第565話 第七章「間違った機械音」前編
機械は、正しい音を出さない。
設計図どおりの音を出す機械は、完成した瞬間だけである。
使えば、歯が減る。
油が焼ける。
軸がわずかに曲がる。
締めた人間の癖が残る。
雨の日は音が低くなり、寒い朝は一拍遅れ、値切られた部品は値切られた分だけ早く泣く。
修理工は、正しい音を聞くのではない。
その機械が、今日までどう間違ってきたかを聞く。
だからロロ・ピクスは、カイルの記憶する音を嫌った。
間違い方が、機械のものではなかったからだ。
「もう一回」
ロロが言う。
カイルは卓を叩く。
カン。
カン。
喉で、低い息の音。
フウ。
最後に、カン。
「違う」
「私の記憶へ不合格を出すな」
「今の最後、弱い。最初に聞いた時は二発目と同じ強さ」
「眠れていない人間へ、十一年前の打音を精密再生させるのか」
「正確じゃなくていい。どこが同じだと思ってるかが要る」
ロロは市場の保全室を、半日で工房へ変えていた。
半日といっても、常夜の町では時計上の半日だ。
天井に朝は来ない。
床へ並ぶ部品。
小型蒸気弁。
四歯の逃がし輪。
古い王家式の圧力計。
銅管。
打音板。
木槌。
記録結晶。
苺ジャムの空瓶。
「最後のは何」とエリア。
「匂い比較」
「食べた後では」
「空にしてからじゃないと機械へ持ち込めねえだろ」
「誰が食べた」
ロロの補助腕が、全部ノクスを指した。
ノクスの口元に赤い種が付いている。
「ノゥ」
「否認してる」とハル。
「瓶の底に肉球跡」とセレナ。
「ナァ」
「異議」
「採用しません」
ロロは苺瓶を別の箱へ置く。
「食べ物の苺じゃないって言ったな」
「そう感じる」とカイル。
「薬、油、蝋、香料。似た匂いの候補を集める。音と場所が分かれば絞る」
彼は右の度入りレンズを下ろす。
細字を見る。
眼がすぐ疲れるため、設計図を拡大板へ投影した。
「王家旧封印庫から、初誓設備の型式一覧」とセレナ。
「全部?」
「公開可能部分。軍事機密は寸法を伏せています」
「音調べるのに寸法が要る」
「必要性を示せば追加開示を申請」
「今、示してる!」
「申請書へ」
「口で分かれ!」
「後で誰が見ても分かる形へ」
ロロは舌打ちし、補助腕の一本で申請書を書く。
「綴り」とセレナ。
「読めりゃいい」
「『排気』の二文字目が『魚』になっています」
「排気魚が泳いでんだよ!」
「新生物を公文書へ作らないでください」
ハルが覗く。
「俺より字、読める」
「お前を基準にすんな!」
怒鳴ったあと、ロロは咳をした。
紙粉。
市場の保全室は、夢札の繊維が空気へ舞う。
メイが吸入器を投げる。
「使う」
「一回だけ」
「回数を交渉しない」
「眠くなる」
「ならない薬」
「苦い」
「吸うだけ」
「味する」
「知ってる」
ロロは吸入する。
補助腕が二本、落ち込んだように垂れる。
身体の制限を、冗談で消さない。
作業を止めるほどではない。
無視してよいほど軽くもない。
王家の初誓工房は、七世代で十八か所変わった。
城内。
下面区。
軍港。
病院。
学院。
星脈炉の隣。
王族の子供が初めて誓術を発動する場所は、政治の考え方を映す。
古い時代は玉座の前。
忠誠が先だった。
戦争期は兵器庫。
実戦が先だった。
イレーネ王妃が医療制度へ関わった時代、工房は病院と機関区の境へ移された。
誓術を武器だけでなく、身体へ起きる反応として診るため。
王家記録は、その移転を「安全思想の進歩」と書く。
下面区の記録は、「城内で起きた爆発を下へ移した」と書く。
同じ建物の歴史である。
「十一年前、カイルの年齢」とエリア。
「六歳」とカイル。
「初誓日は七歳の直前」とセレナ。「記録候補は二工房」
「王城東機関室と、旧雨樋工房」とロロ。
「雨樋?」ハル。
「下面区から上がる排水と、王立病院の排熱をまとめてた。雨の日だけ水音が逆流する」
「俺の母が調査した場所」とエリア。
彼女の声が少し速くなる。
亡母マリエラ。
上層と下面区をつなぐ航路と機関を調べ、事故で死んだ。
「資料にある?」
「工房の平面図。王族用の正門ではなく、病院側の搬入口。母は『子供が逃げたい時、礼法廊下を通らず外へ出られる』と注記している」
