第564話 第六章「車掌たちの停車」後編
同じ時刻。
夢灯環の夜市でも、列車が止まった。
「止まった?」
ハルは、市場海を横切る黒い輸送列車を見た。
線路はない。
灯籠から灯籠へ、光の鎖が伸び、その上を短い貨車が走る。
夢商品。
記録札。
編集器。
眠り薬。
買い手の仮面。
夜市は、夢を船で運ぶと思われがちだが、商売が大きくなれば時刻表が要る。
夢は自由でも、荷物は納期へ従う。
全貨車の灯が、同時に赤へ変わった。
「故障?」ロロ。
市場放送。
『全夢貨物線、乗務員判断により停止』
『来歴不明貨物の積載拒否』
『再開条件、所有確認、編集履歴開示、退出札の搭載』
「争議」とエリア。
「イヴァのところと同じ?」ハル。
「連絡は届いていないはず」とセレナ。「ただし、雷鎖環の争議は各地の運行組合が注視している」
制度は、魔法通信より遅く広がる。
新聞。
噂。
出稼ぎ労働者。
同じ疲労。
一つの土地で誰かが停止権を使うと、別の土地の人間が、自分にも止める理由があると気づく。
怪盗が盗んだ三枚の来歴札は、夢貨物線で夜市奥へ運ばれる予定だった。
列車が止まり、貨車の扉が開かない。
「取り戻せる」とハル。
「乗務員の保全下」とセレナ。「勝手に開ければ、私たちが運行妨害になります」
「怪盗は待つ?」
「待たない」とカイル。
市場の海で、黒い帆が上がった。
第五章で見えた海賊船。
列車へ積まれなかった貨物を、夢の風で運ぶ。
白い仮面が船首に立っている。
『停車へ敬意を』
市場全体へ声。
『列車が所有不明品を運ばないなら、所有を必要としない夢が運びます』
「敬意と言いながら抜け道使ってる」とハル。
『規則へ従っている。夢船は貨物線ではない』
「その言い方、夜市で一番嫌い」と札守の老女が吐き捨てた。
夢の帆船が、停止貨車の側面へ寄る。
現実では、黒い長外套の人物が天井索を渡り、貨車の外箱から薄い記録片を抜いている。
夢と現実、二つの動作が重なる。
「追う!」ハル。
「止まって」とセレナ。
「また?」
「列車乗務員へ、貨車外側からの保全許可を求めます」
「逃げる!」
「だから記録を残す。取り返した後、私たちが盗んだことにされないため」
ハルは足を止める。
止まる。
怪盗が遠ざかる。
身体の中で、七歳の自分が叫ぶ。
父は「必ず帰る」と言って消えた。
待った。
来なかった。
待つほど、置いていかれる。
「何秒」とハル。
「許可応答、最大三十」とセレナ。
「十五で来なかったら」
「緊急保全権を行使。理由を記録」
「分かった」
十五秒。
長い。
カイルが隣に立つ。
眠気で少しふらつく。
「先に飛ぶな」と彼。
「今、止まってる」
「珍しいから言った」
「お前、寝ろ」
「競売中」
「判断落ちてる」
「お前に言われると腹立つな」
八秒。
エリアが路図を引く。
許可が来た瞬間に使える三経路。
怪盗の船へ最短。
停止貨車へ保全。
市場出口へ退避。
ロロは補助索をハルの右腰へ付ける。
左肩へ負担を集中させない。
ノクスは、海賊船の匂いを追わない。
船が通った後、夢の波に残る編集の継ぎ目を見る。
十二秒。
返信灯が青くなる。
『貨車外部の保全行動を許可』
『夢商品への接触不可』
『来歴札の回収は、乗務員立会い』
「行く!」
十五秒前。
ハルが飛ぶ。
一、二、三。
停止貨車の屋根。
夢の海賊船が横を通る。
エリアの路図が、二つの世界へ同時に伸びる。
現実の天井索。
夢の光鎖。
ハルは貨車屋根を走り、海賊船へ跳ぶ。
足が船縁へ触れる。
紙の船が、波ではなく記憶で揺れる。
誰かが見た嵐。
誰かが見た追跡。
誰かが見た逃亡。
甲板が一瞬、翼鯨の背へ変わる。
次に、雷導列車の屋根。
次に、王城の廊下。
夢船は、一つの場所ではない。
「止まれ!」
白い仮面が振り向く。
『止まったのは列車だ』
「お前も止まれ!」
『行き先を決めるのは私だ』
「持ち主の夢で!」
