第573話 第十一章「間違いも自分のもの」前編

王家の子供には、二つの幼年期がある。

 一つは、本人が生きた幼年期。

 もう一つは、国民へ見せるために編集された幼年期。

 前者には、泣き声、失敗、癇癪、食べ残し、親の言い間違いがある。

 後者には、微笑み、初誓、慈善訪問、立派な発言がある。

 国民は後者を見て、王家を信頼する。

 王家は後者を見て、自分たちもそうだったのだと思い始める。

 歴史家にとって危険なのは、嘘ではない。

 美しく整えられた事実である。

 事実は反論を許す。

 美しい事実は、反論する者の方を醜く見せる。

 雨が降っている。

 旧雨樋工房。

 十四年前。

 六歳のカイルは、作業台の下で背を丸めていた。

 焼けた訓練服。

 冷却蝋。

 油。

 血。

 苺香解熱液。

 現在のカイルは、少し離れた場所へ立つ。

 夢像へ触れない。

 母の姿は、最初から顔が曖昧だった。

 白い袖。

 長い髪の影。

 指先。

 抱き寄せた腕。

 速い心拍。

 子供は、母の胸へ右耳を押し当てられ、左耳だけで工房を聞いている。

 カン。

 カン。

 三つ目は、母の身体に隠れる。

 フウ。

 排気。

 母が、苺香解熱液の金属容器を作業台へ置く。

 カン。

 間違った機械音。

 子供が聞いた、正しい記憶。

 そこから先が、戻る。

 白い空白へ、声が差し込む。

『母上』

 六歳のカイルの声。

 今より高い。

 今より遅い。

 言葉を言う前に、相手の顔色を読む癖は、もうある。

『ここ、壊れた?』

『減圧機は止まったわ。工房の人たちが直している』

『僕が触ったから?』

 母は答えない。

 ほんの一拍。

 王家の記録なら、ここを切る。

 母親が、子供へ何を言うか迷った一拍。

『あなたが触れたことも原因の一つ。でも、子供が一度触れただけで人を焼く機械を、子供の近くへ置いた大人たちの責任でもある』

『でも、僕が王子だから、みんな僕を先に助けた』

『そうね』

『技師の人、背中、もっと焼けた』

『そうね』

『僕が王子じゃなかったら』

 子供の声が止まる。

 現在のカイルの右手首が光る。

 一枚目の王盾。

「現在地」

 夢の外から、ソムナの声。

「旧雨樋工房。十四年前の夢。私は十七歳。現在の身体は夜市救護区」

「続ける?」

「続ける」

 母は、子供を抱き直す。

『王子じゃなかったら、僕を先に助けなかった。技師の人、もっと早く助かった』

『そうかもしれない』

 完璧な母なら、否定する。

 あなたの命も大切。

 誰もあなたを恨んでいない。

 事故はあなたのせいではない。

 だが、母は「そうかもしれない」と言った。

 子供の世界から、事実を奪わないためか。

 答えを持てなかっただけか。

 夢は理由を記録していない。

『僕、王子にならない』

 母の腕が固くなる。

『カイル』

『王子じゃなかったら、みんな僕を先にしない。僕がいなかったら――』

『そんな弱い子には、ならないで』

 言葉が落ちる。

 欠けていた前半。

『そんな弱い子には、ならないで』

 現在のカイルの身体が、動かなくなる。

 王盾が二枚目まで開く。

「場面停止?」ソムナ。

「待て」

「返事が遅い」

「待て」

 六歳のカイルは、母の腕から離れる。

 背の火傷が布へ擦れる。

 顔を歪める。

 泣かない。

『弱い子』

 母の顔は見えない。

 だが、手が震えている。

『違う』

 母が言う。

『今のは、違う』

『何が』

『私が怖かったから、あなたに強くなれと言った』

『母上は怖くない』

『怖いわ』

『王妃なのに』

『王妃だから、怖くないふりが上手なだけ』

 母は床へ膝をつく。

 王妃の服が、油で汚れる。

『ごめんなさい。あなたが「いなかったら」と言ったから、私はあなたが消えると思った。怖くて、弱いと言った』

