第569話 第九章「海賊船の夢」前編
夢の海には、岸がない。
これは比喩ではない。
岸というものは、帰る場所を必要とする。夢はしばしば帰る場所を持たず、目覚めた者の口からこぼれ、忘れられ、誰かに買われ、別の頭の中で別の意味を持つ。
ゆえに、夢の航海者が最初に発明したのは船ではなかった。
岸である。
自分の名前。
眠った場所。
目覚めた時刻。
隣にいた人。
空腹。
痛み。
借金。
明日の約束。
そうした現実の重しを、彼らは夢の海へ投げた。重しが沈んだ場所を港と呼び、重しと重しを結ぶ欲望を航路と呼んだ。
海賊が生まれたのは、その翌日である。
人間は道を作れば料金を取り、料金を取れば抜け道を探し、抜け道を探せばそこへ旗を立てる。文明とは、だいたいその程度には律儀だった。
夢のゼロスター号は、黒い海へ落ちた。
着水音はない。
海が水ではなく、眠り損ねた記憶の膜だからだ。
片帆が開く。
補修布。
焦げ跡。
ロロが勝手に増やした工具棚。
エリアが船室へ貼った撤退図。
カイルが隠していた保存食。
ノクスがさらにその保存食を隠した場所。
誰も座っていない客員席。
どれも船の性能には関係がない。
だから、船を船にしていた。
「現実側、帆角三十二度。夢側、風向なし!」
ロロの声が二重に響く。
一つは夢の甲板。
一つは夜市の係留棟に停めた現実のゼロスター号。
夢の船が急に傾く。
「風向なしで、なぜ傾く!」カイル。
「風がないからだよ! 夢の帆は、風じゃなくて行きたい方角を受けるんだ!」
「全員の行きたい方向が違う?」
「その結論を、王子が最初に言う?」
エリアが夢路図〈スリープ・チャート〉を甲板へ広げる。
銀の線が六本、ばらばらに伸びている。
カイルの線は黒い帆船へ。
ソムナの線は旧雨樋工房の欠損部へ。
ロロの線は夢船の機関室へ。
エリアの線は海全体を把握できる高所へ。
ハルの線は、黒い帆船と、どこにもつながらない薄い灰色の影へ二股に割れている。
ノクスの線は、保存食庫へ向かっていた。
「お前だけ平和だな」
ハルが言う。
「キュ」
「否定した?」
「食料の安全確認だと思う」とエリア。
「盗難の事前確認だ」とカイル。
「夢の中で食べても現実の腹は膨れないよ」とロロ。
ノクスは、一拍考えた。
それから保存食庫へ走った。
「説明が逆効果!」
「現在地を返して」とエリア。
全員が自分の名前と状態を言う。
「ハル。夢側前甲板。左肩、痛み二。足裏感覚あり」
「エリア。夢側中央。呼吸安定。踵、痛み一」
「ロロ。夢側と現実側を交互。右眼の像ずれ軽度。喘鳴なし」
「カイル。夢側右舷。眠気あり。吐き気なし。右手首、星痕一枚」
「ソムナ。夢側操舵。現実記憶、確認」
彼は左袖を探る。
「苦い種、二粒」
「入れたのは三粒」とメイの声が現実側から届く。
「一粒、さっき噛んだ」
「味」
「苦い」
「よし」
「アサ。出口側。今は誰も止めていない」
「セレナ。現実側記録。夢内容は許可範囲のみ」
「メイ。身体監視。十五分で全員いったん退出」
「ノクス」
「キュ」
「保存食庫」とハル。
甲板の奥から、木箱を引きずる音がした。
「現在地の申告としては正確」とセレナ。
黒い帆船は、三つ先の夢波を越えている。
帆に縫い込まれた来歴札が、白い鳥の群れのようにめくれた。
所有者。
記録時刻。
編集者。
同意者。
販売範囲。
撤回条件。
関係を示す札が、船を進めている。
「夢そのものより、来歴の方が風を受けるのか」とハル。
「誰の夢か分からなくなった夢は、どこへでも運べる」とソムナ。
「どこへでも行けるなら、便利だ」
「帰れない」
「不便だ」
「便利と不便が同じ顔で並ぶのが市場だ」とカイル。「契約も同じだ。誰にでも売れるようにすれば、誰のものでもなくなる」
「王家の紋章みたいだね」とロロ。
「今、船から落とすぞ」
「夢の海でも溺れる?」
「王家の名誉が先に沈む」
「軽いから浮くんじゃない?」
「お前の修理費よりは重い」
