第571話 第十章「夢盗みを盗み返す」前編
盗みには、二種類ある。
物を奪う盗み。
関係を奪う盗み。
前者は分かりやすい。昨日まで棚にあった杯が、今日はない。金庫に入れた金が減る。船が消える。国境石が動く。
後者は、物が残る。
杯は棚にある。
金も数えれば同じだけある。
船は港につながれている。
人も、夢も、記録も、目の前にある。
ただし、「誰のものか」「誰が作ったか」「誰へ返すか」だけがなくなっている。
王朝はこの盗みを、しばしば征服と呼んだ。
商人は買収と呼び、役所は移管と呼び、家族は保護と呼び、本人だけが喪失と呼んだ。
名前を変えることは、盗みをなくさない。
盗まれたことを説明しにくくするだけである。
売られていない闇の中で、二隻の夢船がきしんだ。
黒い海賊船。
片帆のゼロスター号。
夢索一本で結ばれ、互いに違う方向へ進もうとしている。
海がないため、波もない。
代わりに、忘れた途中が船腹を擦る。
告白する前に終わった会話。
返事を待つ三日。
手紙を書いて破いた夜。
乗換駅で見送った背中。
扉を叩かなかった一分。
売り物にならない時間は、刃より薄く、泥より重い。
「右舷、沈む!」ロロ。
「水がないのに!」ハル。
「沈むって思う記憶が多い!」
「思うな!」
「船員への命令として最悪!」
黒船の舵へ結んだ夢索が、白く発光する。
舵は一つの原本を選ぼうとし、ゼロスター号は複数の夢を残そうとする。
命令が反対方向へ働いている。
「索が切れる」とエリア。
「切れたら黒船は闇へ落ちる」とハル。
「私たちも」
「落ちた後は」
「出口がない。売られていない途中には、目覚めを望んだ記録がない」
「では切らない」
「夢側だけでは止められない」とロロ。「黒船の動き、現実側の発信器が押してる!」
夜市の夢貨物網。
眠っている客の灯籠。
市場設備。
黒船は夢だけの船ではない。
現実の装置が、「ここへ運べ」「この版を原本にしろ」と航路を送り続けている。
「発信器の位置」とハル。
「移動中。市場の床下軌道」
「俺が現実へ戻る」
「あなた一人じゃ設備を止められない」とロロ。
「お前も」
「夢船が」
「エリアが持つ」
「機関は」
「夢では、持つと思えば持つんだろ」
「機関士が持たないと思ってる!」
「思え!」
「精神論で機械を直すな!」
「今だけは夢論だ!」
ロロの四本の補助腕が、船体へ食い込む。
「現実へ戻ったら、夢側のぼくは止まる。補助腕も」
「先に固定する」とエリア。
彼女が路図を船底へ広げる。
「夢のゼロスター号を、黒船との相対位置へ固定。十拍ごとに更新。私一人では長く持たない」
「何分」
「現実で七分」
「短い」
「七分を短いと思えるのは、切迫している時だけ」
「十分にして」
「七分」
「九」
「七」
「八」
「交渉してる場合?」ハル。
「七分三十秒!」ロロ。
「採用」とエリア。
アサが出口札を二枚掲げる。
「ハル。ロロ。現実側へ戻る。夢側へ戻る条件は?」
「発信器停止、または七分三十秒」とハル。
「身体異常」
「左肩の痛み五、ロロの喘鳴二回」
「止める人」
「俺とロロ、どちらか」
「戻る人」
「二人」
「一人だけ戻れない時」
ハルが一拍詰まる。
「戻れる方が、状況を伝える。戻れない方を置いていかないために、現実側へ救援を呼ぶ」
「『必ず二人で戻る』とは言わない?」
「言わない」
約束が不可能な時、それでも約束するのは美談に見える。
実際には、失敗した時に嘘を一つ増やす。
「出口を開く」とアサ。
紙札が裂ける。
ハルとロロの夢像が止まる。
現実の二人が、夜市の係留棟で目を開けた。
ソムナは黒船の甲板へ立っていた。
自分の夢を持たない彼には、夢の景色が少し違って見える。
他人の夢を「本物の世界」と誤認しにくい。
代わりに、夢の中へ自分の居場所を作れない。
誰かの恐怖へ立てば、足元はその人の恐怖。
誰かの願いへ座れば、椅子はその人の願い。
何も借りなければ、彼は落ちる。
夢葬師とは、他人の眠りへ入る技術者である。
同時に、他人の眠りの中でしか立てない旅人だった。
「案内人」
カイルの声。
黒船の甲板が開いた旧雨樋工房、その縁にいる。
「いる」とソムナ。
「一歩、外へ出た」
ソムナは自分の足を見る。
床がない。
彼の右足だけが、白い空白へ沈みかけている。
カイルが左手を伸ばす。
「掴め」
「あなたの夢へ体重をかける」
「今さらだ」
「同意」
「掴め」
ソムナは手を取る。
カイルの手は冷たい。
夢の中でも、寝不足の身体は隠れない。
「ありがとう」
「礼は原本を返してから」
