第575話 第十二章「燃える灯籠獣」前編

人間が眠る時刻は、長く個人のものだった。

 夜になれば眠る者。

 夜こそ働く者。

 不安で眠れない者。

 病で眠り続ける者。

 見張り、産婆、船員、兵士、盗人、書き手。

 一つの町に、同じ夜はあっても、同じ眠りはなかった。

 夢灯都市が夢灯網〈ドリーム・グリッド〉を作った時、それは進歩と呼ばれた。

 悪夢を分ける。

 眠れない者へ穏やかな像を送る。

 医師が患者の睡眠を見守る。

 離れた家族が、同じ祭りの夢を見る。

 災害予測を共有する。

 眠りは、個人の暗闇から、都市の公共設備になった。

 公共設備になったものは、便利になる。

 同時に、一か所の故障で全員へ届く。

 水道も。

 鉄道も。

 命令も。

 夢も。

 紙灯籠の獣が、三歩目を踏む。

 白い火が夜市の天井を走った。

 熱はない。

 紙も燃え落ちない。

 代わりに、火へ照らされた者の瞼が重くなる。

 商人が卓へ伏せる。

 保安員が槍を落とす。

 買い手が、立ったまま眠る。

 札守の老女は槌を握ったまま膝をつく。

「寝るな!」

 誰かが叫ぶ。

 最も役に立たない命令だった。

 眠気は規律違反ではない。

 意志の弱さでもない。

 脳と身体が、起きていられなくなる現象である。

「『寝るな』を止めて!」メイ。

 救護区の入口で、声を張る。

「倒れる前に座る! 頭を打たない! 眠った人は横向き、呼吸確認! 無理に立たせない!」

「起こさなくていいのか!」市場保安員。

「起こして歩かせれば、また倒れる! 先に安全な場所!」

 メイの命令は、眠りへ逆らわせない。

 身体を守る。

 ハルは、自分の瞼が落ちるのを感じる。

 足裏へ力を入れる。

 石床。

 夜市。

 右足の下に、割れた札。

 左肩、痛み三。

 鼻に、紙、油、苺、燻製魚。

「現在地」

 自分で言う。

「夢灯都市、地下夜市。起きてる。ハル」

「返事」とエリア。

「起きてる」

「視野」

「少し狭い」

「呼吸」

「平気」

「『平気』は数値じゃない」

「四拍吸える」

「歩行」

 ハルは一歩。

 床が揺れる。

 獣の足ではない。

 眠り始めた群衆が、同時に体重を預けた揺れ。

「歩ける」

「単独行動しない」

「分かった」

 言いながら、獣を見る。

 四脚。

 一脚だけで、市場通り三本分の高さ。

 骨は、紙灯籠の竹枠。

 皮膚は、数千枚の夢紙。

 関節に、売買札。

 角は、束ねられた退出札。

 胸の内部で、無数の景色が点滅している。

 赤子を抱く夢。

 失った指が戻る夢。

 故郷へ帰る夢。

 故郷を出る夢。

 試験へ受かる夢。

 試験が終わった夢。

 死者と食卓を囲む夢。

 死者へ会わず、朝まで眠る夢。

 一つの獣の中に、反対の願いが同時に燃えている。

「カイルの夢だけじゃない」とソムナ。

 杖の先を獣へ向ける。

 夢の縫い目が、空いっぱいに見える。

「何本」とカイル。

「数えられない」

「概数」

「町の灯籠全部に近い」

「私の原本は」

「封印灯籠にある。獣へ一本、細い反応はある。でも中心じゃない」

「では、何が中心」

「分からない」

 ソムナは断定しない。

 一度得た答えを、別の危機へ万能に持ち込まない。

「切れる?」ハル。

「縫い目を切れば、灯籠と持ち主の関係も切れる」

「返せない」

「うん」

「獣だけから外す方法」

「どの糸が獣で、どの糸が本人か、今は分からない」

「では、魔法を使わない」とカイル。

「使わない?」

「分からないまま切るな」

 ソムナが杖を下ろす。

 以前の彼なら、苦しむ町を見て、先に夢を薄くした。

 今は、何もしないことを選ぶ。

 何もしないのではない。

 勝手に直さないため、別の仕事を探す。

