第572話 第十章「夢盗みを盗み返す」後編

 右の軌道。

 ロロは一人で走る。

 呼吸が早い。

 夢貨物の廃熱が、喘息を刺激する。

「一回」

 自分で数える。

 喘鳴一回。

 止まる条件は二回。

「まだ」

 四本の補助腕が、壁と天井を交互に掴む。

 人間の足より速い。

 だが、右眼の像がずれる。

 前方の発信器が二つに見える。

「二つ?」

『右眼を閉じて』メイ。

「片目だと距離が」

『補助腕の接触で測る』

「機械が動く」

『あなたも動く。視覚だけに任せない』

 ロロは右眼を閉じる。

 音。

 床の振動。

 補助腕の触覚。

 発信器は一つ。

 巨大な鐘。

 競売の槌とつながり、落札のたび「原本」を一つ決定する装置。

 黒船へ、選択命令を送っている。

 鐘の周囲に、歯車が七列。

 壊せば止まる。

 だが、落札記録も、来歴札の原簿も同時に燃える。

「最悪の設計」

『設計目的は』セレナ。

「不正操作された時、証拠も消す」

『誰の指示』

「刻印……旧王家夢庫の修復規格。その上から夜市改造」

『両方記録』

「止め方」

『壊さず、命令だけ分離できる?』

「できるか、じゃなくてやる」

『費用』

「補助腕二本、たぶん焼ける」

『身体』

「喘鳴一回。右眼閉じてる。手指は動く」

『選択』

「やる」

 ロロは、鐘の裏へ潜る。

 歯車七列。

 所有。

 時刻。

 編集。

 同意。

 販売。

 撤回。

 返却。

 七つが一つの軸へ固定されている。

 どれか一つを書き換えると、全てが同じ落札者へ向く。

「関係を一つにした機械」

 ロロは笑わない。

 修理工にとって、一体化は美しい場合がある。

 部品が減り、故障点が減る。

 だが、権限まで一体にすれば、一つの手が全部を奪う。

「返却軸だけ外す」

『原本決定命令は』

「編集軸と所有軸を離す。夢内容は残る。命令だけ止まる」

『実施』

「補助腕、左上と右下、切り離す」

 自分の機械腕へ工具を入れる。

 痛覚は弱い。

 だから危険だ。

 痛くない損傷は、損傷でないように見える。

「ロロ」とハルの声。「子供を確保。そっちは」

「あと三十秒!」

「喘鳴」

「一回!」

「呼吸」

「できる!」

「それ、質問への答えになってない!」

「修理工の『できる』は、だいたいそう!」

 歯車が回る。

 補助腕一本が挟まる。

 金属が曲がる。

「左上、喪失!」

『停止条件』メイ。

「身体じゃない!」

『補助腕も身体補助具』

「もう一本で終わる!」

『本人選択を確認。継続?』

「継続!」

 右下の補助腕が、返却軸を引き抜く。

 鐘が鳴る。

 音は一回。

 落札の音ではない。

 関係が外れた音。

 黒船への命令が止まる。

 ロロの呼吸が鳴る。

 二回目。

「停止」とメイ。

「終わった」

「停止」

「分かった」

 ロロはその場へ座り込む。

 残った二本の補助腕で、自分の背を支える。

 発信器は壊れていない。

 七つの軸は、ばらばらに回り始めた。

 夢側。

 黒船の帆が、急にしぼむ。

 現実の発信器が止まった。

「ハルとロロ」とエリア。

「成功?」ソムナ。

『発信命令停止。ハルは子供一名保護。ロロは喘鳴二回、作業停止。発信器の証拠保全』セレナ。

「二人は」

『生存。係留棟へ搬送中』

 ソムナは息を吐く。

 自分が息を止めていたことに、そこで気づく。

 ヴェルの外套から来歴札が落ちる。

 黒船の速度が消え、売られていない闇へ止まる。

 だが、札は燃えている。

「証拠を消すな」とセレナ。

「止められるなら」とヴェル。

 彼は両手を開く。

 白い火は、彼の術ではない。

 市場の自動処分。

 売買不能となった夢を、危険物として焼却する仕組み。

 所有者不明。

 返却先不明。

 同意範囲不明。

 市場は、分からないものを「誰にも返せない」ではなく「誰の責任でもない」と判断し、燃やす。

「来歴を戻す」とソムナ。

「千枚」とエリア。

「縫う」

「費用は千?」

「一枚ごとには使わない。関係の型を縫う」

「何を失う」

 ソムナは、杖の紙札を数える。

 自分の覚醒記憶を、先に選ぶことはできない。

 術が取る。

「一つ以上。夜明けまで」

「内容不明で同意する?」カイル。

「今までは、そうしてた」

「今は」

「先に言った」

「足りない」

「何を」

「止める条件」

「弟の名前を忘れたら、止める」

 ソムナの声が揺れる。

「今、言える?」

「リオ」

「もう一度」

「リオ」

「術の途中で確認する」とメイ。

「分かった」

「一人で千枚を背負うな」とカイル。

「誰が」

「札の持ち主」

「眠ってる。ここにいない」

