第566話 第七章「間違った機械音」後編
匂いを調べる。
苺ジャム。
苺酒。
子供用の甘い薬。
火傷冷却蝋。
王立病院の古い消毒香。
雨樋工房の潤滑油。
市場の匂い商から少量ずつ借りる。
対価は高い。
ロロは一つずつ値切り、メイが医療資料として適正価格を確認し、カイルが王室勘定を使おうとして全員に止められた。
「王子の記憶調査だぞ」
「市場価格を王室が上げる」とエリア。
「では私費」
「ない」とロロ。
「借金」
「誰に」
「ハル」
「俺もない」
「エリア」
「公爵家の金を使えば、家が閲覧権を主張する可能性」
「セレナ」
「官給を私的夢へ使いません」
「メイ」
「診療費を先に払って」
「ソムナ」
「診療所が赤字」
「アサ」
「少額なら。話す労働の料金から」
全員が見る。
アサは杖を出口へ向けたまま言う。
「貸す。返済条件は、夢の内容を聞かない」
「借りる」とカイル。
「王太子が患者相談員へ借金」とセレナ。
「記録するな」
「金銭関係は後の影響があります」
「公開するな」
「非公開記録」
「市場の夜食五回分を、王都へ戻ってから返す」とアサ。
「利息」
「なし」
「それでは対等でない」
「なら、一回、私の話を最後まで聞く」
「内容は」
「今は決めない」
「契約成立」
王子は、国家資産へアクセスできる。
私用現金を持たない。
王国を動かせる者が、苺の匂いを確かめるため、十八歳の相談員から夜食五回分を借りる。
歴史書は、こういう場面を記録しない。
王権の実態は、国家予算より、小銭がない時に誰へ頭を下げるかに表れる。
匂いを一つずつ嗅ぐ。
カイルは目を閉じない。
眠りへ落ちるためではなく、視覚の影響を減らすため、薄布を目へ当てる。
ジャム。
「違う」
酒。
「違う」
甘い薬。
手が動く。
「近い」
「何の薬」とメイ。
「王立病院の旧式解熱液。苺油で苦味を隠した」と匂い商。
火傷冷却蝋。
カイルの背中が強張る。
「これ」
「単独?」メイ。
「薬と蝋が一緒」
「雨樋工房には病院用冷却槽があった」とエリア。
「初誓暴走の後」とセレナ。
カイルの背中。
獅子形の火傷。
母を守ろうとした初誓の暴走。
その出来事は、公的記録にある。
夢の詳細はない。
「私は、雨樋工房で火傷を処置された?」
「医療記録の存在だけ確認」とセレナ。「内容の開示には、あなたと亡王妃の私事が同じ頁にある可能性」
「分離できる部分だけ申請」
「既に準備しています」
「早いな」
「ルメの記録を分けた時に決めた手順です」
町の共同人格に使った原則を、王家へ持ち帰る。
庶民の制度を褒め、王宮で例外にしない。
申請へ、公開しない、母の私事を開かない、本人情報だけ分離、分離不能なら保留、と書く。
返答は二時間後。
その間、ロロは音装置の前へ座る。
ネジを長さ順に並べる。
補助腕が、三回目の再生レバーへ伸びる。
止める。
また伸びる。
「直したい?」ハル。
「最後のカンの正体が分かれば、装置を一つにできる」
「一つにする必要」
「再現が安定する」
「元の記憶は二つの音かも」
「だから気持ち悪いんだよ」
「間違ってるから?」
「機械の音として間違ってる。音としては起きた。俺は、起きたものを直せると思ってた」
「音を?」
「壊れた部品なら。最後が別の音なら、機械だけ直しても元へ戻らない」
「元へ戻すのが修理?」
「普通は」
「普通じゃない時」
ロロは答えない。
工具箱の中に、姉ニアが残した古い切断工具の欠片がある。
機械も人も、壊れたと判断された瞬間に捨てられる。
だからロロは、直せると言う。
直せない時ほど、言う。
「存在しなかった音は」とソムナ。「足せない」
「俺は作れる」
「似た音を」
「そっくりに」
「それは、元からあった音ではない」
「分かってる!」
ロロの補助腕が全部上を向く。
「分かってるから腹立つんだよ! 正しい音も、間違った音も作れる。どっちも作れるなら、作った俺が原本を選べるみたいになる!」
保全室が静まる。
「だから」とセレナ。「再現者名を付けます。どの部品、どの仮定、どの時刻か」
「札へ逃がす?」
「責任を見える位置へ置く」
「俺の音でカイルが泣いた」
「反応は記録する。原本の証明には単独で使わない」
「泣かせた」
ロロの声が小さくなる。
本当に助けてほしい時、工具名を言わず、人名を呼ぶ。
「カイル」
「何だ」
「もう一回、やる?」
「今はやらない」
「怖い?」
「怖い」
「分かった」
ロロは再生レバーから手を離す。
機械を直さない。
音を増やさない。
止める。
その選択も、修理の一部だった。
医療記録の返答が来る。
セレナが封印を確認する。
カイル本人に関する部分だけ。
イレーネの診療内容は黒帯で隠されている。
