第543話 第八章「戻せば元通りか」前編
元通り、という言葉は便利である。
壊れる前。
失う前。
間違える前。
時間に、帰る場所があるように聞こえる。
しかし、壊れたことを知った人は、壊れる前の人ではない。
失った人は、失う前の人へ戻れない。
間違いを記録した制度は、その記録を消さない限り、元の制度ではない。
元通りとは、過去への帰還ではない。
多くの場合、現在の誰かへ、過去と同じ働きをもう一度させる命令である。
完全再起動のため、棺は中央灯塔へ向きを変えた。
葬列を逆に歩かせるのではない。
停止した結び目へ、再び灯を通す。
ユーディの危機局員が、棺の道具へ赤い再接続札を付ける。
「待って」とソムナ。
「投票まで準備だけ」とユーディ。
「札を付けた時点で、戻る選択が普通に見える」
「準備しなければ、選ばれても間に合わない」
「白札も付ける」アサ。
「何の」
「戻さない。別へ返す。保留。依頼終了。中身を見ない」
「棺が札だらけになる」
「人の選択は、きれいな棺より多い」
ユーディは三度、紙を叩く。
「付ける。色だけで意味を決めない。形と文字も」
「見えない人へ」
「触覚刻み」
「読めない人へ」
「口頭確認」
「時間」
「増える」
ユーディは、増えると認めた。
ソムナは、個別の依頼者へ返却方法を聞いた。
聞き取り室は、診療所ではなく、灯籠倉庫へ作った。
診療所で聞けば、返却方法が治療方針に見える。
危機局で聞けば、行政命令に見える。
法廷で聞けば、答えが証言に変わる。
場所は中立ではない。
椅子の向き、机の高さ、誰が入口に立つか。どれも「ここではこう答えるべきだ」という、声のない質問になる。
アサは椅子を出口へ少しずつ向け直した。
メイは窓枠の黴を指で確認し、換気口を開けた。
ソムナは綴灯杖ピロウへ、患者がいつでも見つけられる夢の出口〈ウェイク・シーム〉を三本結んだ。
「夢へ入る?」ハル。
「選んだ人だけ。返る手順を、現実へ戻す前に試す」
「試した夢が、答えになる?」
「ならない。夢で平気でも、起きた後に嫌になる。夢で怖くても、現実では欲しいことがある」
「じゃ、何のため」
「知らないものへ、いきなり同意させないため」
「お試し」
「商品みたいに言わない」
「無料体験」
「もっと悪い」
最初に夢試験を選んだのは、指のない織工だった。
彼女は事故で右手の三指を失い、結び目の順をルメへ預けていた。外注をやめれば、自分では布を織れない。全部戻せば、夜ごと無意識に仕事を続け、休めない。
「どっちも嫌」と織工。
「今は答えなくていい」ソムナ。
「答えないと布が止まる」
「今日の注文は止める」
「収入が止まる」
メイが帳簿を開く。
「三日分の生活費、危機予算。四日目以降は議会の承認が必要」
「慈善?」
「都市機能停止の補償」
「私が弱いからじゃない?」
「町が、あなたの技能を無料で代行系へ預けた結果」
「私も頼んだ」
「依頼責任は残る。収入を失って罰を払う形にはしない」
夢試験では、灰衣の手が織工の肩越しに現れた。
指の代わりをするのではない。
左手が糸を引く時刻、足で杼を送る力、顎で糸を固定する角度を、灯の明滅で示す。
織工は一段目を織った。
二段目で止めた。
「出口」
ソムナが指す前に、織工は醒め目へ触れる。
現実へ戻る。
「どうだった」とメイ。
「できる」
「続ける?」
「一日二時間。見守り札だけ。私の手を勝手に動かさない」
「夜間は」
「依頼しない」
「収入」
「減る」
「補償案を別に」
「私が稼げない分を、ルメのせいにしないで」
「事故と町の制度と、今の選択を分けて記録する」
メイは一行を三行へ分けた。
助けを受ける者は、助けの理由を一つへまとめられやすい。
身体が不自由だから。
貧しいから。
怠けたから。
町の制度が悪いから。
本当は、それらが同時にあり、どれか一つで残りを消してはならない。
二人目は、老夫婦だった。
妻は薬の時刻を返してほしい。
夫は、妻の薬を気にする習慣を返したくない。
「どういうこと」とハル。
「私が忘れたら、夫が怒る」と妻。
「怒らない」と夫。
「怒る」
「心配する」
「心配の声が大きい」
「耳が遠いからだ」
「私の耳じゃなく、あなたの不安が遠い」
夫は口を閉じる。
ルメは、夫へ薬時刻を知らせず、妻へ直接灯を出していた。
それによって妻は管理される感覚を減らし、夫は心配の役を降りられた。
「全部外注が悪いわけじゃない」とハル。
「悪いという札を貼るための聞き取りじゃない」ソムナ。
「じゃ、戻さなくていい?」
