第560話 第四章「無人の食卓」後編
ハルは、幼いカイルの隣へ座った。
椅子はない。
立ったまま。
「なあ」
子供は反応しない。
匙。
スープ。
パン。
微笑み。
ハルは、皿の前へ手を出した。
幼いカイルの匙が、手を通り抜ける。
「幻」
「夢像」とソムナ。「触れない版」
「じゃ、何を見るため」
「見せるため」
「誰に」
「国民」とカイル。
現在のカイルは、母の向かいへ立っている。
「王家が幸福だと示す。国が安定していると示す。王妃が病んでいないと示す。王太子が傷ついていないと示す」
「全部、示すだけ?」
「政治は、示した形へ現実を寄せる仕事でもある」
「逆じゃない?」
「現実が形へ寄らない時、形の方を繰り返す」
王家の歴史では、食卓映像が戦争を止めたことがある。
王妃が笑っている。
王子が健康である。
王が同じパンを食べている。
その三つだけで、市場の暴落が止まり、軍が反乱を延期し、地方領主が婚約破棄を思いとどまった。
映像は嘘でも、結果は現実だった。
ゆえに王家は、嘘を正当化する方法を学んだ。
国民が救われた。
混乱が減った。
戦争が一日遅れた。
一日遅れた戦争で死ななかった者は、嘘へ感謝する。
その嘘の中で声を失った一人を、歴史は数えにくい。
「これ、母上の夢ではない」とカイル。
「あなたのでもない可能性」とセレナ。
「王家広報の記録を、幼少夢へ重ねた」
「誰が」とハル。
「編集者。治療者。広報官。本人を慰めようとした誰か」
「怪盗」
「まだ断定できません」
セレナの声が硬い。
見たい犯人を先に作らない。
白い食卓の端で、ノクスが鼻を鳴らす。
匂いはある。
パン。
白百合。
蝋。
印刷インク。
食事の匂いではない。
撮影舞台の匂い。
ノクスの尾が、夢像ではなく天井を指す。
「上?」ハル。
天井に、黒い四角。
小さな投影窓。
「映像を流した装置」とロロ。
補助腕を伸ばす。
届かない。
「卓が長すぎる」とエリア。「部屋を歩くより、食卓の上を行く」
「行儀」とカイル。
「夢の王家へ謝って」
「私だ」
「今のあなたではない」
「便利な区別だな」
ハルが卓へ飛び乗る。
皿を避ける。
夢像の手を避ける必要はないのに、身体が避ける。
家族の食卓へ靴で上がることへ、罪悪感がある。
「一、二――」
「三の前に待って!」
エリアが路図を伸ばす。
「なに」
「皿の配置が動く」
白い皿が、一斉に滑った。
音はない。
無音で、刃のように卓上を走る。
ハルが跳ぶ。
右手で燭台を掴む。
左肩へ体重をかけず、脚を上げる。
皿が足の下を通過する。
ロロの補助腕が二枚を受ける。
夢の皿は割れない。
受けた補助腕の方が弾かれた。
「何で食器が攻撃してくんだよ!」
「私たちを異物と認識」とソムナ。
「食卓の礼法違反?」
「場面を繰り返すため、配置外の物を押し出してる」
椅子が動く。
四脚。
王。
王妃。
幼い王子。
現在王子像。
全員が、同じ動作。
匙。
スープ。
パン。
微笑み。
その外側にいる生身の人間を、夢が部屋の外へ掃き出そうとする。
「出口へ押すなら親切」とハル。
「出口が閉まってる」とエリア。
白い扉が、壁へ溶けていた。
退出線も見えない。
「誰かが外から接続を固定してる」とソムナ。
「怪盗?」
「可能性。断定はしない」
「今は犯人より出る方法」とアサの声。
彼らは覚醒側に残っている。
アサの言葉は短い。
『場面を止める札』
カイルが胸へ手を入れる。
三枚の退出札。
一枚目、夢から出る。
二枚目、場面を止める。
三枚目、記録を止める。
彼は二枚目を出す。
折ろうとする。
夢像の母が、初めて顔を向けた。
『カイル』
声がした。
食卓の夢に、初めて音が生まれた。
カイルの指が止まる。
「今の、元の音?」ハル。
「分からない」
『座って』
母の声。
優しい。
公式映像で国民が聞いた声。
葬儀で流れた声。
幼いカイルが、もう一度だけ聞きたいと願った声。
空いていなかったはずの席が、一つ現れる。
現在のカイル像の隣。
『家族で食べましょう』
カイルが席へ近づく。
「待って」とエリア。
「母だ」
「音源を確認していない」
「夢で家族へ出典を求めるのか」
「求める」
「君らしい」
「あなたらしくない」
「何が」
「迷っているのに、冗談で決めようとしている」
カイルは椅子へ手を置く。
木ではない。
温かい。
王城の食卓に、彼の席は常にあった。
ただし、王子の席だった。
ここでは、家族の席に見える。
「一度座るだけだ」
「それが同意条件かもしれない」とソムナ。
「座ったら出られない?」
「分からない」
「分からないばかりだな」
「分からない時に、分かったふりをしないのが案内人」
「客受けが悪い」
「うん」
カイルは椅子を引く。
音がしない。
その無音が、彼を止めた。
「母は」と彼が言う。「椅子を引く音が嫌いだった」
「なぜ」とハル。
「患者の病室で響くから。食堂でも、必ず持ち上げて動かした」
夢像のイレーネは、毎回、椅子を引く。
無音だから、癖が消えている。
「本人の動作じゃない」