「出口札を配る」と彼。

「誰の夢から出す」とアサ。

「獣の足跡へ入った人。現実と夢の境が薄い。今いる場所を返す札なら、内容を切らない」

「使える人」

「自分で触れられる人。触れられない人は、同伴者が現在地を読んで、本人が反応した時だけ」

「反応できない人」

「身体を安全へ。夢は保留」

「採用」

 アサとソムナが、出口札を二種類へ分ける。

『今ここ』

『今は戻らない』

 戻ることを強制しない札。

「寝たままでいたい人もいる」とアサ。

「危険なのに?」市場保安員。

「危険だから身体は運ぶ。夢から出るかは、別」

「そんな余裕が」

「余裕がない時ほど、一つにしない」

 イヴァから受け取った停車の原則。

 ユノから学んだ見ない権利。

 ティアが失敗した非常権限。

 別の土地で生まれた答えは、同じ形では使えない。

 だが、人間の選択を一人へ集めないという芯だけは、形を変えて残る。

 紙灯籠獣の前脚が、救護区へ向く。

「踏まれる!」ロロ。

「物理的な重さは?」エリア。

「分からない!」

「分からないまま、重い前提!」

「了解!」

 カイルが右手を上げる。

 王盾炎〈レグルス・ガード〉

 一枚。

 赤い盾が、救護区の天井と獣の足の間へ開く。

 紙の脚が盾へ触れる。

 衝撃はない。

 代わりに、百人分の眠気が、痛み返しとしてカイルへ流れ込む。

 膝が折れる。

「カイル!」ハル。

「盾は……持つ」

「何が来た」

「眠い」

「それだけ?」

「百人が、三日寝ていないような……」

 声が崩れる。

 二枚目を出そうとする。

「一枚」とメイ。

「脚が」

「盾で眠気は止まってない。進行が少し遅れただけ」

「では、天井を」

「物理荷重だけ支えて。睡眠波を一人で受けない」

「方法」

「盾を斜めへ。脚を止めず、救護区から逸らす」

 カイルは、盾の角度を変える。

 防ぐ盾から、導く盾へ。

 紙灯籠獣の前脚が滑る。

 救護区の横。

 無人の競売台へ。

 槌。

 値札。

 豪華な天蓋。

 すべてを白い足が通り抜ける。

 壊れない。

 ただ、競売台に保管されていた夢が、一斉に獣へ吸い上げられる。

「商品庫!」札守。

「人から先!」メイ。

「夢も人の一部だ!」

「身体から先! 商品庫は来歴がある!」

 札守の老女が目を開ける。

 眠気に揺れながら、歯を食いしばる。

「来歴札……今、付け直したものから、返却できる」

「表示義務が救難に使える」とセレナ。

 審査決定は、まだ一時間も経っていない。

 新しい札を付けた商品は、数十だけ。

 それでも、誰の夢か分かる。

 返却先が分かる。

 同意範囲が分かる。

「新札の商品を、所有者別へ切り離す!」札守。

「本人確認なしで返さない」とセレナ。

「今は眠っている!」

「身体位置と、事前の返却条件を照合。『危機時自動返却』のあるものだけ」

「そんな札、三件」

「三件救える」

 札守は、補佐へ命じる。

「三件を探せ!」

「残りは」

「保留! 獣へ吸われる前に、商品庫の市場所有索だけ外す!」

 市場所有索。

 夢を一括して「夜市の商品」とする太い黒紐。

 ロロが見る。

「物理索と夢索が重なってる」

「外せる?」ハル。

「発信器の返却軸を抜いた時と同じ。一括所有だけを外す。個別の札は残す」

「補助腕、二本」

「二本あれば二本分働く」

「身体」

「喘鳴、今は一回未満。右眼、像ずれあり」

「一人でやらない」とメイ。

「誰が」

 札守の老女が、工具を取る。

「市場の索は、市場が外す」

「使える?」

「夢の値段を五十年付けた。紐の場所くらい知っている」

「値段と工具は別」とロロ。

「若造」

「十四歳」

「だから若造だ」

「老女」

「七十二歳」

「だから老女」

「喧嘩するな!」ハル。

