第568話 第八章「原本を修正しない」後編

 旧雨樋工房の夢断片へ入る。

 今度は、全員ではない。

 カイル。

 ソムナ。

 セレナは外部記録。

 メイは身体監視。

 ハル、エリア、ロロは夢船の準備を続ける。

「一人で入る」とカイルは言った。

「案内人は必要」とソムナ。

「母との場面へ、他人を入れたくない」

「私は場面の外へいる」

「見える?」

「あなたが見せる範囲」

「聞こえる?」

「同じ」

「記録」

「セレナは時刻と身体反応。内容はあなたが許した部分だけ」

「なら、来い」

 歯車灯籠へ、二人の指が触れる。

 雨。

 最初に、音がある。

 屋根を打つ雨。

 太い排水管を流れる水。

 遠くの雷。

 旧雨樋工房。

 石床。

 低い天井。

 銅管。

 四室減圧機。

 六歳のカイルが、作業台の下へいる。

 赤金の髪は短い。

 白い訓練服。

 背中が焼け、布が裂けている。

 泣いていない。

 泣かないことを褒められる前の子供が、泣く方法を忘れた顔をしている。

 現在のカイルは、作業台の外に立つ。

「これが私」

「夢像」とソムナ。「今のあなたとは別」

「分かっている」

 機関技師が動く。

 顔は曖昧。

 四室減圧機を操作する。

 カン。

 カン。

 六歳のカイルが身体を縮める。

 三つ目のカンは、雨と雷へ埋もれる。

 フウ。

 排気。

 誰かの手が、子供の頭へ伸びる。

 白い袖。

 指先に火傷冷却蝋。

 苺香。

 母。

 顔は見えない。

 手が、左耳を塞ぐ。

 違う。

 抱き寄せた腕で、右耳が母の胸へ押し当てられ、左耳だけが工房へ向いている。

 聞こえ方が変わる。

「三つ目を、母の身体で聞き落とした」とカイル。

 ソムナは答えない。

 解釈を先に固定しない。

 母のもう一方の手が、金属容器を作業台へ置く。

 カン。

 最後の音。

 機械ではない。

 苺香解熱液の金属蓋。

 六歳のカイルは、四つの音を一つの機械だと思った。

 カン。

 カン。

 フウ。

 カン。

 不正確。

 だから、その子供の聞いたまま。

「母の手」

 現在のカイルが呟く。

「音と匂いは合った」とソムナ。

「中間は」

 夢の景色が白くなる。

 六歳のカイルが母の腕から離れた後。

 苺香の金属容器が置かれた後。

 白い空白。

 工房の床だけが続く。

「切られている」とソムナ。

「何を話した」

「分からない」

「周囲の音から」

「作らない」

「口の形」

「見えない」

「母の手」

「欠けてる」

 カイルが空白へ踏み込む。

 足が床へ沈む。

「止まって」

「ここにある」

「ない場所へ、身体を置かないで」

「夢だ」

「夢でも、欠けた場所は出口にならない」

「怪盗は通った」

「断片を持ってるから」

 白い空白の向こう。

 六歳のカイルが、床へ座っている。

 母の膝へ頭を預けている。

 始まりと終わり。

 間に、何か。

 現在のカイルは空白へ手を伸ばす。

 母の声が、欠けた向こうから漏れる。

『――ならないで』

 前半がない。

 王子にならないで。

 弱くならないで。

 私のようにならないで。

 そんなことを言わないで。

 意味は、前半で逆になる。

「つなげられる?」カイル。

「今ある声だけなら」

「どれかを推測」

「しない」

「私は、何を言われた」

「怪盗が持ってる」

「分かっている!」

 声が工房へ響く。

 六歳のカイルは、反応しない。

 夢像。

「母の声が一部ある。口の形は見えない。私の次の姿勢。機械の時刻。推測できる」

「推測はできる」

「なら」

「あなたが一番聞きたい文へ寄る」

「分かっている」

「今のあなたは、港の厨房へ残りたい。母に王子を休めと言ってほしい。私が空白を埋めれば、その願いを原本にできる」

「原本にするな」

「だから、しない」

 ソムナの返事は一拍遅い。

 遅いが、揺れない。

 カイルは空白から手を引く。

「持ち帰る」

「欠けたまま?」

「欠けたまま」

「怖くない?」

「怖い」

「それでも」

「間違いを直さないと決めた。空白を答えで埋めないことも同じだ」

 ソムナは、白い空白へ橙の縁を付ける。

『未返却』

『欠損』

『推測追加禁止』

 美しくない表示。

 だから必要。

 夢から出る。

 カイルは覚醒側で、最初に食事を取る。

 メイの命令ではない。

 自分で豆パンを一つ選ぶ。

「味」とメイ。

「紙」

「具体的に」

「乾いている。塩が少ない。中の豆は温い」

「吐き気」

「ない」

「眠気」

「ある」

「今、寝る?」

 右手首の星痕を見る。

 夢断片と接触した後、赤い光は弱い。

「五分」

「管理下で」

「分かった」

「盾が出たら」

「退出」

「原本へ戻せと言っても」

「どの版か確認」

 カイルは低い寝台へ横になる。

 天蓋はない。