「だから、全部を本人へ戻すな。返却先が確定した札だけ止める。未確定は焼却せず、保留庫へ」

「市場が保留を認めない」

「今から認めさせる」

「夢の中で?」

「セレナ」

『夜市札守へ、緊急保全命令を申請中。カイル本人の原本候補、子供発信器の強制契約、来歴軸の不正連動を理由に全焼却停止を要求』

「通る?」

『通す』

「言い切った」とハルの声。

『証拠をそろえるという意味』

 ソムナは杖を上げる。

「全部を返さない。燃える関係を、保留へ縫う」

「内容を変えない」とカイル。

「変えない」

「所有者を推測しない」

「しない」

「私の原本だけ特別扱いしない」

「しない」

「弟の名前」

「リオ」

「使え」

 夢を縫う共有術〈ドリーム・ステッチ〉

 白い糸が、燃える札の間を走る。

 所有者へは結ばない。

 市場へも。

 ソムナ自身へも。

 札同士の切断面だけを合わせる。

 破られる前、どの札とどの札が一組だったか。

 所有。

 時刻。

 編集。

 同意。

 販売。

 撤回。

 返却。

 七枚一組。

 組になっても、答えは出ない。

 だが、誰かの夢を、別人の同意で売ることはできなくなる。

「原本を取り戻しているつもりか」とヴェル。

「関係を戻してる」とソムナ。

「それは盗み返しだ」

「盗られた人へ返す前の、保全」

「市場から奪う」

「市場は人じゃない」

「制度にも所有権はある」

「制度は眠らない。痛まない。弟の声を忘れない」

 糸が一本、切れる。

 ソムナの頭から、朝の粥の味が消える。

 もう一本。

 メイの診療室の窓が、右にあったか左にあったか消える。

「リオ」とカイル。

「リオ」

 もう一本。

 昨日、アサと何を話したか。

「リオ」

「リオ」

 もう一本。

 自分の靴の紐を誰に結び直してもらったか。

「リオ」

「リオ」

 夜明けまで戻る。

 分かっている。

 それでも、失うたび、戻らない恐怖は本物だった。

 ヴェルが工房の白い空白へ手を入れる。

 欠けた会話断片を、炎へ投げようとする。

 カイルが動く。

 王盾ではない。

 左手で、ヴェルの手首を掴む。

「王子が素手で?」

「今、盾を出せば断片も燃える」

「あなたの身体は、一つしか選べない」

「だから、この手で選んだ」

 右手首の星痕が、盾を開こうと震える。

 カイルは開かない。

 痛みを受けないためではない。

 夢を守るため。

 ヴェルが白い仮面の奥で息を吐く。

「母は、あなたを王子に戻した」

「まだ聞いていない」

「聞けば、港の夢を捨てる」

「捨てない」

「両方は生きられない」

「一日で両方は無理だ。人生では選び直せる」

「王位は待たない」

「なら王位を待たせる」

「国が」

「国が一人の十七歳の睡眠へ乗っているなら、国の設計が間違っている」

 カイルが手首を捻る。

 ヴェルの指から、欠けた断片が落ちる。

 ソムナが受ける。

 白い札ではない。

 小さな紙灯籠。

 中で、母の口が動く。

 前半のない声。

『――ならないで』

 ソムナは開かない。

「カイル」

「私が開く」

「今、身体反応」

「星痕二枚。吐き気、軽度。視野、狭い」

「退出条件まで一枚」

「分かっている」

「先に怪盗を」

「現実側へ返す」

 ヴェルの夢像は、発信器が止まったことで輪郭を失い始めている。

 本人の身体は、どこか別にある。

「位置」とセレナ。

『白灯籠車の少年は中継。発信器鐘の停止後、別の覚醒信号が市場上層へ出た。札守塔、第三保全室』

「市場の中?」

「最も安全な場所は、制度の内側です」とヴェル。

 仮面が割れる。

 下の顔は、想像より普通だった。

 三十代半ば。

 浅い頬。

 右目に、色の違う補正硝子。

 唇の左だけが、笑う癖。

「あなたは来歴調整師として、札守の認可を持つ」とセレナ。

「持っていた」

「現在も?」

「今夜まで」

「失効時刻を、競売後に設定した?」

「自分の職を、最後に売った」

「買い手」

「いません。売れ残りです」

 自嘲。

 だが、罪を軽くするものではない。

「覚醒させる」とソムナ。

「私の夢を縫うのか」

「出口だけ」

「勝手に治療する?」

 ソムナの手が止まる。

 ヴェルは、そこを狙った。

「私は、起きたくないと言ったら?」

「夢内で証拠焼却を続けている。身体を退出させる法的停止は、治療ではない」とセレナ。

「本人の同意なし」

「他者の夢への進行中の侵害を止める最小措置。内容は編集しない。あなたの夢は保全する」

「王子の時だけ、同意が必要か」

「全員に必要」とソムナ。「でも、他人を傷つけている時、止めることまで許可を待たない」

「治療者が裁く」