『弱いのは、だめ?』

『だめではない』

『でも、言った』

『言った。間違えた』

『母上も、間違える?』

『今、間違えたでしょう』

『王妃なのに』

『王妃は、間違えたことを隠す人の名前ではないわ』

 それは後年の王家広報なら使いたがる台詞だった。

 だが、続きがある。

『隠したくなる人の名前よ』

 母は、自分の言葉を笑わない。

『王子をやめてもいい?』

 長い沈黙。

 雨樋へ水が流れる。

 遠くで技師が減圧機を叩く。

 カン。

 カン。

 カン。

 フウ。

 正しい機械音。

 母は、すぐに優しい答えを返さない。

『今の私には、いいとは言えない』

 六歳のカイルが俯く。

『王妃だから?』

『王妃だから。国のことを考えると、あなたに王子でいてほしい』

『母上は、僕より王子が大事?』

 現在のカイルが息を止める。

 母の答え。

 十四年間、切り取られていた。

『時々、そう見えることを私はする』

 王盾が三枚目へ開きかける。

「停止」とソムナ。

「まだ」

「三枚目」

「まだ開いていない」

「身体の心拍が基準を越えた」

「内容を」

「止める。消さない」

「あと少し」

「場面停止」

 ソムナが白札へ触れる。

 雨が止まる。

 母の袖も。

 子供の呼吸も。

 工房の油滴も。

 内容は変わらない。

 動きだけが止まる。

「カイル」

「聞こえる」

「現在地」

「夜市。救護区。原本夢の中」

「身体」

「胸が痛い。右手首、熱い。吐き気、ある」

「退出する?」

 答えが出ない。

「今、決めなくていい」とソムナ。

「その台詞を、夢へ足すな」

「今のあなたへ言った」

「分かっている」

「退出する?」

「一度、身体を戻す」

「夢はここで止める」

「再開は両方」

「同意」

 二人が停止札を持ったまま、夢を出る。

 現実。

 カイルは寝台の上で、身体を丸めた。

 右手首から赤い光。

 背中の古傷。

 肋。

 王盾は外へ開かず、皮膚の下で止まっている。

 メイが胸へ手を当てる。

「呼吸、四拍吸って六拍吐く」

「命令するな」

「提案。拒否できる」

「採用」

 四拍。

 六拍。

 ハルが水を持っている。

「飲む?」

「今は無理」

「置く」

 手渡さない。

 枕元へ置く。

 カイルは目を閉じない。

 閉じれば、母の声が続く。

『時々、そう見えることを私はする』

「最悪だ」と彼は言う。

「母親が?」ハル。

「正直さが」

「嘘の方がよかった?」

「分からない」

「なら、分からないでいい」

「全員、同じことを言う」

「便利だから」

「便利な言葉は嫌いだ」

「今だけ借りろ」

 カイルは、水へ手を伸ばす。

 左手。

 一口。

「母は、私より王子を選ぶことがあると言った」

「聞いた」

「記録範囲を止めなかったのか」

「内容は聞こえてない。ソムナの共有範囲外。今、お前が言った分だけ」

「そうか」

「後悔した?」

「言ったことを?」

「うん」

「少し」

「取り消す?」

「取り消さない。ただし、公開記録にはしない」

 セレナが、少し離れた場所で確認する。

「私の記録は、身体反応、停止時刻、本人が退出を選んだ事実まで。母君の発言内容は記録していない」

「私が今言った内容も」

「会話相手のハルが聞いた。事件記録へは入れない。必要なら私的覚書を作成する」

「作らない」

「了解」

 カイルは、枕へ頭を戻す。

「ハル」

「いる」

「母が、私より王子を選ぶことがあると言った」

「二回目」

「一回目は事実。二回目は確認だ」

「確認した」

「お前なら」

「何」

「父親に、同じことを言われたら」

 灰色航路の背中。

 ハルは、すぐ答えない。

「腹が立つ」

「それだけか」

