第570話 第九章「海賊船の夢」後編
再び、夢へ入る。
停止札を、カイルとソムナが同時に外す。
夢のゼロスター号が動く。
黒い帆船は、今度は翼鯨の背を走っていた。
夜の海から巨大な鯨背が持ち上がる。
市場の建物。
噴気孔。
雷雲。
だが、これは過去の再現ではない。
誰かが「あの時、助けが間に合わなかった」と繰り返し見た夢だけが、地形になっている。
噴気孔は無数に増え、どれも救援を呼ぶ。
「全部へ行けば追いつけない」とハル。
「一つだけ選べば、選ばれなかった声が船を引く」とエリア。
「選ばない道は?」
「救難済みの印を返す」
セレナが現実側から、過去の公開記録を読む。
『背市カンティレーナ、当該事故。輸送艇十四。救出十四。死亡零』
夢の噴気孔が一つずつ閉じる。
記録は慰めではない。
だが、救われたことを知らない夢へ、事実を返すことはできる。
最後の噴気孔から、黒船が飛び出す。
帆へ新しい札が増えている。
旅夢。
病室から見た空。
結婚式へ間に合わなかった列車。
故郷へ帰らないと決めた夜。
子供が初めて一人で渡った橋。
他人の「行きたい」が、海賊船の速度になる。
「速すぎる!」ロロ。
「向こうは千人分の航路!」エリア。
「こっちは何人!」
「六人と一匹!」
「数で負けてる!」
「願いの量なら負けてない」とハル。
「計測不能な値を戦力表へ入れないで!」
黒船が来歴札を一枚、海へ落とす。
札が裏返る。
そこから旧軍列車が生える。
線路ではない。
車両そのものが夢海を横切り、ゼロスター号へ衝突する。
「右へ!」
「右は鏡門!」
「左!」
「左は走る森!」
「上!」
「夢に上はない!」
「今作れ!」
ロロが夢機関へ工具を突き込む。
現実側で、帆骨が悲鳴を上げる。
「上、作った!」
船底から、四本の補助腕が伸びる。
「船に腕を生やすな!」カイル。
「ぼくの船だよ!」
「所有権を主張する場所を選べ!」
四本の腕が、夢列車の屋根を掴む。
ゼロスター号は、衝突する代わりに列車へ乗り上げた。
列車は走る。
夢の線路は、停車したい人と、止まりたくない人の間を引き裂く。
窓の中に、イヴァがいる。
彼女ではない。
誰かが見た彼女の夢像。
一人で全てのレバーを握り、列車を動かし続ける。
「偽物」とハル。
「本人の一面」とエリア。「偽物だから無害ではない」
夢像のイヴァが叫ぶ。
『止まれば死ぬ!』
同時に、別の窓から乗務員たちが叫ぶ。
『止めなければ、私たちが死ぬ!』
ゼロスター号の帆が両側から引かれる。
進め。
止まれ。
同じ線路で、正反対の命令。
「どっち!」ロロ。
「停車条件を分ける!」エリア。
「誰が!」
現実側から、イヴァ本人の声が入る。
『私は、運転席から離れる』
夜市へ来たわけではない。
遠隔通信。
雷鎖環ガルドの公共救難線から。
『本日の私の勤務は終了。後任はメラ。停止判断は各区間乗務員。中央は拒否しない』
夢像のイヴァが、レバーから手を離す。
窓ごとに、別々の停車灯が点く。
列車は一台のまま、命令だけが分かれた。
ゼロスター号は屋根を蹴り、黒船へ距離を詰める。
「本人の現在が、古い夢像を書き換えた?」ハル。
「書き換えてない」とソムナ。「今の声を、別の層へ重ねた。古い夢像は残ってる」
「違いが見えない」
「直したことにしないのが違い」
ソムナが額を押さえる。
「記憶確認」とメイ。
「朝、靴を……どちらから履いた」
「答えを求めてない。失ったものを申告」
「右からか左からか、分からない」
「もともと覚えてない可能性」
「それと、アサへ何を頼んだか」
「出口札を三枚用意して、と頼まれた」とアサ。
「私は、頼んだことを覚えてない」
「一回目の縫合費用」とメイ。「記録」
「夢を縫った?」カイル。
「イヴァの現在声を、列車夢へ一時接続した」
「先に言え」
「言う時間が」
「費用を言わず使うな」