「返した後、あなたは私へ礼を言う?」
「返したのは怪盗から取り戻しただけだ、と言う」
「面倒」
「お前に言われたくない」
旧雨樋工房の雨が、二人の下で降る。
欠けた会話の断片は、白い仮面の手にある。
怪盗は作業台へ腰掛け、足を組んでいた。
王家の古い夢を盗んだ者が、王家の工房で主人を待つ。
歴史の皮肉は、演出を好む。
「名前」とセレナの声が、現実側から届く。
『夢内の人物へ身元確認を求める。回答は任意。ただし、回答しない場合も仮面、声紋、身体動作を記録する』
怪盗が笑う。
「証羽の持ち主は、夢へ入らなくても堅い」
「回答」とセレナ。
「ヴェル・ノーマ」
「本名」
「戸籍上は」
「職歴」
「旧王家夢庫、修復技官。のち夜市、来歴調整師」
「来歴の調整とは」
「売れる形へ整える」
「削除を含む?」
「削除、統合、宛先変更、同意範囲の再解釈」
「偽造と呼ぶ」
「買い手は、分かりやすい原本を望む」
「原本は分かりやすさで決まらない」
「市場では決まる」
セレナは、感情を挟まず記録する。
カイルがヴェルを見る。
「お前が、三版を作った?」
「全部ではない。港の料理人は、あなた自身が育てた夢です。王子でない人生を、何度も寝際に選んだ。その断片を、後の職人が一つの暮らしへ編集した」
「家族の食卓」
「王家広報局の舞台資料、慈善病棟の録音、あなたの空腹。優れた合成です」
「優れている?」
「買い手は泣いた」
「私の母の声で」
「声は本物」
「宛先が違う」
「聞いた者が救われれば、宛先に価値はある?」
「ある」
「なぜ」
「母が、誰へ言ったかも母の選択だからだ」
「死者の選択を、生者の救いより優先する?」
「二つを比べるな」
「比べなければ、何も売れない」
「なら売るな」
ヴェルは、白い仮面の端へ触れる。
「王子は、買わずに生きられる」
「それが免罪になると思うか」
「思わない。だから王子の夢を売った。最も買わなくて済む者の夢なら、売っても困らない」
「困っている」
「眠れない程度に」
右手首の星痕が赤く光る。
王盾が一枚、工房の壁へ開く。
ヴェルの白い仮面を焼かない。
代わりに、カイル自身の肋へ痛みが返る。
「痛み返し、一」とメイ。
「継続可能」とカイル。
「判断は共有」とメイ。
「吐き気なし。視野あり。継続を選ぶ」
「五分」
「承知」
カイルは盾を閉じる。
「眠れない程度、と言ったな」
「三日」
「十四年前からだ」
ヴェルの姿勢が、一瞬だけ崩れる。
「何」
「最初の事故から、私は機械音で盾を出す。母の匂いで眠る。母の声で目を覚ます。それを、毎晩ではないが十四年続けた。夢を抜かれた穴を、身体が勝手に再演した」
「因果は証明されていない」
「そうだ。だから断定しない。だが、お前の『困っていない』も証明されていない」
セレナが記録する。
『夢売却と長期症状の因果関係、未確定。被害不存在の主張も未確定』
分からないことを、被害なしの理由にしない。
それは、証拠を扱う者の最低限の礼儀だった。
「断片を返せ」とカイル。
「三版から一つ選べば」
「三つとも保全する」
「原本は一つ」
「編集版は二つ。原本は欠けた一つ。関係を戻すだけだ」
「関係を戻せば、港の人生は偽物になる」
「ならない。今の私が望んだ夢として残る」
「家族の食卓は」
「母の声の宛先を戻し、合成版として残す」
「買い手は泣かなくなる」
「泣く理由を盗むな」
ヴェルの仮面の白さが、少し濁る。
夢の中では、表情を隠しても感情が材質へ出る。
「あなたは、全部を持てる」と彼は言う。
「持つのではない。区別する」
「区別できない者は?」
「表示する」
「読めない者」
「読める人を置く」
「金がない者」
「救命を販売より先にする」
「市場は潰れる」
「潰れる制度なら、潰せ」
「王子の答えだ」
「港の料理人なら、同じことを言う。腹が減った者へ、献立の由来を読む前に食わせろとな」
王子と、王子でない夢。
反対ではない。
同じ人間の、違う言い方。
ヴェルは立ち上がる。
黒い外套の裏から、来歴札が無数に垂れる。
「では、区別してみせろ」
札が飛ぶ。
三つの夢が工房へ重なる。
港厨房。
白い食卓。
旧雨樋工房。
潮の匂い。
磨かれた銀器。
雨と油と苺。
カイルの身体が三つに引かれる。
一人は包丁を持つ。
一人は王冠をかぶる。
一人は作業台の下にいる。
「カイル!」ソムナ。
「聞こえている」
「どこにいる」
「全部」
「一つ選ばないで」
「分かっている」
「身体は一つ」
「それも分かっている」
王盾が三方向へ開く。
港では熱い鍋を守る。
食卓では母の席を守る。