妻が言う。
「灯は欲しい。でも、夫にも一度だけ知らせて」
「一度?」
「飲み忘れが二回続いた時」
「一回目は」
「私へだけ」
「三回目」
「医師」
「四回目」
「毎回聞き直して。病気が変わる」
決定木は、伸ばせば正確になる。
伸びすぎれば、誰も使えない。
「三段まで」とメイ。「四段目は診察」
「私が決める」と妻。
「うん。医師として、危険時の助言はする。最終条件は記録へ」
夫が小さく手を上げた。
「私は、何を返してもらう」
「心配する権利?」ハル。
「権利というと立派すぎる」と夫。「薬以外の話をする時間」
妻が笑う。
「それは外注してない」
「していた。心配していると言えば、話した気になっていた」
薬の機能表へ、夫婦の会話は入れない。
入れればまた、薬が会話を支配する。
代わりに、二人は夕食後十分という予定を自分の帳面へ書いた。
町の中央網ではなく。
忘れた時に罰を出す灯でもなく。
忘れる可能性ごと、二人の生活へ戻した。
最初はカナ。
「パンの手順を、全部返す?」
「返して」
「自分の手順と、他の人の手順が混じる」
「焼ければいい」
「他の人の手を、自分のものとして使うことになる」
「十九年、そうしてた」
「今、知った後でも?」
カナは指関節の布を締める。
「知ったから、払う。賃金を」
「賃金だけ?」
「休みも」
「誰が休む」
「ルメ」
「ルメの休みを、誰が決める」
「……ルメ」
「今、ルメは答えられない」
「じゃ、戻さないと答えられない」
循環。
戻すために同意が必要。
同意を聞くために戻す必要がある。
「一時復旧」とカナ。「パンだけ。三日。私も一緒に覚える」
「それを選択札へ」
ソムナは、カナの言葉を言い換えない。
パン手順のみ。
三日。
本人が共同作業。
終了後、再確認。
次は薬師。
「薬は戻す。ただし、最終判断は二人確認」
次はネラ。
「戸鍵の順だけ返して。挨拶は要らない」
次は若い父親。
「娘へ、おかえりを言うのは返さなくていい」
「自分で言う?」
「言えるか分からない」
「頼み直す?」
「人へ」
「誰」
「決めてない」
「保留」
「保留でも、娘は今日帰る」
「今日だけの手伝いを探す」
保留は何もしないことではない。
永続の答えを決めず、今日の安全を別に作ることだった。
ノナは、白札を拒んだ。
「母さんを全部戻す」
イアは隣で黙っている。
「全部、何?」ソムナ。
「歌。灯り。おやすみ。朝起こす。怖い夢の後、ここにいるって言う」
「声は」
「毎日違っていい」
「姿」
「違っていい」
「それでも母さん?」
「母さんは、同じ顔だけじゃない」
子供の答えが、大人より複雑だった。
イアの指が一度だけ動く。
「私がいるのに?」
「夜はいない」
責める言葉ではない。
生活の時刻だった。
「戻した後、やめたい時」とソムナ。
「やめない」
「今はそう思う。でも、後で」
「やめない!」
ソムナは、説得しない。
「今の札には、全部戻す、と書く」
「やめるって書かないで」
「書かない」
「母さん、戻る?」
「投票と、再起動が成功すれば」
「成功しなかったら」
「分からない」
「ソムナ、夢の人なのに分からないの」
「分からない」
ノナは怒って立ち去る。
ソムナは追わない。
イアだけが残る。
「子供へ、あんなに正直でいいのか」
「嘘なら、眠れる?」
「今夜は」
「明日、また失う」
「明日を守って、今夜を壊すのも正しい?」
ソムナは一拍より長く黙る。
「正しくない」
「じゃ」
「どちらかを正しいことにしない。今夜の人を増やす」
「私の代わりを増やす?」
「母親の代わり、と決めない。歌う人、灯を残す人、朝起こす人を分ける。あなたが帰ると伝える役は、あなたが選ぶ」
「それでノナが納得する?」
「納得させるためじゃない。眠れる場所を一つ増やす」
返却票には、返すものだけでなく、返さないものが増えていった。
自分で再学習する。
別の人へ有償で頼む。
小組へ期限付きで預ける。
機械へ移す。
ルメの小灯へ残す。
今は決めない。
内容を知らないまま終了する。
「知らないまま終える?」カイル。
「自分が何を預けていたか、見たくない人」とアサ。
「危険な権限が含まれていても」セレナ。
「権限の存在だけ監査。記憶の中身は見ない」
「本人が、自分の過去の行為を見ないことで責任を避ける場合」
「行為の外部痕を調べる。記憶を見ることを罰にしない」
セレナは単眼鏡の縁を一度押した。
「事実だけを、と言う私が、本人の頭の中を一番強い証拠と思いかけていた」
「思いかけた、も記録?」ハル。
