第574話 第十一章「間違いも自分のもの」後編
現在のカイルは、止まった工房へ立っている。
六歳の自分と母は、最後の姿勢のまま。
「記録」とソムナ。
「公開しない」
「内容?」
「母の発言は私的記録。事件立証へ必要な部分だけ、技術補正前の会話が存在したこと、編集で削除されたこと、機械音が金属蓋を含むことを出す」
「市場へは」
「原本内容の閲覧を許可しない」
「王家へは」
「同じ」
「あなた自身」
「封印して保管。次に見るかは、起きてから決める」
「今、どう思う」
カイルは長く黙る。
「母は、正しくなかった」
「うん」
「私に弱いと言った」
「うん」
「国のために使うと言った」
「うん」
「約束できないと言った」
「うん」
「本物だった」
「本物だから正しい?」
「違う」
「本物だから、許す?」
「違う」
「では」
「母が、生きていた」
夢の母は顔がない。
それでも、広報用の食卓より生きている。
間違え、言い直し、できない約束をできないと言った。
「私が覚えていた母は、完璧すぎた」とカイル。「死んだ人間は、反論しないから、周囲が勝手に整える」
「今、嫌い?」
「少し」
「好き?」
「少し」
「両方?」
「両方」
「一つにしない」
「そうだ」
カイルは六歳の自分へ近づく。
触れない。
「王子をやめたい」
現在の声で言う。
「今も?」
「時々」
「王子でいたい?」
「時々」
「矛盾」
「人間だ」
原本を取り戻すとは、元の一つへ戻ることではなかった。
元から一つではなかった自分を、他人が一つに編集する権利を取り戻すことだった。
「退出」とカイル。
「停止ではなく?」
「場面を閉じる。原本は保全」
「同意」
ソムナが橙の縁を工房へ付ける。
『原本』
『本人所有』
『非公開』
『自動修正禁止』
『会話中間・返却済』
『技術補正履歴あり』
『再接触は本人の現在同意』
景色が灯籠へ戻る。
カイルが蓋を閉める。
外側へ、自分で一行書く。
『間違いも、私のもの』
覚醒。
夜市の救護区。
カイルは目を開ける。
王盾は出ない。
最初に、ハルを見る。
「顔」
「いつもの」
「褒めてない」
「知ってる」
「母は」
ハルは待つ。
「生きてた」
「夢の中で?」
「記録の中で。広報の像より」
「悪かった?」
「悪いところがあった」
「よかった?」
「よいところも」
「じゃあ、人だな」
「王妃だ」
「人じゃないのか」
「王妃は、時々、人をやめたふりをする」
「王子も?」
「時々」
「今は」
カイルは、枕元の水を自分で取る。
「患者」
「それも人だ」
「訂正するな」
水を飲む。
苺の味はしない。
それが、少し安心だった。
夜市中央審査場。
白い仮面を外されたヴェル・ノーマが、拘束椅子へ座る。
手錠ではない。
夢導線を切り、覚醒状態を保つ透明輪。
白灯籠車で発信器にされた少年は、別の救護区で治療中。
名前は本人が公開を拒んだため、記録へは「発信協力児童A」とだけ載る。
契約違反ではなく、保護対象。
報酬は没収しない。
違約金は凍結。
セレナが、三つの夢と七種の札を並べる。
「審査対象を分離します」
「一件の競売だ」と札守の老女。
「一件にしたことが、不正の方法です」
セレナは、七枚の板を置く。
一、内容。
二、記録時刻。
三、所有者。
四、編集者。
五、同意者と同意時点。
六、販売範囲。
七、撤回・返却条件。
「これまで夜市では、落札時に七項目が一括して買い手へ移りました」
「簡便だから」と札守。
「簡便さが、所有者の違う夢、同意者の違う夢、編集者の違う夢を一つへまとめた」
「客は七枚も読まない」
「読まない客へ、読まなくてよい危険だけを売るな」とカイル。
「では、市場が説明する費用は誰が払う」
「販売者」
「利益が減る」
「他人の夢を売る費用だ」
「王家が補助する?」
「しない」
「市場へ責任だけを」
「利益も市場が取っていた」
札守は値札眼鏡を外す。
