第576話 第十二章「燃える灯籠獣」後編

 獣の脚から外れたハルが落ちる。

 高さ、二十歩。

 左肩は使えない。

 夢灯籠が周囲を舞う。

 どれかを掴めば、他人の夢へ入る。

「ハル!」カイル。

 赤い盾が、下へ開く。

 ハルは盾へ着地。

 衝撃が、カイルへ返る。

「ぐっ」

「痛み!」

「三」

「嘘」とメイ。

「四」

「もう一度」

「五」

「盾を閉じる!」

「ハルが」

「着地した!」

 カイルが盾を閉じる。

 ハルは転がり、石床へ落ちる。

「無事?」

 エリアが駆け寄る。

「足、ある。肩、六」

「五で停止条件」

「今、六になった」

「順番の問題じゃない!」

「獣の脚は外した」

「局所だけ」

「分かってる」

「父の影」

「声がした」

「追わなかった?」

「追わなかった」

「つらい?」

「つらい」

「うん」

 エリアは、慰めの正解を言わない。

「あとで記録を見る?」

「今は見ない」

「保留」

「保留」

 彼女がハルの左腕を固定する。

「歩ける?」

「歩ける」

「走らない」

「次の脚」

「あなたは止まる」

「でも」

「役割を渡す」

 ハルは、紙灯籠獣を見る。

 次の脚は、都市北東。

 共同睡眠宿を外れた。

 その先に、別の地区。

 走りたい。

 自分が行かなければと思う。

「誰へ」

「市場保安員。宿の係員。ティアの読み上げ支援。イヴァの救難列車」

「イヴァ?」

 遠くで、列車鐘が鳴る。

 夜市の上層線。

 公共救難列車が到着する。

 先頭にイヴァはいない。

 運転席にはメラ。

 車掌台にはテト。

 各車両の扉へ、別々の停止権を持つ乗務員。

 通信石から、イヴァの声。

『中央から「全列車を夜市へ」と要請が来た』

「来るのか」とハル。

『拒否した』

「なぜ!」

『全列車を一か所へ集めれば、他地区の救難が止まる。夜市へは三編成。残りは各地区の判断』

「では、三編成」

『私が決めたのではない。乗務員と地区が選んだ』

 線路を止める乗務員争議〈ブレーキ・ストライク〉

 昨日まで、運行を止める行為は危機に見えた。

 今夜、その争議で作られた拒否権が、中央集中を防いでいる。

『私は今、運転席にいない』イヴァ。

「どこ」

『休憩室。勤務外』

「緊急時に?」

『勤務外の人間が「自分だけは働ける」と言い始めると、また一人へ権限が集まる』

「正しい」とエリア。

『正しいかは、朝に監査する。今は、交代要員が動いている』

 救難列車の扉が開く。

 担架。

 水。

 遮光布。

 夢内退出に同意しない人を、安全に眠らせたまま運ぶ寝台車。

 ハルは、自分が走らなくても救難が進むのを見る。

 安心。

 悔しさ。

 両方。

「役割を渡せる?」エリア。

「渡す」

「誰へ」

「今来た人たちへ」

 言葉にする。

 自分だけの物語にしない。

 ロロの補助腕は、残り二本。

 焼けた二本を、救護区でメイが外している。

「痛い?」ハル。

「幻肢みたいに、ある気がする」

「夢の腕?」

「機械でも、使ってた時間が長いと身体が場所を覚える」

「直す?」

「あとで」

「今すぐって言わない」

「言いたい」

「言わない?」

「市場の灯籠枠を直す方が先。でも、自分の腕を後回しにすると、メイに殴られる」

「殴らない」とメイ。

「帳簿で?」

「治療順を本人と決める」

「怖い」

「殴るより?」

「長く効く」

 ロロは、残った二本で作業板を持つ。

「腕の修理、応急固定を先。完全交換は朝。市場枠は、他の修理工へ手順を渡す」

「渡せる?」ハル。

「ぼくの方が速い」

「聞いてない」

「……渡す」

 札守の老女が、若い修理工たちを連れてくる。

「手順を」

「黒索を外した後、個別札を色分け。夢紙へ直接釘を打たない。枠の現実側だけ固定。分からない糸は切らない」

「記録」

「ぼくの名前」

「ロロ」

「技術者名も来歴に必要」

 ロロは、自分の修理へ名前を残す。

 以前なら、直れば誰が直したかはどうでもいいと言った。

 だが、責任を追えることは、功名ではない。