カイルの声は厳しい。
原本を取り戻す追跡の途中でも、その原則を曲げない。
「次から、先に言う」とソムナ。
「次が間に合わなければ」
「使わない」
「それで誰かが落ちても?」
ソムナが言葉を失う。
カイルも、答えを持っていない。
原則は、危機で試される。
危機で捨てるなら、原則ではなく飾りだったことになる。
「止める余裕を作るのが、私たちの役割」とエリア。
「余裕がない時は」とハル。
「一人で決めない」
アサが出口札を掲げる。
「今、十五分。退出できる」
「黒船が近い」とロロ。
「近いから、今止まれる」とアサ。
カイルとソムナが停止札へ触れる。
夢が止まる。
黒船まで、船三隻分。
悔しい距離。
だからこそ、戻る。
二度目の退出。
カイルは吐いた。
食べた豆パンの半分。
水。
苺の匂いはない。
メイが背を支える。
「夢酔い。次は十分快復」
「三分」
「交渉の余地なし」
「王命」
「医療拒否権」
「それは誰の権限だ」
「患者の身体」
「私が患者なら、私の権限では」
「判断力低下中の一時停止条件へ、あなたが署名した」
カイルは自分の署名を睨む。
「過去の私が敵になる」
「七分前のあなた」
「最も身近な政敵だ」
ハルは甲板へ出る。
現実の夜市は、夢の海より暗い。
市場の天井に、眠る客たちの灯籠が浮く。
それぞれの中に、小さな景色。
ハルの視界の端で、灰色の航路が現れる。
夢ではない。
夢帆を介して、現実の帆布へ薄い影が映っている。
一人の男。
背中だけ。
黒くも白くもない上着。
肩へ工具袋。
左足を少し引く歩き方。
ハルの父が、疲れた時にそう歩いた。
「父さん」
影は振り向かない。
帆の向こうへ歩く。
呼べば、航路になる。
追えば、船全体を連れていく。
ハルは帆へ手を伸ばす。
左肩が痛む。
痛みが現実を返す。
「ハル」
エリアが後ろにいる。
「見える?」
「背中だけ」
「私には、灰色の揺れ」
「追いたい」
「うん」
「止めろよ」
「止めてほしい?」
「分からない」
「なら、止めない。条件を返す」
「黒船へ合流する道なら使う。離れたら追わない」
「自分で言えた」
「子供扱いするな」
「子供扱いじゃない。選択を本人へ返した」
影が、帆の端へ近づく。
一度だけ、右手を上げた。
合図か。
別れか。
工具を避けただけか。
同定できない。
ハルは、返事をしなかった。
灰色の影が帆から消える。
胸の内側へ、空白が残る。
しかし、空白は進路ではない。
「記録して」とハル。
「観測だけ」とエリア。
「父とは書くな」
「書かない」
「逃したとも」
「書かない」
「俺が追わなかった、と書いて」
エリアは、路図の端へ一行を書く。
『灰色航路。黒船と非合流。ハルは追跡を選ばず。人物未同定』
未同定。
冷たい言葉。
だが、勝手な希望で父を作らないための優しさでもある。
三度目の入夢。
黒船は、走る森と鏡砂門の間へ入っていた。
樹冠が海面を走る。
千枚の扉が空中で開閉する。
どの扉にも、別の黒船が映る。
「本体は!」ハル。
「全部、現在像!」エリア。
「偽物は?」
「鏡は偽物を作ってない。角度ごとに正しい」
「正しい敵が多すぎる!」
「正しさは数を減らさない!」
黒船が七つに分かれる。
来歴札の違う同じ夢。
所有者が違えば、同じ内容でも別商品になる。
編集者が違えば、同じ記憶でも別版になる。
同意範囲が違えば、同じ人でも別の出口を必要とする。
「どれを追う」とカイル。
「原本の欠片を持つ船」とソムナ。
「見分けられる?」
「匂いは混ざる。音も写る。来歴札だけ」
「来歴札は向こうの帆だ」とハル。
「帆を読む」
セレナが現実側から、鏡像の札列を読み上げる。
『一番船。所有者欄、王家。時刻欄、空白。編集者、二名』
『二番船。所有者欄、カイル。時刻、三日前。編集者、なし』
『三番船。所有者欄、夜市。時刻、十四年前。編集者、技術補正室』
