみ戸の滞留で、灯籠川の排水が低下。
子守区の人員、連続勤務限界。
ユーディは五枚の白紙決裁札を机へ並べる。
「完全再起動案」
会議室が静まる。
「未払いを危機予算から支払い、停止手順を逆転。依頼束を再結合。ルメの作業人格を前状態へ戻す。所要、二周期。成功見込み七割」
「失敗三割」とエリア。
「機能ごとの不完全復旧、記憶混線、人格固定化」
「固定化」ソムナ。
「一人の身体像と声へ収束する可能性」
「危険」
「町が止まる危険と比較する」
「再起動後、止められる?」セレナ。
「今の手順では、再び葬列」
「同じ」
「停止を改修する時間がない」
「再起動前に、退出と監査を」ソムナ。
「二周期後に薬が切れる」
「だから生活支援だけ先に」
「分離技術がない」ロロ。
「作る時間は」
「一晩」
「ない」
「じゃ、作る時間を買う代替」
「乾パン五時間、薬は手作業、橋は閉鎖、子守は交代。十二時間が限界」とメイ。
「一晩ないじゃん」とハル。
「夜明けのない町でも、身体は夜を持つ」
「住民投票」とユーディ。
「情報不足」とセレナ。
「不足したまま決めなければ、決定が自動で再起動不能になります」
「急ぐことを同意にするな」アサ。
「急がないことも、生活停止への決定です」
誰も、きれいな正論を持っていない。
ユーディは町の前へ出る。
半面紙を外す。
謝罪の顔。
「危機局は、ルメの完全再起動を選択肢として提示します」
広場で、住民がざわめく。
「戻るの?」
「パンは?」
「母さんは?」
「また全部預けるのか?」
「今さら自分でできない」
ノナが最前列にいる。
「ルメ、戻る?」
ユーディは、子供へ希望だけを渡さない。
「戻る可能性がある。でも、同じルメかは分からない」
「母さんは」
「分からない」
ノナは泣く。
町は、分からないという正直さへ拍手しない。
それでもユーディは続ける。
「二時間後、暫定投票。再起動、分割復旧、停止継続。保留票も数える。沈黙は賛成にしない」
「分割復旧、できるの?」住民。
「今は、できる方法を作っている」
「できない選択肢を出すな!」
「できない可能性を隠して再起動だけにしない」
怒声。
泣き声。
助けを求める声。
ハルはソムナを見る。
「戻したい?」
ソムナは、苦い種を噛む。
「戻せば、今夜は救える」
「明日は」
「また、同じ一人へ預ける」
「じゃ」
「僕が決めない」
「治せる人が決めないと」
「治せることが、決める権利じゃない」
広場の上を、葬列の鐘が鳴る。
完全再起動の準備が始まった。