第567話 第八章「原本を修正しない」前編
原本という言葉は、最初を指すとは限らない。
最初に書いた文章。
最初に撮った写真。
最初に記録した夢。
それらが、本人の意図を最も正しく表すとは限らない。
書き直した方が伝わる。
撮り直した方が見える。
言い直した方が、傷つけずに済む。
それでも原本には、後から消せない価値がある。
正しいからではない。
その時の人間が、まだ後の答えを知らなかった証拠だからだ。
夢船の建造は、ゼロスター号の甲板と夜市の夢空で同時に行われた。
現実側。
ロロが主帆の留め具へ細い記録線を巻く。
エリアが船体寸法を測り、路図へ写す。
セレナが、誰の記憶をどの範囲で使うか記録する。
メイが、入夢者の身体条件を確認する。
アサが、途中退出の合図を一人ずつ変える。
夢側。
黒い海に、船の骨が浮かぶ。
ハルが覚えている甲板の傾き。
カイルが覚えている船縁の傷。
ロロが覚えている機関の三種類の音。
エリアが覚えている片帆の面積。
ノクスが覚えている燻製魚を隠した場所。
「最後のは必要?」セレナ。
「本人が船だと認識する条件」とソムナ。
「魚が船体認証」
「ノゥ」
「正式乗員の感覚です」
「記録へ『燻製魚の匂い』と書きます」
セレナは本当に書く。
ゼロスター号の夢の写しは、豪華ではない。
船首の塗装は剥げ、片帆には継ぎ、床はガンガの重みでへこみ、ミラの足掛け、ユノの楽器帯、イヴァの小鐘がある。
客員たちが去った後も、船は彼らの身体へ合わせた形を残す。
「客員席」とハル。
夢船にも一つある。
ソムナのための席。
長い袖が歯へ入らないよう、紙札避け。
「私が乗る」とソムナ。
「当然」とハル。
「夢船の綴り手だから、ではなく?」
「客員」
一拍。
「うん」
ソムナは、杖へ新しい退出札を通す。
彼の袖札は、少し減っている。
患者の夢を自分で持つ代わりに、本人が持つ札へ変え始めた。
この治療では、カイルの札が三枚。
退出。
場面停止。
記録停止。
さらに一枚、白い札が増えていた。
「それ何」とカイル。
「自動緩和」
「正確に」
「心拍と王盾反応が基準を越えた時、夢の色と音を薄くする。場面は残す。刺激だけ下げる」
「誰が決めた」
「メイと相談して」
メイが帳簿から顔を上げる。
「身体側の鎮静条件は相談した。夢内容の自動編集は聞いてない」
ソムナの紙札が、先に鳴った。
嘘をつく時、声より札が先に鳴る。
「編集じゃない」と彼。
「音を薄くする」とカイル。
「一時的」
「私が聞く前に」
「危険なら」
「止める札はある」
「使えない状態かもしれない」
「だから、お前が勝手に直す?」
「直さない。薄くするだけ」
「それを決めるのは誰だ」
声量が落ちる。
カイルが深刻な決断をする前の声。
ソムナは杖を握る。
「案内人」
「本人ではない」
「本人が判断できない時」
「身体退出は同意した。内容の変更はしていない」
「苦しみで出口を選べなくなったら」
「それでも、何を見たかを消すな」
「消さない」
「薄くしたら、聞こえなかった音が出る」
「後で戻せる」
「戻したものが同じだと、誰が証明する」
「記録する」
「食卓も記録されていた。母の声の宛先は失われた」
ソムナが黙る。
カイルは白い札を取る。
破らない。
卓へ置く。
「これを使う条件を、今決める」
「心拍――」
「身体退出と分ける。夢を薄くする前に、私の名前を呼ぶ。返事がなければ、場面停止。音や色を変えない。身体が危険なら退出。原本の記録は、そのまま保全」
「返事ができない状態」
「場面を止める」
「止めることで、夢の中へ残る」
「身体は出す」
「夢と身体が分かれる負担」
「分かっている」
「全部、分かってるみたいに言わないで」
ソムナの声が、相手の文を途中で止めた。
本気で反対する時の声。
「あなたは、眠れてない。王子でない人生へ残りたいって言った。母の声で盾が暴れた。今は、間違いを守ることまで格好よく見えてる」
「格好」
「苦しい記憶をそのまま受け取る王子。自分だけが傷を払う癖と同じ」
カイルの背中の火傷が熱を持つ。
「お前は、楽にすることを格好よく見ていないか」
「見てない」
「患者の悪夢を薄める案内人。自分の記憶を代金にして」
「今は私の話じゃない」
「治療者の選択が、私の夢へ入るなら、お前の話だ」
ソムナの指が、白い札の端を折る。
「私には、夢がない」
初めて、言葉が速かった。
「家族の治療費のために売られた。弟の声を思い出せない。もし見つかったら、音が違っても、本物だと言われたら取り戻すと思う。違うと分かってても」
「だから私の音を直す?」
「直したくなる」
「なぜ」
「間違ったまま返したら、あなたが私と同じになる気がする」
「同じ?」
「大事な人の声を、正しく思い出せない」
「正しくなくても、私が聞いた声かもしれない」
「それで救われる?」
「救われるために取り戻すんじゃない」
カイルは白い札をソムナへ返す。
「私のものだからだ」
夢を所有するという言葉は、危険である。
記憶を物へし、本人さえ変えられない固定物へする。
それでも、他人が勝手に直し、売り、宛先を変える世界では、「私のもの」と言わなければ戻ってこない。
「原本を修正しない」とカイル。
「怖さも」
「怖さも」
「母があなたを傷つけることを言っても」
「母を完璧にするな」
「自分が、嫌な子供でも」
「王子は幼少期から品行方正だった」
「今、冗談で逃げた」
「そうだ」
「記録する?」
「しろ」
セレナが、二人の合意を書く。
一、原本夢の音、色、匂い、発話を自動修正しない。
二、身体危険時は場面停止後、本人の身体を退出させる。
三、原本夢は、本人が再接触を選ぶまで封印。
四、治療用の編集版を作る場合、原本と分離し、編集者、目的、期間を表示。
五、本人が「元に戻せ」と言っても、どの版へ戻すか確認する。
「最後、必要?」ハル。
「必要」とアサ。
「元の自分、元の夢、元の家族」とソムナ。「どれも一つじゃない」
カイルは署名する。
左手。
ソムナも署名する。
右手。
紙札は鳴らない。