「してない!」二人同時。

 ロロと札守が、商品庫へ走る。

 獣の胸から、記憶や誓いの残光像〈アフター・ライト〉がこぼれる。

 実体ではない。

 過去の動作が、光として残った像。

 市場通りへ、百人の人影。

 歩く。

 抱く。

 逃げる。

 手を振る。

 膝をつく。

 その中に、母の白い袖がある。

 カイルが見る。

 足が止まる。

「本人?」ハル。

「違う」

「追う?」

「追わない」

 即答。

 白い袖は、別の誰かの母かもしれない。

 王家の宣伝夢から漏れた像かもしれない。

 カイルの原本に反応して形を借りただけかもしれない。

「記録」とカイル。

 セレナが言う。

「白袖の女性型残光像。身元未同定。追跡しない」

「それでいい」

 白い袖は、人混みへ消える。

 今度は、ハルの前に灰色の背中。

 工具袋。

 左足を引く歩き方。

 父に似た影。

 残光像は、夢海で見た姿と同じ方向へ歩く。

「ハル」とエリア。

「見えてる」

「追跡条件」

「黒船はもうない」

「今の目標」

「救難」

「影は」

「未同定」

 ハルは、影の横を走り抜ける。

 触れれば、何か見えるかもしれない。

 今は触れない。

 選ばなかった痛みは、消えない。

 だが、選んだ人を救う足を遅らせない。

 残光像の間で、子供が倒れる。

 影ではない。

 ノクスが先に気づく。

「キュッ!」

 ハルは滑り込む。

 十歳ほど。

 白灯籠車で発信器にされた少年。

 救護区から、眠り歩きで出ていた。

「現実?」ハル。

 ノクスが少年の頬を嗅ぐ。

「キュ」

「匂いは混ざる」とソムナ。

「体温!」ハル。

 手首。

 温かい。

 脈。

「本人!」

 少年の目は閉じている。

「朝……起きたい」

「ここは夜市。まだ夜」

「朝を……売った」

「今、取り戻す」

「違約金」

「後」

「払えない」

「俺も払えない」

「じゃあ」

「払えない二人で、まず逃げる」

 ハルは少年を背負う。

 左肩へ重み。

 痛み三から五。

 止める条件。

「肩、五!」

「下ろして!」メイ。

「安全地帯まで十歩!」

「他の人へ渡す!」

 市場保安員が近づく。

 眠気で足がふらつく。

「俺が」

「あなたも危ない!」メイ。

 カイルが盾を低く出す。

 一枚。

 担架のように。

「乗せろ」

「痛み返し」

「物理荷重だけ。眠気は受けない高さ」

 ハルは少年を盾へ乗せる。

 赤い板が、床すれすれを滑る。

 カイルは王盾を、人を守る壁ではなく、人へ運ぶ床にする。

「王家の威厳」とハル。

「救命に使えば、少しは役に立つ」

「王子をやめたい?」

「今は、盾を持つ」

 答えを一つへしない。

 エリアは、夜市の中央塔へ登る。

 踵の痛みは二。

 槍を杖にする。

 高所から、灯籠獣の足跡を見る。

 一歩目。

 競売場。

 二歩目。

 救護区。

 三歩目。

 商品庫。

 足跡の中で、人が眠る。

 だが、眠りの深さが違う。

「セレナ。眠った人数と、灯籠の種類」

『一歩目、百三。旧式共有灯籠が多い』

『二歩目、八十七。医療灯籠と退出札あり。深度は浅い』

『三歩目、商品夢保管。身体睡眠は三十二。夢混線が強い』

「人の数じゃない」

「何が」とハル。

「未返却の関係が多い場所ほど、足が深い」

 エリアは路図へ色を置く。

 黒。

 灰。

 白。

 旧式灯籠。

 所有者不明。

 編集履歴なし。

 撤回条件なし。

 獣は、夢の内容へだけ反応していない。

 返す先がないもの。

 関係が切れたもの。

 持ち主と市場の間で保留されたもの。

「原因?」カイル。

「観測上の相関。原因とは断定しない」

「進路予測」

「できる」

「どこ」