「裁かない。止める。裁くのは後」

 ソムナは出口札をヴェルへ付ける。

「費用」とカイル。

「私の記憶は使わない。市場の既存出口。内容改変なし」

「実施」

 ヴェルの夢像が薄くなる。

「あなたも、いつか直す」と彼はソムナへ言う。

「何を」

「弟の声。正しい音を知った時、間違った記憶を残せるか」

「分からない」

「答えない?」

「今の私は、答えを持ってない」

 ソムナは、知らないことを空白にする。

 ヴェルは笑わなかった。

 夢像が消える。

 現実側で、セレナの声。

『第三保全室。ヴェル・ノーマ、覚醒を確認。札守二名と市場保安員が拘束。医療確認後、証拠保全手続』

「捕まった」とエリア。

「事件は終わってない」とカイル。

 ソムナの手に、欠けた灯籠。

 原本夢の中間。

 周囲には、三版の夢。

 千組の来歴札。

 売られていない闇。

 止まった黒船。

「弟の名前」とメイ。

「リオ」

「今朝の食事」

「分からない」

「窓」

「分からない」

「靴紐」

「分からない」

「自分の名前」

「ソムナ・リル」

「役割」

「夢葬師。今は、カイルの案内人」

「道具では」とハル。

「ない」

 現実側からでも、彼の声は届く。

「客員だ」

 ソムナは灯籠をカイルへ差し出す。

「返却先を確認」

「カイル・アークレイ」

「現在同意」

「受け取る」

「開封条件」

「原本を自動修正しない。身体危険時は場面停止。再開は私とお前。記録範囲は私が決める」

「今、開く?」

 カイルは、灯籠を見る。

 母の口。

 欠けた前半。

 十四年。

 右手首の星痕は二枚。

 寝不足。

 夢酔い。

 吐き気。

「五分休む」と彼は言う。

 それは、逃げではない。

 戻るための停車だった。

 黒船の来歴札を保留庫へ送る。

 一組ずつ。

 原本候補。

 編集版。

 同意不明。

 売却停止。

 本人照会。

 セレナが読み上げる。

 夜市の札守が、現実側で受領する。

 途中、札の一つから、小さな夢が漏れる。

 雨上がりの路地。

 少年が、弟へ歌を教えている。

 音程を外す声。

 ソムナの身体が固まる。

「リオ?」カイル。

「分からない」

「追うか」

「追いたい」

「来歴」

 札にはない。

「では、今は保留」とソムナ。

「手放せる?」

「手放さない。勝手に弟へもしない」

 札へ書く。

『声の夢』

『所有者未確認』

『ソムナ・リル、照会希望』

『本人同定禁止』

 正しいかもしれない。

 違うかもしれない。

 希望は、証拠にならない。

 だが、照会する理由にはなる。

「よくできた」とカイル。

「子供扱い」

「案内人扱いだ」

「褒め方が王子」

「港の料理人なら、皿洗いを一回免除する」

「そっちがいい」

「却下」

「なぜ」

「私の夢の厨房だ」

「夢でも労働はある」

「現実的だろう」

 ソムナは、少し笑う。

 夢を持たない少年が、他人の夢の厨房で働く話をする。

 それは原本ではない。

 今、二人が作った未来の冗談である。

 五分後。

 カイルは、欠けた灯籠へ手を伸ばす。

 ソムナも、停止札へ触れる。

「入る」

「一人で?」

「夢内容は私だけ。お前は出口」

「聞こえる範囲」

「私が許可した時だけ」

「母の言葉を聞いた後、話せないかもしれない」

「待て」

「何分」

「決めるな」

「うん」

 灯籠の蓋を開く。

 雨音が出る。

 苺の匂い。

 カン。

 カン。

 フウ。

 カン。

 白い空白の中へ、言葉が戻り始める。

 その時。

 遠い夢海で、白い火が立った。

 保留庫へ移したはずの紙灯籠が、一つ、二つ、三つ。

 燃えながら集まる。

 夢の断片。

 売られた出口。

 返されなかった名前。

 目覚めたくない願い。

 目覚めたい願い。

 火は熱を持たない。

 代わりに、見た者の瞼を重くする。

「何」とエリア。

『現実側の夜市灯籠も発光』セレナ。

「発信器は止めた!」ロロ。

『別系統。原因不明』

 白い火の向こう。

 巨大な四足の影が立ち上がる。

 紙の角。

 灯籠の肋。

 火の眼。

 まだ遠い。

 まだ、夢の中だけ。

 ソムナはカイルを見る。

「止める?」

 カイルは、母の会話へ開いた灯籠と、遠く立つ獣を同時に見る。

「私の夢を先に返す」

「町の危険」

「現実側が観測している。今、私が原本を閉じれば、また誰かが『危険だから後で』と持っていく」

「でも」

「五分で戻る。お前は出口を開けておけ」

「五分を越えたら」

「場面停止」

「同意」

「原本を直すな」

「同意」

 二人は、旧雨樋工房へ降りる。

 遠くで、紙灯籠の獣が最初の一歩を踏んだ。