 次に壊れた時、誰へ聞くかを残す。

 夜市の眠気は、一度、薄くなる。

 市場所有索を外したため。

 局所的。

 一時的。

 原因は不明。

 セレナは、臨時掲示へそう書く。

『確認できた事実』

・紙灯籠獣は夢灯網と現実空間の双方へ像を持つ。

・足跡周辺で急激な睡眠移行が起きる。

・来歴不明、返却先不明、撤回条件不明の灯籠が多い区画ほど、足跡の反応が深い。

・市場所有索を外すと、夜市内の一部灯籠は獣から分離した。

・上記は局所観測であり、発生原因、全体構造、恒久的解決を示さない。

・カイル・アークレイの原本夢だけを発生源とする証拠はない。

・ヴェル・ノーマの装置停止後も現象は継続している。

「最後二つ、必要?」市場保安員。

「必要」とセレナ。「解決した事件へ、次の危機をすべて載せない。犯人が捕まったから、以後の異常も犯人のせいだと決めない」

「では、誰のせい」

「不明」

「不安になる」

「不明を偽名で埋めても、安全にはならない」

 掲示へ、出典時刻。

 観測者。

 訂正窓口。

 夢市場の新しい来歴表示は、商品だけでなく、危機情報にも使われる。

 何を知っているか。

 誰が見たか。

 何を知らないか。

 都市が眠りへ落ちる時、正しい噂は存在しない。

 あるのは、出所を追える情報だけだった。

 夜市の朝の負担〈モーニング・コスト〉は、朝を待たずに始まった。

 夢から戻れば、現実がある。

 筋肉は寝台に置いたまま。

 腹は空いたまま。

 借金は減らない。

 死者は死んでいる。

 覚えたはずの剣技は、貸出期限を過ぎれば指から消える。

 慰め夢の家族は、食卓からいなくなる。

 夢を売る者は、夢の入口を飾る。

 夢を買う者は、夢の中身を選ぶ。

 出口で待っている現実を、商品説明へ書く者は少なかった。

 救護区の床へ、三十七人が座っている。

 目覚めた者。

 眠ったまま運ばれた者。

 夢と現実の間で、まだ返事を選べない者。

 メイは、全員へ同じ質問をしない。

「名前を言える?」

 言える者。

「名前を今、言いたくない?」

 言いたくない者。

「指を一回動かせる?」

 声が出ない者。

「何もしないでいたい?」

 動くことも選びたくない者。

 医療とは、答えを得る仕事ではない。

 今出せる答えの形を、一人ずつ探す仕事である。

 白灯籠車の少年は、毛布へくるまっていた。

 札には、まだ「発信協力児童A」。

「名前」と市場保安員。

「公開しない」と少年。

「治療記録には」

「先生だけ」

「市場の契約名簿へ」

「戻さない」

 メイが頷く。

「医療記録と市場名簿を分ける」

「同じ紙じゃだめ?」

「同じ紙に書くと、治療のために言った名前が、違約金を取るために使われる」

「今までは?」

「同じだった」

「じゃあ、僕のせいで変わる?」

「あなたのせいではない。あなたが被害を受けたから、変える理由が見えた」

 少年は毛布の端を噛む。

「ぼく、契約した」

「うん」

「お金、もらった」

「うん」

「夢を売った」

「うん」

「じゃあ、被害者じゃない」

「契約したことと、説明されなかった危険で傷ついたことは、同時にある」

「悪いことした?」

「発信器になって、他人の夢を動かした。その行為は調べる。でも、あなたへ何が説明され、何を選べたかも調べる」

「全部、僕が悪いか、全部、僕は悪くないかじゃない?」

「身体は、そんなに便利に二つへ分かれない」

 メイは、薄い粥を渡す。

「食べる?」

「お金」

「救護費」

「あとで取る?」

「今夜市が払う。誰が最終負担するかは、審査」

「無料じゃない」

「無料と嘘は言わない。でも、払えるまで食べさせないとも言わない」

 少年は匙を持つ。

 手が震える。

「朝、起きたい夢を売った」

「聞いた」

「返ってきた?」

 ソムナが、保留灯籠を持って近づく。

 小さな灯籠。

 中に、窓から朝日が差す部屋。

「来歴札」と少年。

 新しい言葉を覚えている。