『四番船――』
「三」とカイル。
「理由」とセレナ。
「十四年前と技術補正」
「所有者は夜市」
「だから盗られた」
「原本とは未確定」
「だが、欠片の出所に最も近い」
「追跡根拠、記録」
エリアが三番船へ航路を引く。
だが、鏡門の配置は毎拍変わる。
船が進むたび、正しい位置が変わる。
「地図が遅れる!」ロロ。
「地図を現在に合わせない」とエリア。
「何へ合わせるの!」
「次に門が開く条件」
「未来予測?」
「違う。門の選び方を読む」
鏡門は、見る者が最も「本物だ」と信じた像へ開く。
黒船は原本らしい札を三番へ付け、追跡者の確信を利用している。
「三番も囮か」とハル。
「内容ではなく、私たちの判断を航路にしている」とエリア。
「では、どれも追わない」
カイルが言う。
「欠片が逃げる」とソムナ。
「怪盗は、私が原本を一つ選ぶと思っている」
「実際、選ぶ必要はある」
「原本を選ぶ。船は選ばない」
「意味が分からない」
「黒船がどれでも、怪盗は一人だ」
「夢では一人とは限らない」とソムナ。
「なら、返却権限を持つ者」
カイルが右手を上げる。
王盾の星痕が一枚だけ開く。
攻撃ではない。
問いを宣言する。
「私の夢を返す権限を持つ者へ、返却先を通知する。現在の本人、カイル・アークレイ。全編集版の保全を求める。原本断片の改変を拒否する。来歴札の分離を求める」
七隻の黒船のうち、六隻は何も起こらない。
四番船だけ、帆の札が震えた。
「四番!」セレナ。
「さっき、何の札だった!」
『所有者欄、未成年後見契約。時刻、十四年前。編集者欄、複数。返却先、王家夢庫』
「本人名がない」とエリア。
「だから、本人通知へ反応した」とカイル。
ゼロスター号が四番船へ向く。
鏡門が閉じる。
「間に合わない!」ロロ。
「灰色航路」とハル。
「黒船と非合流だった」とエリア。
「影は非合流。でも道自体は、鏡門の裏へ続いていた」
「確証」
「足で覚えた」
「夢の道を?」
「現実の帆に出た時、左肩が痛んだ。あの影は帆の向こうへ歩いた。帆裏は、鏡門の反射角と同じ方向だ」
「身体記憶を根拠にする?」
「俺の得意分野だ」
「誤差」
「大きい」
「危険」
「高い」
「代替」
「ない」
「採用」
エリアが灰色線を路図へ重ねる。
人物を追う道ではない。
帆の裏へ抜ける角度だけを借りる。
ハルは父に似た影を、証拠にもしない。
だが、影を見た時の身体反応は、現在の航海へ使う。
過去を取り戻せなくても、過去に動かされた自分の足は、今を走れる。
「全員、中央へ!」ロロ。
ゼロスター号が片帆を畳む。
鏡門が閉じる寸前、帆の裏側へ滑り込む。
世界が一度、薄くなる。
黒い海も。
走る森も。
千枚の鏡も。
すべてが紙一枚の裏へ回る。
そこには、航路のない空間があった。
誰も旅として売らなかった途中。
誰も思い出したくなかった待ち時間。
事故の後、知らせを待つ廊下。
別れを言えず、立ち尽くした駅。
手術室の前。
返事のない家の戸口。
夢市場は目的地を売る。
途中は売れない。
だから、怪盗も使わない。
「速度が落ちる」とロロ。
「誰の願いもないから」とソムナ。
「願いがないなら、作る」とハル。
「何を願う」
「追いつく」
「単純」
「足りる?」
カイルが答える。
「私もだ」
エリア。
ロロ。
ソムナ。
一人ずつ、言う。
「追いつく」
「追いつく」
「追いつく」
ノクスは、甲板の先で鳴く。
「キュウ!」
灰色の途中に、細い航路が生まれる。
今ここで、初めて作られた道。
ゼロスター号が加速する。
紙一枚の裏を抜け、鏡門の向こうへ出る。
黒船は目の前。
船三隻分ではない。
舳先と船尾が、触れそうな距離。
白い仮面が振り向く。
『登録されていない航路を、どうやって』
「今、作った」とハル。
『誰の夢を盗んだ』
「盗んでない」
エリアが路図を掲げる。