『王都暦九七六年、雨月十二日』
『場所、旧雨樋工房』
『対象、王太子カイル・アークレイ、六歳』
『初誓予備試験中、王盾炎の過剰展開』
『背部火傷』
『処置、火傷冷却蝋、苺香解熱液』
『同席者、王妃イレーネ、機関技師三名、記録官一名』
『夢記録、鎮静導入時に取得』
『本人拒否欄――制度上なし』
場所。
匂い。
時期。
一致する。
「工房だ」とハル。
「旧雨樋工房」とエリア。
「機械は四室減圧機」とロロ。
「まだ、最後の音は別」とソムナ。
「同席者に機関技師三名」とカイル。
「誰かが打音板を叩いた可能性」とセレナ。
「母の手は」
「記録にない」
カイルは紙を折らない。
見たくない一行を、内側へ隠さない。
『本人拒否欄――制度上なし』
「夢を記録された同意は」と彼。
「後見人同意の別紙。開示申請が必要」
「誰が署名」
「現時点で不明」
「母か父か」
「不明」
「怪盗が持つ来歴札にある?」
「可能性」
盗まれた札は、単なる所有証明ではない。
六歳のカイルが、誰の同意で夢を記録され、誰が後から編集し、どこまで売買できるとされたか。
王家の私的夢を市場へ出せる法律上の穴は、そこにある。
「場所が分かった」とハル。「欠けた夢の真ん中も、工房?」
「おそらく」とソムナ。
「何が起きた」
「まだ分からない」
「機械音の誤りは」
ロロは編集記録片を出す。
『機械音、技術的誤りを修正』
「編集者は、設計図を見た」と彼。「カイルのカン、カン、フウ、カンを、正しいカン、カン、カン、フウへ直した」
「なぜ、それが原本の手掛かり」とハル。
「編集版ほど、正しい音になる。原本だけが、六歳のカイルの間違いを持つ」
「変な音が本物」
「変だからじゃない」とセレナ。「後の編集者が、変だと認識して修正した記録がある。修正前の版が存在した証拠」
「でも、怪盗がわざと変に作れる」
「今なら」とロロ。「編集記録片を見た後なら作れる。最初の夢は、俺たちが片を拾う前から鳴ってた」
「市場に来る前から、カイルも覚えていた」とエリア。
「王子の記憶、身体反応、編集記録、機械構造、医療記録」とセレナ。「一つでは足りない。重なる」
「原本確定?」
「欠けた中間と来歴対応が必要」
答えへ近づく。
答えは、感動的な涙ではない。
機械の誤り。
薬の匂い。
時刻。
制度の欠けた拒否欄。
人の記憶は、正確だから本人のものなのではない。
間違い方まで、誰かに直される前の自分のものだ。
夜市の海へ、旧雨樋工房の輪郭が浮いた。
海賊船が通った夢航路の一部。
誰かが見た航海断片しか、夢船は通れない。
怪盗は、欠けた夢を載せて工房の夢へ入った。
エリアが航路を地図へ写す。
「追える」
「夢船が必要」とソムナ。
「市場の船を借りる」
「来歴不明品を追うため、夢航海の許可が要る」とセレナ。
「また申請」とハル。
「今度は、札守が緊急保全権を出す」
札守の老女は、値札形眼鏡を拭きながら言った。
「船は貸さない」
「なぜ」とハル。
「市場の船は、客が買った夢の範囲しか走れない。怪盗の船は、盗んだ航海夢を継ぎ足している」
「じゃ、作る」とロロ。
「何で」
「ゼロスター号」
「現実の船を夢へ入れる?」エリア。
「全部じゃない。帆、舵、船体の記憶を、乗員全員が持ってる。ソムナが縫えば、夢の写しを作れる」
「存在する断片だけ」とソムナ。
「ある。俺は機関音。エリアは寸法。ハルは足裏。カイルは甲板の傷。セレナは記録。ノクスは匂い」
「あなたは」とハル。
「夢を見られない」
「でも、船に乗った記憶はある」
「覚醒記憶」
「夢綴りに使える?」
「共有夢の入口としてなら。航海断片は、誰かが夢で見たものが必要」
「俺、ゼロスター号の夢見たことある」とハル。
「どんな」
「父を乗せて地球へ帰る」
空気が止まる。
ハルは羅針盤の蓋を一度弾く。
「顔は?」
「見えない時が多い」
「使う?」ソムナ。
「使えるなら」
「途中で父の場面へ引かれる可能性」
「分かってる」
「戻れないと思うかも」
「カイルに言ったばっかだ。起きてから決める」
「夢船は、その断片を通る」
「通るだけ」
カイルがハルを見る。
「お前の父の夢を、私の夢へ行くために使う」
「貸す」
「対価」
「戻ってきたら、現実の苺大福」
「一個半?」
「二個」
「大きいな」
「怖いから」
カイルは認める。
「私もだ」
二人の取引は、夜市の競売記録へ載らない。
札もない。
価格もない。
ただ、何を借り、何を返すか、本人同士が言った。
ロロは音装置の最後のカンへ、赤い札を付ける。
『機械音ではない』
『出典未確認』
『原本へ追加禁止』
正しい音を作れる修理工が、間違った音をそのまま保全する。
それが、海賊船を追うための最初の修理だった。