第561話 第五章「本物ほど正しいとは限らない」前編
夢葬師は、夢を信じない。
信じないから扱える。
空を飛ぶ夢を見た者へ、翼があるとは告げない。
死者と話した者へ、死者が戻ったとは告げない。
自分を殺す夢を見た者へ、殺意が本心だとは決めない。
夢は嘘ではない。
事実でもない。
夢は、その人が眠っている間に組み立てた主観の模型である。
模型は、現実に似ていなくても、その人がどこへ壁を置き、どこへ出口を置けなかったかを示す。
ソムナ・リルは、その模型へ人を案内する。
自分では夢を見られないまま。
白い食卓が、映写室を埋める。
壁が皿になる。
床が白布になる。
出口が母の微笑みへ変わる。
ソムナは綴灯杖ピロウを床へ立てた。
杖先の橙灯が、三度明滅する。
一度目。
夢の中にいる人を数える。
ハル。
エリア。
カイル。
ロロ。
ノクス。
ソムナ。
二度目。
覚醒側の人を数える。
セレナ。
メイ。
アサ。
三度目。
退出を希望する人を確認する。
「出たい人」
「出る」とハル。
「同じく」とエリア。
「修理してから」とロロ。
「今は出る人だけ」
「出る!」
「カイル」
返事がない。
白い食卓の向こうで、イレーネの夢像が座っている。
匙。
スープ。
パン。
微笑み。
カイルは、母を見ている。
「カイル」
「聞こえている」
「出たい?」
「分からない」
「保留」
ソムナは答えを勝手に「出たい」へ直さない。
しかし、身体条件は別だ。
覚醒側のカイルは三日で三時間しか眠っていない。王盾が無意識に発動する。夢の出口は外から固定されている。
本人の保留を守ることと、身体を危険へ置くことは同じではない。
「身体退出だけ先にする」とソムナ。
「夢は」とカイル。
「残す。ここへ戻るかは起きてから決める」
「戻れる保証」
「ない」
「なら――」
「保証がないから、身体を置いていかない」
カイルが彼を見る。
「案内人は、本人の選択を待つのでは」
「待ってる間に身体が壊れる条件は、最初に書いた」
「同意したな」
「うん」
「自分で書いて、自分で嫌になる条件だ」
「嫌でも使う」
ソムナは苦い種を噛まなかった。
本音だった。
夢の断片を縫う共有術〈ドリーム・ステッチ〉は、存在する夢しかつなげない。
誰かが見た扉。
誰かが歩いた廊下。
誰かが覚えている窓。
存在しない出口を作れない。
未来を発明できない。
誰も知らない答えを、夢の中から取り出せない。
だからソムナは、全員へ聞く。
「入ってきた場所を覚えている人」
「投影窓」とハル。
「形」
「四角。角が左上だけ欠けてた」
「なぜ」
「掴んだ」
「欠ける前」
「分かんない」
「歩数」とエリア。
「食卓から二十メートル。夢が伸びた後は不定。映写室の奥行き七歩、扉まで十二歩」
「音」とロロ。
「映写機の回転。三歯一休。外から鍵、単発」
「匂い」
ノクスが二本尾を逆へ振る。
「混ざってる」とハル。
「それでも、今と違う匂い」
ノクスは、ハルの左靴へ鼻をつけた。
雨。
船の油。
市場の唐辛子。
白百合。
市場へ入る前から持っていた匂い。
「身体」とソムナ。「出口へ出た時、最初に何を感じる」
「床が硬い」とハル。
「踵へ重さ」とエリア。
「右レンズの焦点が戻る」とロロ。
「喉が乾く」とカイル。
ソムナは最後に、自分へ問う。
出口へ戻った時、何を感じる。
夢を見られない彼にとって、共有夢は借り物だ。
出れば、借り物の色が消える。
その代わり、使用した分だけ覚醒中の記憶を夜明けまで失う。
今朝食べたもの。
患者の名前。
誰に何を約束したか。
夢を一つ縫うたび、一つ。
「杖の輪を数えて」とアサの声。
覚醒側から届く。
『今、十二枚』
「出た後は」
『私が数える』
「忘れてたら」
『忘れたと言って』
「患者の名だったら」
『記録を見る』
「記録がないものは」
沈黙。
アサは、答えがない時に埋めない。
『ないまま、朝を待つ』
ソムナは目を閉じる。
夢を見られない目。
それでも借りた夢の中では、目を閉じる意味がある。
「縫う」
杖先から、橙の糸が伸びた。
ハルの四角い窓。
エリアの七歩。
ロロの三歯一休。
ノクスが覚えた市場前の匂い。
カイルの乾いた喉。
別々の人が持つ断片を、同じ答えへ直さず並べる。
四角い窓は、左上が欠けたまま。
廊下は七歩。
映写機は三歯一休。
床は硬い。
空気は乾いている。
出口が現れる。
美しくない。
窓枠は歪み、廊下は途中で幅が変わり、床の石は一枚だけ色が違う。
本物の出口は、たいてい統一感がない。
多くの人が別々に覚えたものを、同じ形へ修正していないからだ。
「先にハル」
「カイルから」
「身体条件は全員。出口の保持に、最初の人の感覚が要る」
「何すれば」
「床へ着いたら、硬いと言って」
「簡単」
「簡単なことを省かないで」
ハルが窓をくぐる。
白い皿が飛ぶ。
エリアの槍が軌道をずらす。
ロロの補助腕が窓枠を支える。
ハルの身体が消える。
覚醒側から声。
『硬い!』
「もっと具体的に」とセレナ。
『右肩の下、石。冷たい。溝がある。市場の床!』
出口が安定する。
「エリア」
彼女が通る。
『両踵へ重力。右踵の方が強い。現実側の床が一度傾いている』
「ロロ」
『右レンズ、焦点戻った。紙粉! 咳出る!』
「ノクス」
黒い小獣は窓の前で止まった。
母の夢像を見る。
匂いを追わない。
カイルの足へ前脚を置く。
「先に行け」とカイル。
「ナァ」
「私は出る」
「ノゥ」
「今のは信じてない顔だな」
ノクスはカイルの半マントを噛み、窓へ引く。
小さな身体で王太子を運べるはずがない。
運べないから、選択を示す。
「分かった」
カイルは母へ向き直る。
「これは、母が誰かへ言った声だ」
夢像は微笑む。
「私へではない。それでも、忘れない」
窓へ歩く。
母の声が追う。
『家族で食べましょう』
「宛先を直して持ち帰る」
カイルが通る。
王盾の炎が食卓へ走る。
白い皿が砕ける。
ソムナは最後に残る。
夢像の母と目が合う。
夢を見られない彼には、亡くした家族の夢もない。
弟の声を思い出せない。
母の顔は覚醒記憶。
父の手も。
いつか自分の夢を取り戻したら、家族はどの姿で出るのか分からない。
目の前の王妃像を、カイルのために少しだけ直したくなる。
椅子を引かず持ち上げる。
苺を一つ盗る。
患者の記録を読みながら食べる。
本人らしい癖を足せば、カイルは救われるかもしれない。
杖先が、白い食卓へ向く。
夢綴りは、存在した断片だけをつなげる。
イレーネが椅子を持ち上げた記憶を、カイルは持っている。
苺を取られた記憶も。
足すことはできる。
だが、それはこの食卓の原本ではない。
治療者が、別の記憶を持ち込んで「母を返した」と演出することになる。
「直さない」
ソムナは自分へ言った。
窓をくぐる。
白い食卓が閉じた。