 エリアは都市図を広げる。

 夜市の北。

 旧夢庫。

 慈善病棟。

 共同睡眠宿。

 名簿焼失区。

 未返却記憶が多い場所を結ぶと、獣の次の足が見える。

「北東、共同睡眠宿」

「人数」とセレナ。

『入居者、四百十二』

「止める」

「止め方」とハル。

「獣を止めない。次の足へ、返却先のある灯籠を集める」

「餌?」

「違う。足場を浅くする。旧式灯籠を持ち出し、現在地札へ置き換える」

「間に合う?」

「全部は無理。通路一本」

「避難路」

「そう」

 唯一の最適解を作らない。

 いま必要なのは、一つの正しい地図ではない。

 眠って運べない人。

 歩ける人。

 起きたくない人。

 医療器具から離れられない人。

 夢内で混乱している人。

 それぞれに違う退路。

「中央塔から、三本引く」とエリア。

「三本」とカイル。

「徒歩。担架。夢内退出」

「誰が決める」

「本人、または事前札。反応不能なら身体安全を優先し、目覚めは保留」

「採用」

 彼女は槍を振る。

 路図が、地面へ投影される。

 青。

 橙。

 白。

 三本の避難線。

「線を踏めば安全?」市場客。

「いいえ!」エリア。「線は、現在の推奨です。獣が動けば変わります。係員の更新を聞いて!」

「地図なのに変わる?」

「変わらない地図の方が、今は嘘です!」

 人々が動く。

 自分の足で。

 担架で。

 夢札で。

 共同睡眠宿。

 四百十二人。

 夜市の上層、古い石造り。

 大部屋の天井から、夢を入れる紙灯籠〈スリープ・ランタン〉が千個下がる。

 一人に一つではない。

 家族で共有。

 病棟で共有。

 労働組合で共有。

 名前を出せない者同士で共有。

 共有は支えになる。

 同時に、切り分けにくい。

 ティアの救難班が遠隔通信へ入る。

『学院側で、読み上げ支援を送ります。ただし指揮は現地』

「何ができる」とエリア。

『灯籠札の色分類。文字を読めない人へ、音と触覚で出口を伝える』

「現地責任者」

 宿の管理人が手を上げる。

 眠気で目が半分閉じている。

「私、ネブ・ハルタ」

「避難権限」

「宿の建物と名簿。個人の夢は持たない」

「よい回答」とセレナ。

「褒められた?」

「権限範囲を分けた」

 ティアが通信越しに言う。

『現地責任者ネブ。私は補助。停止命令は、各部屋係が出せます。私だけでは出しません』

 以前なら、彼女は全体をまとめた。

 今は、自分がまとめない仕組みを作る。

 遠方で続く暮らしから届く通信一つで、目の前の危機は解決しない。

 だが、彼女の失敗から生まれた手順が、知らない四百人の足元へ届く。

「一階、歩行可能者。青線」

「二階、担架。橙線」

「地下、夢内混線。白線」

 アサが、地下へ向かう。

「私も」とソムナ。

「記憶費用」とメイ。

「夢綴りは使わない。現在地札だけ」

「使用前に申告」

「分かった」

「分かった、と言ったことを記録」

「細かい」

「あなたが忘れるから」

「夜明けまで」

「夜明けまででも、身体は今ある」

 ソムナは返事をする。

「うん」

 地下室。

 百二十人が、同じ夢へ接続されている。

 故郷の祭り。

 本当の故郷ではない。

 十二の土地の祭りを混ぜた慰め夢。

 眠っている者たちは、それぞれ別の帰れない場所を持つ。

 市場は、万人向けの「故郷」へ編集した。

 提灯。

 太鼓。

 焼き菓子。

 川。

 誰の土地にもありそうで、誰の土地でもない。

「起こす?」アサ。

「全員へ同じ出口は出さない」とソムナ。

「どう分ける」

「身体反応。名前。事前札」

 寝台ごとに札を見る。

『急な覚醒不可』

『呼名で退出』

『音で混乱』

『触覚可』

『本人決定保留』

「百二十」

「一人ずつ」

「時間」