「追いかけるかもしれない。追いかけないかもしれない。会った時の俺が決める」

「便利な答えだ」

「今のお前には、便利なものを貸す」

「返却期限」

「眠れるまで」

「高い」

「苺大福二個」

「一個半」

「値下げするな」

 カイルの口元が、ほんの少し動く。

 冗談が、痛みを消すわけではない。

 痛みの隣に、別のものを置く。

「続きへ戻る」とカイル。

「今?」

「身体が下がったら」

 メイが計測板を見る。

「心拍、まだ高い。十分」

「五分」

「十分」

「七」

「九」

「八」

「採用」

 カイルは目を閉じず、八分待つ。

 待つことを、他人へ任せない。

 八分後。

 水をもう一口。

 豆パンを半分。

 吐き気は二から一。

 王盾は二枚から一枚。

「再開」とカイル。

 ソムナが停止札の片側を持つ。

「私も再開」

 二人が同時に触れる。

 雨が動き出す。

 母の言葉の続き。

『時々、そう見えることを私はする』

 六歳のカイルは、床の油染みを見る。

『じゃあ、僕はいらない』

『違う』

『王子がいればいい』

『違う』

『同じ』

『同じに見える。でも、違う』

『どう違う』

 母は、答えに詰まる。

 立派な言葉を探しているのではない。

 立派でない言葉しか見つからない。

『国を守る時、私はあなたを王子として使うことがある』

『使う』

『ええ』

『母上が』

『ええ』

『嫌だ』

『嫌だと言っていい』

『やめてくれる?』

 また、沈黙。

『いつもは、約束できない』

 子供の顔が固まる。

 母は続ける。

『だから、あなたは私に「母上ではなく王妃だ」と言っていい。私が母親の顔で国の命令をしたら、言って』

『言ったら、やめる?』

『一度、止まる』

『やめない』

『止まって、聞く。やめられるかを、あなたに隠さず話す』

『王子をやめるのは』

『今夜、決めなくていい』

『明日?』

『明日も、決めなくていい日がある』

『ずっと?』

『ずっと決めないことは、私には約束できない』

『約束できないことばかり』

『そうね』

『王妃は役に立たない』

『母親も、今日はあまり役に立っていない』

 六歳のカイルが、初めて母を見る。

 顔は曖昧なまま。

 夢は表情を返さない。

 だが、声に、小さな笑いがある。

『でも、火傷を冷やすことはできる』

 母は苺香解熱液を開く。

 金属の蓋を置く。

 カン。

『それ、嫌い』

『苺なのに?』

『薬の苺』

『本物の苺ではないわね』

『嘘』

『苺のふりをした薬』

『王妃みたい』

『ひどい』

『母上みたい』

 母の手が止まる。

『もっとひどい』

 子供は、泣きながら笑う。

 泣かない方法を忘れた顔が、泣く方法を思い出す。

 母は、頭を抱く。

『カイル』

『うん』

『怖い時まで、誰かが望む王子には、ならないで』

 先ほどの「弱い子には、ならないで」と同じ終わり。

 違う前半。

 同じ語尾が、反対の意味を持つ。

『母上が望んでも?』

『私が望んでも』

『じゃあ、王子やめる』

『今夜は、それでもいい』

『明日は?』

『朝になってから喧嘩しましょう』

『母上と?』

『王妃と』

『母上は?』

『朝ごはんを持ってくる』

『苺?』

『薬ではないものを』

 工房の外で、誰かが呼ぶ。

『王妃殿下、減圧機の確認を』

 母の腕が固くなる。

 王妃へ戻る合図。

 六歳のカイルが、先に言う。

『いま、王妃?』

 母は立たない。

『今は、まだ母上』

 その一文で、夢が終わる。

 完全な和解はない。

 王子をやめる許可もない。

 母が国より子を選ぶ約束もない。

 間違った言葉。

 謝罪。

 できない約束。

 朝の喧嘩。

 だから、編集者は切った。

 王家の母子愛として、売りにくかったから。