第562話 第五章「本物ほど正しいとは限らない」後編
覚醒。
市場の救護床。
右手にピロウ。
袖の札。
「人数」とソムナ。
「九」とアサ。
「杖の輪」
「十二」
「私が忘れたもの」
「まだ分からない」
メイが糖水を渡す。
「飲んで」
「カイルは」
「覚醒。脈、早い。盾は停止」
「食卓」
「保存。接続閉鎖」
ソムナは糖水を飲む。
甘い。
嫌いな味。
苦い種を探す。
袖。
腰袋。
杖の根元。
ない。
「種、どこ」と彼。
アサが、黙る。
「何」
「出る前、左袖へ入れた」
左袖を探す。
小袋がある。
ソムナは、それを見つめる。
「覚えてない」
「一つ目」とアサ。
「何を忘れた」
「種を入れたこと」
「それだけ?」
「今、分かるのは」
ソムナは腕へ、小さな種の絵を描く。
夜明けまで。
戻るはず。
戻らない可能性も、毎回ゼロではない。
夢をつなぐたび、自分の覚醒記憶を一つ失う。
彼はその代償を、患者へ見せたがらない。
見せれば、患者が治療を遠慮するから。
隠せば、患者は治療費を正確に選べない。
「カイルに言う」とメイ。
「今は必要ない」
「費用」
「私の術の条件」
「だから本人が知る」
「彼は夢を取り戻したい」
「あなたの記憶を代金にするか、本人が決める」
「決めさせたら、使わない」
「それも選択」
「救えない」
「あなた一人が払って続けることを、救うと呼ばないで」
メイの帳簿の頁が、速くめくられる。
怒っている。
ソムナは小袋から苦い種を一粒出した。
噛まない。
「後で言う」
「今」
「次の接続条件を決めてから」
「先に言う」
二人の間へ、カイルが座った。
「聞こえている」
半マントを外し、背中の冷却布を替えている。
王族が、私的な医療場面を隠さない。
「何を忘れた」と彼。
「種を袖へ入れたこと」
「戻る?」
「夜明けまでに、多くは」
「戻らないことも」
「ある」
「今まで、私の夢へ何回つないだ」
「二回。港の夢は既存入口を開いただけ。食卓からの退出で一回」
「二回?」
「食卓へ入る縫いも一回」
「何を失った」
ソムナは答えようとする。
一つは種。
もう一つ。
分からない。
それが、失ったものの恐ろしさである。
失った記憶は、失ったと気づけない。
アサが記録札を読む。
「市場へ入る前、ソムナは診療所の窓を閉めたか確認した。今、覚えてる?」
「……閉めた?」
「メイが閉めた。あなたは頼んだ」
「覚えてない」
「二つ目」
ソムナは腕へ、窓の絵を描く。
カイルが見る。
「次から、接続ごとに私へ言え」
「使わないと言う」
「言うかもしれない」
「時間が」
「私の夢を取り戻すために、お前の朝を勝手に売るな」
夜市の怪盗が、来歴札を盗んだ。
夢は残した。
ソムナは、自分の記憶を夢綴りへ渡す。
朝には戻ると考える。
所有者が分からないまま、費用だけが消える構造は似ている。
「分かった」とソムナ。
「本当に?」
「うん」
紙札は鳴らない。
三つの夢を、外側から比較する。
鍋の灯籠。
食卓の灯籠。
歯車の灯籠。
セレナは、夢の内容を「証拠」と書かない。
『本人主観との一致』
『記録時期との矛盾』
『編集素材の確認』
『身体反応』
『出典不明』
五列に分ける。
「夢の整合性は?」ハル。
「列を作らない」とソムナ。
「なぜ」
「整っているほど本物とは限らない」
「逆に、変な夢ほど本物?」
「それも違う」
「じゃ何を見る」
「何が混ざったか。誰が足したか。本人がどう反応したか。身体反応は証明じゃなく、比較」
メイが測定表を出す。
鍋の夢。
入眠後四分で心拍低下。
母の声で急上昇。
王盾発動。
涙なし。
食欲反応あり。
食卓の夢。
全体を通じて心拍が一定。
母の転用音声で一時上昇。
王盾発動は退出時。
涙なし。
手指の震え。
「一定なら安心?」ハル。
「感情が少ないとも、抑えているとも、映像として距離があるとも取れる」とメイ。
「答えにならない」
「身体は、謎解きのために一つの意味だけ出さない」
「じゃ三つ目」
歯車の紙灯籠。
箱の中で、低く鳴る。
カン。
カン。
金属の息。
カン。
カイルの左目から、涙が一滴落ちた。
本人は気づかない。
「泣いてる」とハル。
「何が悲しい」とソムナ。
「分からん」
「匂い」
「苺。雨。鉄。焦げた布」
「誰」
「母の手」
「顔」
「ない」
「場所」
「工房」
「どこ」
「……分からない」
身体反応は強い。
強いから本物。
そう決めれば簡単だ。
悪夢は脈を上げる。
訓練された宣伝映像は脈を落ち着かせる。
偽物の声でも涙は出る。
本物の記憶でも何も感じないことがある。
ソムナは、涙へ「原本」と札を付けない。
「開く前に、外側の欠損を見る」