「それは比較対象が重すぎる!」
言葉が飛ぶ。
船も飛ぶ。
夢の海を走るのは、水を切ることではなかった。
誰かが一度でも「ここから、あそこへ行きたい」と願った、その願いの勾配を滑ることである。
黒い海に、最初の航路が浮かぶ。
学院の回転外壁。
壁そのものではない。
誰かが落第門を抜けたいと願った、上向きの焦りだけが、海面から垂直に立ち上がる。
黒い帆船は垂直の航路へ乗った。
空へ登る。
「追う!」ハル。
「そのままじゃ、船体が持たない!」ロロ。
「夢の船だろ!」
「夢の船だから、持たないって思ったら持たない!」
「思わなければ?」
「皆が同時に思わないと無理!」
「全員、船は持つと思え!」
「命令が雑!」エリア。
「雑でも早い!」
「早い誤りは、遅い正解より遠くへ行く!」
「今は遠くへ行きたい!」
「相手と同じ方向ならね!」
エリアが路図へ槍先を突き立てる。
銀線が一つへ編まれる。
「壁を登るんじゃない。壁を抜けた後の安心へ乗る!」
ゼロスター号が舳先を返す。
垂直の壁を追わず、その向こう側へ生まれた薄い下降流へ滑り込む。
夢の世界では、途中を省ける。
省いた途中は、たいてい後から利子を取りに来る。
船底へ衝撃。
全員の膝が折れる。
「何だ!」
「落第した夢!」ソムナ。「壁を越えられなかった願いが、下に溜まってる!」
黒い海から、白い受験票の手が伸びる。
船腹を掴む。
合格した者の道は細い。
落ちた者の道は、底へ山ほど積もる。
歴史とは勝者の記録である、と言う。
だが、都市を実際に支えているのは、記録されなかった不合格者、採用されなかった設計、選ばれなかった道の方だったりする。採用案が一つなら、不採用案は百ある。夢の海では、その百が沈殿する。
「切るな!」エリア。
ハルが剣へ手を伸ばす前に、彼女が叫ぶ。
「手は、失敗した人のもの。敵じゃない」
「ではどうする」
「返す」
「何を」
「現在地」
エリアは路図を海へ向ける。
「ここは落第門の下じゃない。夜市の夢海。あなたたちの試験は終わっている」
手が止まる。
試験が終わっている。
その一文を、誰も夢へ返さなかったのだ。
白い手は、ゆっくり船から離れた。
ゼロスター号は下降流を抜ける。
十五分の鐘が鳴った。
「退出」とメイ。
「追いついていない」とカイル。
「身体は命令を待たない」
「怪盗も待たない」
「怪盗の身体も待つ。夢だけ先へ行く」
「原本が」
「あなたが倒れたら、原本を取り戻す同意者がいなくなる」
カイルが歯を噛む。
「停止札」とソムナ。
二人が同時に白札へ触れる。
夢の風が止まった。
黒い帆船だけが遠ざかる。
「止めれば逃げる」とカイル。
「止めなければ、あなたが逃げる」とハル。
「どこへ」
「身体から」
カイルは反論しない。
それが、一番腹立たしい正論だったからだ。
現実へ戻る。
夜市の係留棟。
夢のゼロスター号と同じ位置へ、現実の船が固定されている。
夢帆が力を受けるたび、現実の帆骨も震える。夢だけを走っているつもりでも、眠る身体は筋肉を緊張させ、現実の船はその緊張を荷重として受け取る。
ロロが四本の補助腕で帆索を緩める。
「右二番、熱い! 夢側で壁を抜けた時、現実側の帆骨がねじれた!」
「夢で省略した途中の利子」とエリア。
「利率、高すぎない?」
「市場だから」とカイル。
「市場を便利な悪口に使うのやめようよ!」
メイがカイルの瞳孔を見る。
「水」
「いらない」
「回答不採用」
「選択権は」
「水か薄い果汁」
「それは選択ではない」
「医療上の選択肢」
「苺」
「ない」
「では水」
「最初から水しかない」
「選んだ」
カイルは水を飲む。
ハルは肩を回す。
左肩の奥に、鈍い熱。
「二から三」とメイ。
「動く」
「動けると、動かすべきは別」
「次、乗り移る」
「左手で掴み続けない」
「右で剣」
「剣を持たない」
「丸腰で海賊船へ?」
「夢の中の剣は、身体の握力を借りる。肩を守るなら、足と縄」