年老いた目。
「この市場は、夢を売らなければ生きられない者の場所でもある」
ソムナが反応する。
家族の治療費のため、自分の夢を売った。
「閉鎖しろとは言っていない」と彼。
「王子は潰せと言った」
「制度が人を食うなら、と」とカイル。「人が制度を使う道まで消すとは言っていない」
「では、何を残す」
問いが、審査場へ落ちる。
壊すのは速い。
残すものを選ぶ方が難しい。
メイが板を一枚加える。
『夢から戻った後の現実負担〈モーニング・コスト〉』
「夢を買った後、身体へ何が起きるか。睡眠時間、薬、記憶混濁、仕事不能時間、治療費」
アサが、もう一枚。
『途中退出』
『場面停止』
『記録停止』
『今は決めない』
「夢へ入る前に、選べる出口を表示する。話せない人は、札か身体動作」
ソムナが一枚。
『原本不明』
『複数候補』
『推測編集』
『治療編集』
『娯楽合成』
「分からないものを、『原初』と呼んで値段を上げない」
ロロは、焼けた二本の補助腕を卓へ置く。
「機械も分ける。所有軸、編集軸、返却軸を一つの鐘で動かさない。壊れたら全部同じ相手へ行く設計、禁止」
「修理費」とカイル。
「市場へ請求」
「妥当だ」
「今、素直!」
「身体補助具の損耗を、子供の善意へ払わせるな」
ハルが、白灯籠車の契約札を置く。
「保護者同意だけで、子供の『朝起きたい夢』を発信器へ使えないようにする。今の本人が起きたいと言ったら、起こす」
エリアが路図を置く。
「夢航路には、出発地と目的地だけでなく、中継、編集、未登録区間を表示。途中を省いた費用を、後ろへ隠さない」
ノクスは、卓の下から来歴札を一枚持ってくる。
口にくわえている。
「それ、どこから!」ロロ。
ノクスは札を置く。
『燻製魚』
『所有者 ロロ』
『保管場所 ゼロスター号』
『取得者 ノクス』
『同意 なし』
「事例が分かりやすすぎる」とセレナ。
「返却」とロロ。
ノクスは札だけ返し、魚は返さない。
「内容と来歴を分離した!」
「実演としては優秀」とカイル。
審査場に、短い笑いが起こる。
制度を変える話は、重くなる。
重さだけでは、人は長く持てない。
札守がヴェルを見る。
「来歴調整師。反論」
ヴェルは、補正硝子の右目を閉じる。
「客は、正しい原本を欲しがる」
「だから偽造した?」セレナ。
「正しい形へ直した」
「機械音を」
「技術的に誤っていた」
「母君の発言を」
「王家の児童記録として不適切だった」
「本人同意を」
「後見契約があった」
「販売範囲を」
「市場慣行」
「利益」
「受け取った」
「発信器の児童」
「契約した」
「現在の本人へ、危険を説明した?」
ヴェルは答えない。
セレナは、沈黙を自白とは書かない。
『回答なし』
「あなた自身は、夢を編集された経験がある?」ソムナ。
「ある」
「何を」
「職業訓練の悪夢。失敗を繰り返す夢を、成功で終わるよう直された」
「よかった?」
「眠れた」
「悪かった?」
「失敗の理由を忘れた」
「だから、他人も直す?」
「人は、真実より眠りを必要とする」
「両方、選べるようにしない?」
「選択肢が多ければ、眠れない」
「選択肢を減らす人を、選べるようにする」
「結局、案内人が決める」
「今までは、そうしてた」
ソムナは認める。
「でも、今は止める札を本人と持つ。私も間違える。だから、一人で直せないようにする」
「弱くなった」
「うん」
「治療者が弱くて、誰を救う」
「強い治療者に勝手に救われたくない人」
ヴェルは、少しだけ目を伏せる。
理解したかは分からない。
理解は、判決ではない。
夜市審査は、刑を決める法廷ではない。
市場資格、商品保全、契約停止を決める。
札守は槌を持つ。
「決定」
一、王子原初夢競売は無効。
二、三版は分離保全。
三、原本候補はカイル・アークレイへ返却。
四、港生活版は本人の現在願望を含む編集夢として、本人非公開保管。