「逃げ道を設計した?」
「避難路」
「王家は逃亡と避難を別料金にしそう」とハル。
「逃亡は政治、避難は安全。扉は同じでも、記録が違う」とカイル。
「どっち使った」
「覚えていない」
ロロは二工房の機械一覧を並べる。
王城東機関室。
小型盾紋刻印機。
星痕測定輪。
六拍式の冷却弁。
旧雨樋工房。
四室減圧機。
旧型王盾籠手調律台。
病院用の火傷冷却槽。
排水鐘。
「音、どっち」
「まだ」とロロ。
「お前、機械見れば分かるんじゃ」
「見れば何でも分かる発明少年だと思うな。音は、部屋、壁、距離、人の耳で変わる」
「偉い」
「何が」
「分からないって言った」
「修理代増やすぞ」
ロロは四室減圧機の図を拡大する。
四つの圧力室。
三本の固定爪。
一つの排気弁。
作動順。
一爪。
二爪。
三爪。
排気。
音なら。
カン。
カン。
カン。
フウ。
「カイルのは」
カン。
カン。
フウ。
カン。
「排気の後に固定爪?」ハル。
「出ない」とロロ。
「壊れてたら」
「壊れてても出ない。排気したら圧が抜ける。最後の爪を叩く力がない」
「別の機械」
「王城東の六拍弁は、もっと細かい。カンじゃなくチッ。雨樋工房の減圧機が近いけど、順が物理的に間違ってる」
「夢だから」とソムナ。
「それで終わるなら呼ぶな!」
「終わらせてない。本人が間違えて聞いた可能性」
「どう間違う」
「距離。片耳。別の音。眠気。怖さ」
「再現する」
ロロが立ち上がる。
再現実験は、夢の中で先に行わなかった。
現実で音を作る。
誰が何を足したか分かるよう、部品へ番号を付ける。
セレナが時刻を記録。
メイがカイルの脈を測る。
ソムナは音を夢へ入れない。
アサは、聞くのを途中でやめる札を卓へ置く。
「一回目。設計どおり」とロロ。
小型の四室減圧機を組む。
正式部品は軍事制限で借りられない。
同じ質量と弾性の廃材を使う。
「これ、いくら」とカイル。
「王室請求なら二百四十ルク」
「私費」
「二百三十九」
「割引が小さい」
「私費ない奴へ一ルク値引きした慈善を褒めろ」
ロロが弁を開く。
カン。
カン。
カン。
フウ。
正しい。
カイルは目を閉じる。
「違う」
「どこ」
「三つ目が多い」
「機械にはある」
「私の記憶にはない」
「二回目。三爪目を布で消音」
カン。
カン。
小さな擦れ。
フウ。
「違う」
「最後がない」とハル。
「三回目。順を変える」
ロロは排気弁を早く開く。
カン。
カン。
フウ。
最後に、外から木槌で打音板を叩く。
カン。
カイルの左手が、反射で右肩へ上がった。
何かを抱くような動き。
あるいは、耳を塞ぐ動き。
涙。
今度は本人も気づく。
「これだ」
ロロは装置を止める。
「最後は機械じゃない」
「今、何で鳴らした」とカイル。
「打音板。外から」
「誰かが叩いた?」
「たぶん。お前の記憶は、機械の一周期じゃない。三爪目を聞き落として、排気の後に別の金属音を同じ機械だと思った」
「なぜ三爪目を」
「片耳を塞いだ。大きい音で身体を縮めた。誰かに抱かれた。部屋の反響。候補は多い」
「最後の音は」
「まだ」
カイルは右肩へ上げた左手を見る。
本来の利き手。
王族礼法で右へ矯正される前から、左で母へ触れた。
「母の手」と彼。
「記憶?」ソムナ。
「匂いと一緒に出る」
「手が何をした」
「耳を」
カイルは迷う。
自分の右耳へ、左手を当てる。
違う。
左耳へ。
違う。
胸へ。
背中へ。
身体が、答えを探している。
「無理に決めない」とメイ。
「思い出せそうだ」
「思い出せそうな時ほど、周りの動作を取り込む」
「では手を止める」
カイルは両手を卓へ置く。
ロロは三回目の音を再生しない。
人は、答えに近づくと繰り返したくなる。
繰り返すほど、今聞いた音が昔の記憶へ上書きされる。
「一回だけ」とセレナ。
「記録した」とロロ。
「次は、別条件を確認してから」
「面倒だな」
「原本を作り直さないためです」
ロロは装置へ触れたい手を、工具箱へ戻す。
修理工にとって、正しい音へ直さず止めることは、壊れた機械を見送るより難しい。