『持ち主が誰か、札がない』
「お前が盗った!」
『証明は?』
ハルが言葉に詰まる。
証明を盗んだ者が、証明の欠如を盾にする。
怪盗は三枚の札を扇のように広げた。
『王家旧封印庫』
『王太子療養用再編集』
『匿名慰め夢』
『初誓前夢記録』
『転売可』
『転売不可』
『後見人同意』
『本人同意、不明』
札の表裏が高速で入れ替わる。
「混ぜた?」
『分けた』
「何を」
『名前と内容。原本と編集。所有と同意。市場が一枚へ押し込めたものを』
「盗んで?」
『札を返せば、また一枚になる』
怪盗の鉗子が動く。
三枚の札を、さらに細く切り分ける。
所有者名。
記録時刻。
編集者。
同意者。
販売範囲。
紙片が風へ散る。
「やめろ!」
ハルが飛びつく。
白い仮面の身体が、また札へほどける。
代役。
本体は船尾。
エリアの槍が路図ごと突く。
夢の船を傷つけず、逃走路だけを閉じる。
「あなたは、札を分けたのではない」と彼女。「対応関係を切った。どの同意がどの編集へ付くか分からなくした」
『地図士は、対応線が好きだ』
「線を引く前に、誰の選択か確認する」
『市場の線は、金を払った者が引く』
「なら市場を変える」
『変わるまで、夢は待てる?』
怪盗が帆索を切る。
黒い帆が一気に開く。
夢の風。
市場中の客が、買いたいと願った風。
逃げたいと願った風。
原本を自分のものにしたい風。
海賊船が加速する。
ハルの補助索が張る。
左肩ではなく腰へ負荷。
貨車屋根から引き離される。
「切れ!」ロロ。
「船へ行ける!」
「現実の索だ! 市場の天井ごと持ってかれる!」
ハルはナイフを抜く。
切る。
夢の身体が海賊船へ残り、現実の身体が貨車屋根へ落ちるような感覚。
世界が二重になる。
右足は紙甲板。
左足は金属屋根。
このまま船へ移れば、身体と意識の位置がずれる。
戻れなくなる。
アサの退出札が胸で震える。
「ハル!」ソムナ。
「もう少し!」
「理由はいらない。出る札を使って!」
「札が!」
怪盗の手。
三枚の来歴札。
切り分けられた紙片。
届く。
届かない。
ハルは、父の背を思う。
追えば届いたかもしれないと思い続けた背。
だが、今は一人で追っていない。
仲間がいる。
証拠を守る乗務員がいる。
止まる権利がある。
退出札を折る。
夢の海賊船から、身体が剥がれる。
現実の貨車屋根へ転がる。
黒い帆は、夜市の奥へ消えた。
怪盗は逃げた。
来歴札も。
欠けた夢の断片も。
ハルは拳を屋根へ叩きつける。
「止まったから」
「追えなかった?」カイルが下から言う。
「ああ」
「なら、止まったことを失敗にするな」
「逃げた」
「身体は戻った。乗務員の保全を壊さなかった。次に追える」
「次がある保証」
「ない」
「お前、景気悪い」
「眠いからな」
カイルは笑った。
「私なら、さっき飛んでいた」
「王子が?」
「眠れていない王子だ。判断が悪い」
「自慢するな」
「だから、お前が止まったのは正しい」
「正しいだけじゃ、取り返せない」
「正しさを、次の手順へつなげる」
セレナが貨車乗務員と保全記録を作る。
エリアは海賊船の夢航路を写す。
ロロは切り分けられた札の一片を、貨車の通気口から拾った。
「一枚だけ」とロロ。
小さな紙片。
『編集項目――機械音、技術的誤りを修正』
「機械音」とハル。
「正しい音へ直したってことか」とロロ。
「どの版?」セレナ。
「対応が切られてる。分かんねえ」
「でも、編集した記録はある」
カイルが紙片を見る。
「私の間違った音を、誰かが直した」
「間違いだって分かる?」ハル。
「ロロが変と言った」
「まだ変なだけ」
「なら調べる」
市場の海から、海賊船の汽笛が遠く響く。
列車ではない船が、汽笛を鳴らす。
盗んだ夢から借りた音。
カン。
カン。
低い息。
カン。
ロロの補助腕が、今度は拍を返さなかった。
「直す前に」と彼は言う。
「どこで鳴った音か、探す」