「縄は誰の担当だよ」
ノクスが、現実の保存食箱から顔を出す。
口に干し魚。
「お前の担当だったのか」
「キュ」
「返せ」
ノクスは飲み込んだ。
「返却不能」とセレナ。
「証拠隠滅」とカイル。
「胃袋は保管庫」とロロ。
「没収するぞ」
「王家が狐の胃を接収するの?」
「歴史上、もっと愚かな接収はある」
カイルは干し魚を一本取り、自分で食べる。
冗談のためではない。
身体を戻すため。
セレナが記録板を示す。
「黒船の進路を解析した。航路は七つ。学院外壁、翼鯨の背市、旧軍列車、走る森、鏡砂門、雷鎖線、夢灯市街」
「私たちが通った場所」とハル。
「正確には、その場所を通った誰かの夢」とセレナ。「市場に売却された旅夢をつないでいる」
「つまり、怪盗自身は行っていない」とエリア。
「行ったふりができる」とソムナ。
「来歴札を外せば、他人の旅が自分の航路になる」
「観光業としては効率的だな」とカイル。
「犯罪の説明に感心しないで」
「制度は悪用例が一番よく設計を見せる」
これは王子の言葉だった。
王子でない港の料理人なら、たぶん「人の台所へ勝手に入るな」と言っただろう。
どちらも、カイルである。
「次の進路」とセレナ。「登録されていない灰色航路が一つ。黒船は避けた。ハルの夢線だけが反応している」
ハルの胸が、一度だけ強く鳴る。
「どこへ」
「不明」
「匂い」とノクスを見る。
夢から戻った狐は、鼻先を舐める。
「キュウ」
「夢の匂いは混ざる」とソムナ。「真実の匂いにはならない」
「でも、知っている匂いかは?」
ノクスはハルへ近づく。
靴。
裾。
右手。
鼻を鳴らす。
それから、床へ伏せた。
「分からない?」
「追いたくない、かもしれない」とアサ。
「狐の沈黙を都合よく訳すな」とカイル。
「都合よく訳さない。選択肢を残した」
ハルは、灰色航路を思う。
夢の海に、どこにも登録されていない道。
その向こうに、背中が見えた気がした。
誰のものか分からない。
見たいと願ったから見えただけかもしれない。
父。
その一文字は、呼べば返事が来る言葉ではなくなって久しかった。
「次、灰色へ近づく」とハル。
「追跡目標は黒船」とセレナ。
「黒船が避けた道なら、近道かもしれない」
「別の目標がある?」エリア。
問われて、ハルは答えに詰まる。
言えば、航路になる。
父かもしれない影を見た。
その願いを船全体の進路へしていいのか。
「ある」と答えた。
「何」
「分からない」
「分からないものを追う?」
「いつもそうだろ」
「そうだけど、今回は言葉にして。誰の危険か分からない」
「俺の」
「誰の利益」
「俺の」
「原本を取り戻す追跡と衝突したら」
ハルは、カイルを見る。
カイルは急かさない。
それがまた、答えを難しくする。
「カイルを優先する」
「即答に見せて、一拍遅れた」とカイル。
「数えるな」
「数えなければ、見落とす」
「見落としたくないんだよ」
声が強くなる。
係留棟の空気が止まる。
ハルは息を吐く。
「灰色の道に、父さんに似た背中がいた」
誰も「本物だ」と言わない。
誰も「幻だ」とも言わない。
「顔は」とセレナ。
「見てない」
「声」
「聞いてない」
「匂い」
「雨と……油。古い木。家の台所に似てた」
「観測だけ記録する」とセレナ。「人物同定はしない」
「行きたい?」アサ。
「行きたい」
「今?」
「今でなければ、消えるかもしれない」
「原本も」とソムナ。
「分かってる」
「選べと言ってない」とエリア。「衝突条件を決めたい」
彼女は二本の線を路図へ描く。
「灰色航路が黒船へ合流するなら使う。離れるなら追わない。影がこちらへ合図しても、顔や身元を確認するために停船しない。記録だけ取る」
「冷たいな」
「帰るための地図は、行かない道も書く」
「では、そうする」
ハルは自分で答えた。
父に似た影を、今は追わない。
決めた瞬間、胸の奥に痛みが出る。
正しい選択は、痛くない選択ではない。