「全員で、今、選んだ」
黒船が帆を返す。
来歴札が刃のように飛ぶ。
「伏せろ!」
ハルが甲板を蹴る。
左手は使わない。
右手にも剣はない。
ロロが夢索を射出する。
ハルは足首へ巻く。
「縄使いじゃないぞ、俺は!」
「今から兼業!」
「給料!」
「修理費と相殺!」
「それは給料じゃない!」
夢索が、黒船の後檣へ絡む。
ハルは両船の間へ飛ぶ。
足から。
肩を庇い、身体を横へ捻る。
来歴札の刃が頬を切る。
血は出ない。
代わりに、知らない誰かの夢が一瞬流れ込む。
雨の日の結婚式。
白い靴。
来なかった花婿。
それでも自分で扉を開けた手。
ハルは、その夢を掴まない。
「返す!」
札を黒船の帆へ蹴り戻す。
夢を奪い返すのではない。
誰のものかを、勝手に自分へしない。
黒船の船尾へ着地。
白い仮面まで、十歩。
背後で、ゼロスター号が夢索を張る。
「乗り移り成功!」ロロ。
「成功判定は帰還後!」セレナ。
「今くらい喜ばせて!」
「現在記録。乗り移り暫定成功」
「暫定でも嬉しい!」
白い仮面が、欠けた工房夢を掲げる。
『原本へ来い、王子』
カイルがゼロスター号の舳先へ立つ。
「命令するな。返却先を確認しろ」
『では、本人へ。取りに来い』
黒船の甲板が開く。
下に、旧雨樋工房。
雨。
機械。
苺の匂い。
白い空白。
怪盗は、夢の中へ沈む。
ハルが追おうとする。
「待って」とソムナ。
「逃げる!」
「原本の中は、カイルの身体条件が優先。全員で入れば圧になる」
「では誰が」
「カイルと私。ハルは船を止める。ロロは現実側の発信機を探す。エリアは出口。セレナは来歴札」
「分けるのか」
「一つの事件を、一人の解決へしない」
黒船の帆が膨らむ。
夜市全体の夢貨物線が、船へ集まっている。
時間がない。
だが、時間がない時に役割を混ぜれば、速く失敗する。
「分かった」とハル。
カイルが夢索を渡る。
足元の海は黒い。
右手首の星痕は、一枚。
「止める条件」とソムナ。
「身体危険で場面停止。再開は両方」
「原本の内容」
「修正しない」
「母の言葉」
「聞く」
「聞きたくなくなったら」
「止める」
「誰が決める」
「私」
「私も止められる」
「勝手に治すな」
「勝手に進めない」
二人が、同じ白札を持つ。
旧雨樋工房へ降りる。
ハルは黒船の舵へ走る。
ロロは甲板を叩く。
「現実側の発信機、位置が動いてる! この船の動きと同期!」
「夢船にあるのか」とハル。
「夢側の位置を、現実の市場設備が追ってる。止めるには両方!」
「また面倒を二つへ分けたな」
「面倒は元から二つ! 一つに見せると事故になる!」
エリアが路図を広げる。
黒船の前方。
航路が、急に途切れている。
「この先、海がない」
「岸?」
「違う」
「では」
「売られていない夢が尽きる」
黒船は、他人の夢を燃料に走っていた。
夢が尽きれば止まる。
問題は、止まり方だった。
船尾の来歴札が一斉に燃え始める。
白い火。
熱はない。
だが、札に結ばれた関係が消えていく。
「証拠を燃やしてる!」セレナ。
「怪盗を止める!」ハル。
「証拠も!」
「両方!」
「本人たちの夢も!」ソムナの声が工房の底から響く。
三つではない。
千の夢。
千の来歴。
千の身体。
黒船が、売られていない海の端へ突っ込む。
夢のゼロスター号が、後ろから食らいつく。
現実側で、夜市の灯籠が一斉に鳴った。
残り退出時間。
三分。
ハルは黒船の舵を掴む。
舵は、回すためのものではなかった。
誰か一人の夢を選び、他の夢を切り捨てるための刃だった。
刃の根元に、小さく刻まれている。
『原本は一つ』
「ふざけるな」
ハルは舵を折らない。
折れば、どの夢がどこへ落ちるか分からない。
代わりに、ゼロスター号の夢索を舵へ結ぶ。
「一つにしない」
海賊船と、片帆の船。
二隻が同じ舵を持つ。
船は、売られていない闇へ入った。