「一人ずつ」

 ソムナは、急がない。

 急がないことが、最速になる場合がある。

 誤って一人を起こせば、共有夢全体が暴れ、百二十人を巻き込む。

「一番から」

 アサが名前を読む。

「サエ。ここは共同睡眠宿。祭りの夢。外で異常が起きている。戻る?」

 眠る女性の指が動く。

 一回。

 事前札では、一回が「待つ」。

「待つ」

 二番。

「ロム。戻る?」

 二回。

「戻る」

 出口札を本人の手へ触れさせる。

 三番。

 四番。

 戻る者。

 待つ者。

 聞こえない者。

 ソムナは、待つ者を失敗と数えない。

 紙灯籠獣が、共同睡眠宿へ向けて脚を上げる。

 市場商品庫。

 ロロと札守が、黒い市場所有索へ工具を入れている。

「固い!」ロロ。

「五十年、一度も外していない」

「保守点検は!」

「外す前提がなかった」

「最悪!」

「売買中に外れたら困る」

「非常時に外れない方が困る!」

「今、分かった!」

「遅い!」

「遅くても、今外す!」

 二人が索を引く。

 ロロの残った補助腕二本。

 札守の両手。

 黒索は、夢と現実の両方へ食い込んでいる。

「夢側の結び目」とロロ。

「見えない」

「触覚で。冷たい所!」

 札守が探る。

「ここ」

「それ、所有者一括」

「切る?」

「切らない。輪を開く」

「違い」

「切ると個別札も飛ぶ。輪を開けば、市場所有だけ外れる」

「工具」

「細い鍵」

 札守は、首から古い鍵を外す。

「初代夜市の鍵」

「持ってたの!」

「開ける場所がないと思っていた」

「何のための鍵!」

「持っているための鍵だった」

「一番嫌いな道具!」

「今、役に立つ!」

 鍵が、黒索の小さな穴へ入る。

 回らない。

「逆」とロロ。

「五十年、右へ回した」

「だから今、左!」

「縁起が悪い」

「機械に縁起を入れるな!」

 左へ回す。

 黒索の輪が開く。

 市場の商品庫から、太い一本の所有関係が外れる。

 夢灯籠が、一斉に床へ落ちる。

 割れない。

 個別の来歴札が、それぞれ別の光を出す。

 紙灯籠獣の胸が、ぐらつく。

「足、浅くなった!」エリア。

「止まった?」ハル。

「一拍だけ!」

「一拍あれば走れる!」

 ハルは、共同睡眠宿へ向かう。

 少年は救護担架へ渡した。

 左肩、痛み五。

 走るだけなら四へ下がる。

 獣の足が下り始める。

 宿まで、三十歩。

 ハルは、人を担がない。

 建物を支えない。

 夢を切らない。

 いま必要なのは、獣の脚へ届くこと。

「何する!」カイル。

「脚の灯籠索を、開いた市場所有輪から外す!」

「位置」

「見える!」

 紙の脚に、黒い帯。

 市場の商品庫から吸った灯籠を、獣へまとめる帯。

「夢側だ!」ソムナ。

「現実の刃で切れる?」

「物理枠と重なってる部分だけ!」

「そこまで登る!」

「左肩!」

「足で行く!」

 ハルは屋台の屋根へ跳ぶ。

 残光像が、周囲を歩く。

 父に似た影。

 学院の生徒。

 翼鯨の市場。

 走る森の子供。

 鏡の中の花婿。

 列車の車掌。

 ルメの紙灯籠。

 過去の旅が、足場と障害へなる。

 ハルは、像を踏まない。

 実体がないからではない。

 誰かの記憶を、自分の道具と決めない。

 屋根。

 梁。

 灯籠枠。

 ノクスが先を走る。

「お前、来たのか!」

「キュ!」

「戻れ!」

「キュウ!」

「命令が通らない!」

「正式乗員」とロロの通信。

「認めた覚えない!」

「魚の保管場所を知ってる!」

「それだけで乗員になるな!」

 ノクスが、獣の脚へ飛び移る。

 紙枠は、触れるたび景色を見せる。

 老夫婦の朝。

 戦争のない故郷。

 失敗しなかった試験。

 亡くした子の成長。