「私的反省」
「証拠じゃない」
「ええ」
「でも残す」
「残します」
そのやり取りを聞いていた夜荷の女が、返却札を握り直した。
彼女は子供の寝かしつけをルメへ預けた。
理由は夜勤。
夜勤の理由は借金。
借金の理由は亡夫の治療費。
どこまで遡れば、本人の選択になるのか。
どこから先を、社会の強制と呼ぶのか。
「寝かしつけを戻すと、仕事を辞める」と女。
「仕事を変える支援」とカイル。
「王子の一言で職が生える?」
「生えない」
「じゃ、言わないで」
「言い方を変える。王家は、夜間保育へ資金を出す。職場の夜勤手当と勤務時間を監査する。あなたが辞めるかは、あなたが決める」
「王家の宣伝になる」
「宣伝へ使わない条項」
「使ったら」
「返還と罰金。私の名も出す」
「王子が悪者になる?」
「悪い行為をすれば」
「王子なのに」
「王子だから、悪い行為が良くなるなら、王子は法より安い飾りだ」
カイルは笑わない。
苺の話もしない。
女は、夜間保育の暫定利用を選んだ。
ルメの寝かしつけは一週間だけ残す。
子供が新しい保育人を拒める。
母が夜勤を減らせなかった時、再検討。
「一週間後、支援ができてなかったら」女。
「延長を頼む権利はある。ただし、ルメが当然に受けるとはしない」ソムナ。
「断られたら」
「町が別を作る責任を負う」
「町って誰」
全員が止まる。
町という主語も、ルメと同じくらい便利だった。
行政。
雇用主。
近隣。
家族。
税を払う者。
決裁する者。
実際に夜を引き受ける者。
「担当名を、空欄にしない」とセレナ。
危機局、夜間保育組合、雇用主、王家拠出、監査者。
五つの名を書く。
「これで町?」ハル。
「町の一部」エリア。
「全部じゃない」
「全部と書くと、誰も責任を取らない」
返却試験が十六件を越えた頃、ソムナの返事が遅くなった。
もともと一拍遅い。
今は二拍、三拍。
丸眼鏡を掛けたまま、同じ札を二度読む。
「休む」とメイ。
「あと一人」
「その一人を、疲れた治療者の判断へ預けるな」
「治療者じゃない。案内人」
「疲れた案内人」
「出口は見える」
「自分の出口を使え」
ソムナは立とうとして、膝が遅れた。
低血糖。
ハルが腕を出す。
「掴む?」
「……掴む」
左手首の輪痕が見える。
幼い頃、家族の治療費のために夢を売った契約痕。
「俺が運ぶ?」
「椅子まで」
「三歩」
「数えなくていい」
「一、二」
「三は?」
「助けを頼む時は言えない」
「今、言ってる」
「じゃ、三」
三歩で椅子へ。
メイが糖片を渡す。
「治療する側が倒れると、患者が責任を感じる」
「分かってる」
「分かっていて倒れる人が一番記録を増やす」
「ソムナ、ルメみたい」とハル。
紙札の音が止まる。
最も言われたくない比喩だった。
「ごめん」
「似てる」ソムナは言う。「役に立つことで、ここにいていいと思うところ」
「違うところ」
「今、休めと言う人がいる」
「ルメにも作る」
「作るだけじゃなく、使っても消えないように」
ソムナは糖片を舌へ置く。
甘い睡眠薬は嫌いだが、甘い糖そのものへ罪はない。
味まで制度の記憶に支配させない。
「三十分休む」と自分で言った。
返却票へ、新しい欄が加わった。
支援者が疲れた時、誰が交代を決めるか。
その欄は、ルメのためだけではなかった。
投票所は、夢灯都市の七区へ分かれた。
再起動。
分割復旧。
停止継続。
保留。
投票できない者の代理は、期限付き。
代理理由を記録。
意識が戻れば選び直す。
外注契約者だけではない。
ルメの仕事を受け取っていた子供、患者、通行人、未登録住民も意見を出す。
「全員へ同じ一票?」カイル。
「契約者が所有者と見なされるなら、利用者の被害が消える」とセレナ。
「でも、通行人がパン職人の手順を決める?」
「機能ごとに、権限を分ける必要があります」
「投票が一つじゃ足りない」
「時間がない」とユーディ。
「一つで決めると、戻した後に争う」とエリア。
「今止まるか、後で争うか」
「両方を減らす案」
「ある?」
「機能別の暫定投票。生命維持は短期復旧の可否。感情代行は個別選択。判断代行は停止して人間の小組へ」
「分割技術がない」
「ロロ」
「名前を呼べば機械が生えると思うな!」
「作れる?」ハル。
「作れるかを今から調べる。できるとは言ってねえ」
「何が必要」
「棺の紙灯を一個、夢灯網の結合器、フィア、寝ない時間、修理代」
「寝る時間」とメイ。
「一晩」
「四時間」
「二」
「三」
「値切られた」
「増やした」
「気持ちでは減った!」