五、家族食卓版は合成資料の宛先を表示し、本人の再販売拒否を適用。
六、ヴェル・ノーマの来歴調整資格を停止。
七、発信協力児童Aの契約は、危険説明と現在同意を欠くため停止。報酬返還を求めない。
八、未確認夢は焼却せず、保留庫へ。
九、全商品へ来歴七項目と朝の負担を表示。
十、途中退出、停止、保留を販売条件へ追加。
「即日?」札守補佐が聞く。
「即日。完全対応まで新規競売停止」
市場の商人たちが叫ぶ。
損失。
契約。
生活。
当然だった。
制度変更は、拍手だけで始まらない。
誰かの生活を守っていた不正は、不正を止めれば生活ごと倒れる。
「停止中の生活費」とカイル。
商人が振り向く。
「王家が払うのか」
「王家夢庫が、十四年間この市場へ流した修復委託費を監査する。違法収益が確定するまで、私の王族歳費の一部を、説明員と小商人の暫定給付へ回す」
「また自分で払う」とハル。
「私的な罪滅ぼしではない。期限三十日。支給基準と終了条件を公開」
「三十日後」
「制度側の財源へ移す。移せなければ、競売規模を縮小する」
「王子が市場を買う」とヴェル。
「買わない。私の金も、期限で出る」
「自分の善意へ、終了時刻をつけた」とティアの声が通信石から届く。
学院の救難班。
遠い別航路。
「進歩」と彼女。
「聞いていたのか」とカイル。
「公開審査です」
「学院の仕事をしろ」
「しています。夢商品の説明員研修に、落第門の読み上げ支援資料を提供します」
「勝手に増えるな」
「権限ではなく協力です」
「言葉を覚えた」
「あなたも」
カイルは、反論しない。
反論しないことを、負けとは呼ばない。
審査の後。
カイルは、夜市の屋台で本物の苺を買う。
薬の匂いが少ない品種。
一つ。
口へ入れる。
目を閉じる。
「味」とメイ。
「酸っぱい」
「吐き気」
「ない」
「母を思い出す?」
「思い出す」
「食べられる?」
「食べる」
酸味。
種。
少し青い香り。
記憶は、食べ物の味を変える。
だが、食べ物も、記憶へ新しい味を足せる。
十四年前の苺薬だけが、苺ではない。
「港の夢」とハル。
「残す」
「王子やめる?」
「今日はやめない」
「明日」
「明日の私へ聞け」
「便利」
「借りた」
「返却期限」
「眠れるまで」
「長期貸し出し」
「利息は苺大福」
「二個」
「一個半」
市場の上空で、紙灯籠が揺れる。
一つ。
二つ。
審査場の灯籠。
屋台の灯籠。
救護区の灯籠。
夢貨物線の灯籠。
すべての紙面に、同じ影が映る。
四本の脚。
長い角。
肋骨のような灯籠枠。
白い火。
「夢映像?」ハル。
「私たちは起きている」とエリア。
「市場投影」とロロ。
「発信器は止まってる」
ソムナが、灯籠へ手を近づける。
触れない。
「夢の匂いがする」
「夢に匂いは」
「私には、縫い目が見える。これは一人の夢じゃない」
紙面の獣が、こちらを見る。
眼は、燃える穴。
次の瞬間。
夜市の全灯籠が、内側から膨らんだ。
紙が伸びる。
骨組みが曲がる。
白い火が、天井へ集まる。
市場の屋根を突き破り、巨大な角が現れる。
夢の中で遠くにいた獣が、現実側へ半身を出す。
熱はない。
代わりに、周囲の人間が一斉に膝をつく。
眠気。
商人。
客。
札守。
保安員。
瞼が落ちる。
「退出札!」ソムナ。
「誰の夢から!」アサ。
「分からない!」
獣が、一歩踏む。
床は壊れない。
だが、その足跡の中で、百人が同時に眠った。
夜市の警鐘が鳴る。
音声が、都市全域へ飛ぶ。
『夢灯都市、緊急睡眠波を確認』
『発生源、特定不能』
『夜明けまでに全市民が同時睡眠へ移行する可能性』
カイルは、食べかけの苺を飲み込む。
「原本は返った」
「うん」とソムナ。
「怪盗も止めた」
「うん」
「では、これは別件だ」
「うん」
事件を一つ解けば、世界は終わらない。
人間の生活は、解決した問題の隣で、別の問題を始める。
紙灯籠の獣が、二歩目を踏んだ。