歯車灯籠を、光へかざす。
紙の一部が薄い。
夢の記録線が、途中で切れている。
「破れた?」ロロ。
「切られた」とセレナ。「端が直線。事故ではない」
「来歴札と一緒に?」
「時期は不明」
ソムナが杖先を近づける。
触れない。
夢の縁を読む。
始まり。
雨。
石。
子供の呼吸。
機械音。
途中。
白い空白。
終わり。
苺。
誰かの手。
眠り。
「場面が一つない」と彼。
「どのくらい」とエリア。
「時間では測れない。夢は飛ぶ。でも、感覚の継ぎ目が合わない」
「何が」
「機械音の途中で、匂いの向きが変わる。子供の身体が立っていたのに、次の断片では床へ座っている。誰かとの会話が抜けた可能性」
「母?」カイル。
「分からない」
「父」
「分からない」
「何を言った」
「分からない」
カイルの冗談が消える。
「入れば」
「欠けた場所は見えない」
「周りは」
「見える」
「入る」
メイが時刻を見る。
「身体条件。十分休息、食事追加」
「また?」
「また」
「夢の方が早い」
「身体は夢の速度で回復しない」
カイルは歯車灯籠を見る。
「欠けた場所を、ソムナがつなげる?」
「実在する断片があれば」
「なければ」
「作れない」
「推測で」
「作らない」
「正しい機械音は」
「ロロが知れば、音として足せる」
ロロが顔を上げる。
「待て。正しい音を足したら、元の記憶じゃなくなるぞ」
「あなたが再現し、本人が比較するだけなら」
「夢の中へ入れない?」
「入れられる。でも、表示が必要」
「正しい音の方が、本物らしくなる」とハル。
「だから危ない」とソムナ。
カイルは涙を拭う。
本人が気づいていなかった一滴。
「本物らしくしなくていい」
「怖い場面でも」とソムナ。
「まだ見ていない」
「見た後、直したくなるかもしれない」
「その時、聞け」
「苦しい記憶を残す?」
「苦しいかも分からん。先に治療するな」
ソムナの袖で、紙札の端が鳴る。
嘘をつく前の音ではない。
彼の手が、無意識に札を折ろうとした音。
カイルは見た。
「直したいのか」
「……うん」
「なぜ」
「あなたが眠れないから」
「眠れるように、夢をきれいにする?」
「きれいではなく、安全に」
「安全に編集された食卓を見た」
「同じではない」
「違いを説明しろ」
「本人へ聞く」
「今、聞いている」
「あなたが拒めばしない」
「なら、先に直したいと言った理由を記録しろ」
セレナが筆を止めず待つ。
ソムナは苦い種を噛まない。
「苦しむ人を見ると、早く楽にしたくなる。楽にすれば、私が役に立ったと分かる」
柔らかな声。
遅い返事。
「本人の夢より、自分の安心を優先することがある」
記録される。
治療者の善意が、証拠の一部になる。
「では」とカイル。「三つ目は、そのまま入る」
「退出条件」
「身体基準。場面停止札。記録停止札。欠損を勝手に埋めない」
「同意」
「ソムナの代償は、接続前に報告」
「同意」
「ロロ」
「何だ」
「機械音を直すな」
「俺に壊れた音を聞かせて直すなって、拷問か?」
「耐えろ」
「危険手当!」
「王室勘定ではなく、私費で払う」
「お前、私費ないだろ!」
「借金する」
「そこだけ台帳どおりに生きんな!」
カイルが笑う。
冗談は戻る。
完全ではない。
歯車灯籠の一部が、黒く消えた。
白い仮面が、灯籠の内側へ一瞬だけ映る。
『原本をお探しですか』
怪盗の声。
市場の全灯籠へ響く。
『本物とは、最初に記録された版か。本人が最も望む版か。最も多くの人を救う版か。最も高く売れた版か』
「盗んだ札を返せ」とハル。
『札がなければ、皆さんは夢そのものを見る。肩書ではなく中身で選べる』
「中身に、編集した人の権力が隠れる」とエリア。
『では、完璧な来歴を信じますか』
「完璧じゃなくていい」とセレナ。「誰が、いつ、何をしたか、分かる範囲を出す」
『空白は』
「空白として記録する」
『市場は空白へ値段を付ける』
「お前は、空白を自分の所有物にした」とカイル。
白い仮面が笑う。
『王子。あなたは、欠けた夢へ何を足してほしい?』
「何も」
『母の声も?』
カイルの手が震える。
「何も足すな」
『では、欠けたまま競売へ』
歯車灯籠が、透明箱の中で沈む。
夢の一部が、さらに薄くなる。
「消される!」ロロ。
「違う」とソムナ。
杖先で縁を読む。
「移されてる」
「どこへ」
市場の海の向こう。
黒い帆が、一瞬だけ上がる。
紙でできた海賊船。
欠けた夢の断片を載せ、夜市の奥へ滑っていく。
歯車灯籠には、始まりと終わりだけが残った。
機械音。
白い空白。
苺。
三つ目の夢は、最初から不完全だったのではない。
誰かが、真ん中を持ち去っていた。