工房では六歳の自分を守る。
守る対象が増えるほど、痛み返しも増える。
「二枚!」メイ。
「まだ」
「三枚で退出」
「承知」
ソムナは杖を振る。
夢を縫う共有術〈ドリーム・ステッチ〉。
だが、夢同士を一つへは縫わない。
港厨房の縁に、青い糸。
白い食卓の縁に、銀の糸。
旧工房の縁に、橙の糸。
混ざった景色へ、別々の境界を返す。
「費用」とカイル。
ソムナは先に言う。
「覚醒記憶を一つ、夜明けまで失う。今朝、メイと食べたもの」
「具体的に」
「薄い粥。たぶん」
「『たぶん』なら、すでに消え始めてる」とメイ。
「使う」
「同意者」とアサ。
「私」とソムナ。
「患者本人の同意ではない」とカイル。
「これは、私の記憶を使う術」
「私の夢へ縫う」
「境界表示だけ。内容は変えない」
「確認」とセレナ。「三版の映像・音声・匂いを改変せず、層を分離するための表示」
「同意する」とカイル。
糸が走る。
混ざった三景が、重なったまま別々の輪郭を持つ。
港の鍋へ、白い食卓の蝋燭が映る。
工房の雨音へ、港の波が混ざる。
だが、どの音がどこから来たか、見える。
「これが区別」とカイル。
「表示を信じれば」とヴェル。
「表示の出所も表示する」とセレナ。
青糸。
『後年編集』
『現在願望を含む』
『本人保全希望』
銀糸。
『複数資料合成』
『母声録音は別宛先』
『本人保全希望・再販売拒否』
橙糸。
『十四年前記録』
『技術補正あり』
『会話中間欠損』
『原本候補』
「候補?」ヴェル。
「原本だろう」
「完全な来歴が戻るまでは候補」とセレナ。「先に結論を書かない」
ヴェルが笑う。
「市場では、遅い」
「法廷では、速すぎる結論が人を殺す」とセレナ。
現実側。
ハルとロロは、夜市の床下を走っていた。
市場の地下は、上の華やかさを支えるため、驚くほど醜い。
夢貨物用の細い軌道。
廃熱管。
眠り薬の排気。
売れ残った悪夢を冷やす黒い水槽。
来歴札の裁断屑。
買い手が見たくない費用は、たいてい床下へ降ろされる。
「発信器、前!」ロロ。
「距離」
「動いてる! 三十歩!」
「さっき二十だった」
「向こうも逃げてる!」
軌道の先を、白い灯籠車が走る。
車輪は四つ。
屋根に、黒船と同じ白帆。
中に誰かがいる。
「怪盗の現実身体?」
「熱源、一人! でも、夢へ深く入ってるなら動かせない!」
「自動」
「市場設備を使ってる!」
ハルが足を速める。
床下軌道には、道案内がない。
だが、空気の流れ。
油。
車輪の熱。
ハルは、夢の中より現実の方が速い。
現実には、足元があるからだ。
「分岐!」
「右!」ロロ。
「理由」
「発信信号!」
「匂いは左!」
「機械は右!」
「人は左!」
二人が分かれる。
「え!」
「発信器を止めろ! 俺は人!」
「戻る条件、二人!」
「別々に戻って合流!」
「今変えた!」
「記録してる!」
通信石からセレナの声。
『条件変更を記録。ハルは左、人熱源。ロロは右、発信器。各自、単独危険時に停止。合流地点、係留棟』
「記録が速い!」
『事前に、あなたたちが分かれる可能性を予測した』
「信頼されてない!」
『行動傾向を信頼している』
左の軌道。
白灯籠車が壁へ消える。
扉はない。
ハルは止まらず、床へ滑り込む。
壁の下、車輪一つ分だけ隙間。
灯籠車は、夢貨物を載せた時だけ薄くなる。
人間の身体は通れない。
「なら、通さない」
ハルは軌道の切替棒へ足を掛ける。
左肩は使わない。
身体全体で棒を倒す。
線路が切り替わる。
白灯籠車が壁へ入る直前、横の廃線へ弾かれた。
車体が横転する。
灯籠が割れる。
中にいたのは、白い仮面を付けた男ではない。
眠っている少年。
十歳ほど。
細い腕。
頭に夢導線。
「子供?」
少年の胸に、札。
『臨時発信器』
『報酬支払済』
『保護者同意』
ハルの腹が冷える。
「メイ! 子供一人。夢導線。呼吸浅い!」
『触る前に、線の色』
「黒、銀、赤」
『赤を切るな。黒を外す。銀は冷却後』
「時間」
『黒を外せば発信器は弱まる。痙攣があれば停止』
ハルは仮面を外す。
少年の口が動く。
「もっと……正しい夢を……」
夢の中で、誰かの言葉を繰り返している。
「お前の夢は」
「売った」
「何を」
「朝……起きたい夢」
ハルは黒線を外す。
少年の身体が震える。
手を握る。
「ここは夜市の床下。俺はハル。朝はまだ来てない」
「起きていい?」
「いい」
「契約」
「後で読む。今は起きろ」
「違約金」
「俺たちが争う」
「払える?」
「払えなくても争う」
少年が目を開ける。
発信器の力が一つ落ちる。