 左右に出口。

 ハルが近くへ座る。

「見張り?」

「同伴」

「アサの真似か」

「便利だった」

「寝たら」

「名前呼ぶ」

「王子じゃなく」

「カイル」

「母の声で起こすな」

「できない」

「正しい」

 カイルは目を閉じる。

 苺の匂い。

 機械音。

 カン。

 カン。

 フウ。

 カン。

 今度は、最後が何の音か分かる。

 母が置いた金属容器。

 音の正体が分かっても、会話は戻らない。

 不完全なまま、彼は眠りへ落ちる。

 王盾の星痕が光る。

 一枚。

 二枚。

 ハルは立ち上がらない。

 名前を呼ぶ。

「カイル。市場の救護室。俺がいる」

 炎が薄くなる。

 三枚目は開かない。

 カイルは、七分眠った。

 三日で初めて、途中で自分から目を開けるまで。

「夢は」とハル。

「工房」

「母」

「顔はない」

「会話」

「ない」

「平気?」

「平気ではない」

「食べ物で言うと」

「苺大福三個」

「増えた」

「眠った分、正確になった」

 冗談に、目が少し追いつく。

 七分では不眠は治らない。

 判断力も戻らない。

 現実の責任も減らない。

 それでも、眠れた。

 市場の中央で、緊急審査が開かれる。

 カイルは、現在の同意書を提出する。

「六歳時の後見人同意を、現在の本人同意へ更新する」とセレナ。

 札守の老女が、値札眼鏡を上げる。

「原本が特定されていない」

「特定手順への同意」とカイル。「三版の閲覧、比較、原本返却。編集版は別商品として本人審査。再販売禁止」

「夜市契約では、後見人の売買許可が永続」

「未成年の夢の売買許可を、成人後も撤回できない?」

「当時の契約」

「今、撤回する」

「市場法は」

「法へ異議を出す。先に商品停止」

「停止権限」

「身体危険。王家防衛誓術の暴走が市場を含む」

 カイルの右手首が赤く光る。

 脅しではない。

 実際に起きている危険。

「王子の盾で市場を止める?」札守。

「止めない。危険を公開した。続けるなら、市場が引き受ける範囲を書け」

 王権で命じない。

 費用と責任を見せる。

 買い手たちがざわめく。

 市場は、匿名の危険を好む。

 責任が金額へ変えられる限り。

 王盾の暴走。

 参加者の身体損害。

 夢灯網への過負荷。

 補償。

 値段が、利益を上回り始める。

「競売一時停止」と札守。

 槌が下りる。

 初めて、三つの夢の値段が止まった。

 その瞬間。

 市場の上空に、黒い帆船が現れる。

 停止した夢貨物線の先。

 旧雨樋工房の夢航路。

 白い仮面の怪盗が、船首へ立つ。

『本人同意を得た原本を、お返ししましょう』

 片手に、欠けた夢の断片。

 もう片手に、切り分けた来歴札。

「返す?」ハル。

『取りに来られるなら』

「条件」とセレナ。

『夢市場の海で、原本を選ぶこと』

「もう選び始めている」とカイル。

『いいえ。あなたは、正しい分類を作っただけだ。港の人生も残す。家族の食卓も残す。欠けた工房も残す。何も捨てない』

「捨てる必要があるか」

『原本は一つ。王子も一つ。人生も一つ』

「その定義を、誰が決めた」

『市場』

「なら変える」

『船へ来い。王子でない夢を抱えたまま、王子の原本を取り戻せるか見せてください』

 怪盗が手を開く。

 欠けた夢の断片が、黒い帆へ縫い込まれる。

 帆船が旋回する。

 旧雨樋工房。

 港厨房。

 白い食卓。

 数え切れない航海夢。

 夢の風が集まる。

「出航する!」ロロ。

 夢のゼロスター号が、黒い海へ降りた。

 片帆。

 傷。

 生活痕。

 客員席。

 カイルが乗ろうとする。

 メイが腕を掴む。

「身体」

「七分寝た」

「七分を完治と呼ばない」

「原本が逃げる」

「役割を分ける。夢側へ入る時間、十五分ごとに退出確認。現実側で栄養と水。盾の痛み返しは、船全体へ申告」

「王子の追跡だぞ」

「患者の追跡」

「患者では」

「三日で三時間と七分」

「数字が細かい」

「身体は細かい」

 カイルは同意する。

 ソムナが白い自動緩和札を外す。

 代わりに、場面停止札を二人で持つ。

 片方をカイル。

 片方をソムナ。

「一人では使えない?」ハル。

「どちらかが止められる」とソムナ。「再開は両方」

「不便」

「だから、勝手に直せない」

 カイルがソムナを見る。

「案内人」

「王子」

「呼び方を訂正しないのか」

「今は、役割も持って行くから」

「王子でない私も」

「置いていかない」

 夢のゼロスター号が浮く。

 黒い海賊船は、来歴札を帆へ変え、夜市の夢空へ逃げる。

 最後に、白い仮面が言った。

『原本を欲しがる者は、必ず原本を直す』

 カイルは右籠手を左拳で二度叩く。

「私は、直さない」

『母の言葉が、望みと違っても?』

 返事は一文。

「それでも、私の記憶だ」

 夢船の片帆が開いた。