 嫌いな父と笑う食卓。

 ハルの足が、一つの灯籠へ沈む。

 地球。

 雨の夜。

 父が、台所で何かを作っている。

 背中。

 灰色航路と同じ。

『ハル、味見』

 声。

 初めて。

 顔は振り向かない。

 味噌汁の匂い。

 古い換気扇。

 濡れた上着。

「父さん」

 足が止まる。

 紙灯籠獣の脚が下りる。

「ハル!」エリア。

 声が遠い。

『味見』

 父の手が、椀を差し出す。

 受け取れば、顔が見えるかもしれない。

 夢の海で追わなかった影。

 今は、向こうから近づいている。

「来歴」とハル。

 自分で言う。

「何」とエリア。

「この夢の来歴!」

 セレナが、灯籠札を遠隔で読む。

『所有者不明。記録時刻不明。編集者不明。夜市旧商品番号のみ』

「本人同定」

『不能』

「俺の記憶?」

『証明不能』

 父が椀を差し出す。

『冷めるぞ』

 その言い方を、ハルは知っている。

 だからこそ、危険。

 知っている言い方を使う夢が、本人とは限らない。

「今は、食べない」

 ハルは灯籠から足を抜く。

 父の姿が、紙の奥へ沈む。

『ハル』

 声が追う。

 振り向かない。

「記録して!」

『父親に似た男性声。所有者、時刻、編集不明。ハルは接触を継続せず』

「ありがとう!」

 足を動かす。

 選ばなかった痛みが、また増える。

 だが、その痛みも自分のもの。

 勝手に「本物だった」と直さない。

 黒い帯へ到達。

 帯は、紙ではない。

 細い売買札を何百枚も縒った索。

『市場所有』

『持主不明』

『返却不能』

『処分可』

 同じ文言。

 持ち主が分からないから、市場のもの。

 返せないから、処分してよい。

「ここだ!」

 ハルは刃を抜く。

 右手。

「切るな!」ロロ。

「さっき切れって!」

「輪を開け! 個別札を残す!」

「鍵穴!」

「結び目の裏!」

 獣の脚が動く。

 ハルの身体が宙へ振られる。

 左手で掴めば、肩が壊れる。

 ノクスが黒帯へ噛みつく。

「お前は歯を使うな!」

 ノクスが、帯の結び目を引く。

 裏側に、小さな穴。

「見つけた!」

「鍵」とロロ。

「ない!」

「工具で形を作る!」

「何番!」

「初代規格なら、三角に欠けた丸!」

「説明が下手!」

「見れば分かる!」

 ハルは短剣の鍔を使う。

 三角に欠けた丸。

 合わない。

「大きい!」

「柄の留め具!」

 短剣の柄を外す。

 内部の留め金。

 三角に欠けた丸。

 王都製の古い規格が、夜市の初代鍵と同じ形を持つ。

 偶然ではない。

 古い制度は、遠い土地でも同じ部品を使う。

 歴史の統一規格は、支配の痕跡であると同時に、非常時の互換性にもなる。

 善悪は、部品へ刻まれない。

 使う者が決める。

「回す!」

「左!」

「分かってる!」

 留め金を左へ。

 黒帯の輪が開く。

 獣の脚から、夜市商品だった灯籠がばらばらに外れる。

 空へ落ちる。

「受ける!」エリア。

 路図を広げる。

 灯籠ごとに、別の着地点。

 返却先あり。

 保留。

 身体危険。

 所有者不明。

 同じ倉庫へ戻さない。

 紙灯籠獣の前脚が、半分ほど薄くなる。

 だが、消えない。

 市場外の灯籠が、さらに集まっている。

「都市全体」とソムナ。

「局所切離し、成功」とセレナ。

「成功?」ハル。

「共同睡眠宿への直撃を、現在時点で回避」

 獣の脚は、宿の横へ落ちる。

 足跡の白い波が、壁を舐める。

 地下の百二十人が、一斉に息を吸う。

 ソムナとアサが現在地を読み続ける。

「ここは共同睡眠宿」

「祭りの夢」

「外に異常」

「戻る、待つ、今は決めない」

 一人ずつ。

 全員を起こさない。

 全員を眠らせたままにもしない。