「広報映像の演出」とエリア。
「それでも、声は」
セレナが外から記録を読み上げる。
『王都暦九七八年、王妃追悼週間用再編集。「家族で食べましょう」の音声を、王立病院食育記録から転用』
カイルの手が椅子から離れる。
「母は、患者へ言ったのか」
『子供病棟の記録。対象は特定できません』
「私へではない」
『少なくとも、この食卓であなたへ言った記録ではない』
夢の声は本物。
宛先が偽物。
言葉は、誰が言ったかだけでなく、誰へ言ったかでも意味が変わる。
カイルは二枚目の札を折った。
「止める」
食卓が、停止した。
匙は空中。
微笑みは途中。
パンへ伸びた手。
母の口が、「ま」の形で止まる。
静止した家族。
カイルは見つめる。
「記録も止める?」セレナ。
「いや」
「私的な部分を含む可能性」
「これが公的に作られたなら、誰が何を足したか記録する」
「母の声の内容は」
「非公開」
「了解」
ソムナが杖を上げる。
「場面を止めた。出口を作る」
橙の糸が、天井の投影窓へ伸びる。
「出口が上?」ハル。
「この夢は映像を下へ流してる。入ってきた向きと逆」
「登る」
食卓の皿が停止しているうちに、全員が走る。
ハルが先。
エリアが路図。
ロロが燭台を組み替え、梯子へ。
カイルは最後。
母の前を通る。
静止した微笑み。
彼は足を止めない。
天井まで、二十メートル。
夢の寸法は伸びる。
食卓が傾き、白い皿が重力を無視して滑り始める。
「止めたはず!」
「場面は停止。防衛処理は別!」ソムナ。
「夢の仕組み、契約書みたいに欄が多い!」
「欄がないと全部同意になる!」
ハルが燭台から投影窓へ跳ぶ。
右手が縁を掴む。
左肩に痛み。
脚を壁へつけ、体重を分ける。
「ロープ!」
ロロの補助腕が投げる。
ハルは右手だけで結ばない。
歯で保持せず、腰帯の金具へ通し、両脚で支える。
過去なら、自分の肩を代金にした。
今は、道具と仲間へ負担を分ける。
「一人ずつ!」
エリア。
ソムナ。
ロロ。
ノクス。
カイル。
最後のカイルが登る時、食卓の停止が解けた。
家族が一斉に顔を上げる。
父王。
母。
幼い自分。
現在の自分。
四人が、同じ声で言う。
『行かないで』
カイルの足が滑る。
ハルがロープを引く。
左肩へ衝撃。
痛い。
それでも一人で受けない。
エリアが腰索を握る。
ロロの補助腕が床へ固定。
ソムナの杖が出口を広げる。
「カイル!」
「聞こえている!」
「誰の声!」
「全部、私が欲しかった声だ!」
「宛先は!」
「私じゃない!」
カイルが自分で答えた。
左手でロープを掴む。
本来の利き手。
投影窓へ身体を上げる。
夢像の家族が、無音の食卓へ戻る。
窓の向こうは、狭い映写室だった。
壁に、銀の巻物。
王家広報局の印。
音声編集表。
映像番号。
セレナが外部から読み取る。
『家族食卓・王妃健在版』
『王妃追悼版』
『王太子療養用再編集』
『国民安心配信用短縮版』
「版が多い」とハル。
「同じ家族が、用途ごとに違う食事をする」とカイル。
ロロが映写機へ耳を当てる。
「音を抜いたんじゃねえ。最初から別系統だ。皿音、椅子、咳、呼吸、全部、雑音として切られてる」
「なぜ」とハル。
「食卓を繰り返し継げるように。音があると、編集の切れ目が分かる」
「見た目だけつなぐ」
「完璧にするためにな」
ソムナは銀の巻物へ触れない。
「これは、原本じゃない」
「確定?」セレナ。
「幼少夢ではなく広報映像を材料にした共有夢。夢の中に、本人が見た断片は混ざってるかもしれない。でも、全体は編集版」
「証拠」
「投影機の版番号。音声転用記録。現在カイルと幼少カイルの重複。舞台寸法」
「記録します」
カイルは巻物の一本を見る。
小さな手書き。
『王太子が安心して眠れるよう、母君の食卓を復元』
「善意だ」と彼。
「善意でも、本人の記憶とは限らない」とソムナ。
「作った者は、母を返したかった」
「返せないものを返したと表示した」
「責めるか」
「責任を分ける。慰めとして残すかは、あなたが選ぶ」
「これも残す」
「理由」
「母の声は、私へではなかった。それでも母が誰かへ言った声だ」
「宛先表示を付ける」
「付けろ」
原本ではない。
捨てない。
答えが同じでも、理由は一つ目と違う。
カイルは、夢を分類しているのではない。
自分が何を持ち帰るかを、少しずつ決めている。
「出口」とハル。
映写室の奥に、白い扉。
取っ手。
鍵穴。
退出印。
ソムナが杖を向ける。
扉が、外側から閉まった。
鍵の回る音。
今度は聞こえた。
カチリ。
夢の音ではない。
現実側の市場設備で、誰かが共有夢の出口を封鎖した音だった。
「怪盗」とハル。
「断定は――」セレナ。
映写室の壁が、白い食卓へ変わり始める。
銀の巻物が皿になる。
映写機が椅子になる。
出口が、母の微笑みへ塗り替えられる。
ソムナの袖で、紙札が一枚、先に鳴った。
彼が嘘をつく時の音。
「出られる?」カイル。
一拍。
「今は」
ソムナは答えた。
「分からない」
白い食卓が、四方から彼らを囲んだ。