「所有者、あなた。記録時刻は五年前。編集者、不明。保護者同意あり。現在のあなたの同意、まだ。発信器用に一部加工。原本かは不明」

「分からないことばっか」

「うん」

「これ、僕の?」

「あなたのものだった可能性が高い。でも、今すぐ戻せとは言わない」

「返したら、朝起きられる?」

「分からない」

「夢を売ったから、起きられなくなった?」

「分からない」

「役に立たない」

「うん」

 ソムナは否定しない。

 夢葬師の役割を、答えを持つ人にしない。

「でも、選べる。今見る。封印する。内容を聞かずに持つ。後で確認する。売らない。何も決めない」

「朝まで」

「朝を過ぎても」

「契約の期限」

「停止中」

「市場がまた始まったら」

「今の同意が必要になる」

「嫌って言える?」

「言える」

「大人が困る?」

「困る人はいる」

「じゃあ」

「困らせてもいい」

 少年は、灯籠へ手を伸ばさない。

「今は、粥」

「記録する?」

「する」

 ソムナが札へ書く。

『本人、現在は夢の受領を保留』

『食事を選択』

『保留に期限を付けない』

 夢より先に、粥。

 物語としては地味である。

 生活としては、正しい順番だった。

 新しい来歴札が付いた三つの夢だけが、紙灯籠獣から切り離され、持ち主へ返せる状態になっていた。

 一つ目。

 老女の夢。

 亡くなった妻と、毎朝同じ窓を開ける夢。

「返却しますか」と札守。

 老女は灯籠を見る。

「今日は、見ない」

「本人の夢です」

「だから、今日は見ない」

「再販売」

「しない」

「封印期間」

「七日」

「七日後、自動開封?」

「勝手に開けるな。七日後に、もう一度聞いて」

 札守は書き直す。

『七日後、再確認』

『自動開封なし』

「夢が戻ったのに、見ないのか」と若い商人が言う。

 老女が睨む。

「返ってきたものを、すぐ使わなければ損だと思うのは、商人の病気だよ」

 二つ目。

 若い配達人の夢。

 空中綱を恐れず走れる技能夢。

 来歴には、元の技能者が三人。

 編集者が二人。

 転倒場面を削除。

 足首の古傷情報を削除。

 成功場面だけを連結。

「買った時、そんな説明はなかった」と配達人。

「返却後、再使用する?」セレナ。

「これを使って、仕事を取った」

「使用すれば、転倒危険がある」

「使わなければ、仕事を失う」

「選択肢」

「返金」

 札守が顔をしかめる。

「全額は」

「説明がなかった」と配達人。

「一部は、技能を使った」

「使えたから、危険説明が要らない?」

 カイルが口を挟まない。

 王族の補償命令へしない。

 札守と配達人が、損失を言葉へするのを待つ。

「市場側七割返金」と札守。

「十割」

「技能収益が」

「その仕事で足を傷めた」

「証明」

 メイが診療記録を出す。

「使用開始後、右足首の反復損傷。因果は確定していない。ただし、夢に削除された元技能者の古傷部位と一致」

「八割」と札守。

「九」

「八・五」

「半分の銅貨はない」

「次回説明費を免除」

「次回は買わない」

「では、九割」

「採用」

 完全な正義ではない。

 配達人は仕事を失うかもしれない。

 市場は金を失う。

 足の痛みは残る。

 それでも、成功夢を返して終わりにはしない。

 三つ目。

 少年兵だった男の夢。

 戦場で一度も恐怖を感じなかった夜。

「これは編集版」とセレナ。「恐怖反応が全て削除されている」

「知っていた」と男。

「現在も欲しい?」

「欲しい」

「理由」

「眠るため」

「原本もある」

「見ない」

「編集版だと表示したまま?」

「それでいい」

「販売ではなく、本人使用」

「それでいい」

「朝の負担。起床後、二時間の感情鈍麻。家族との会話困難」

「書いてくれ」

「使う?」

「今夜は使わない」

「なぜ」

 男は、紙灯籠獣を見る。

「町じゅうが眠るかもしれない夜に、自分だけ怖くない夢へ逃げると、起きた時に嫌になる」

「それは罪ではない」とアサ。

「分かってる。罪じゃなくても、今日はしない」

 札へ書く。

『編集版と理解』

『本人所有』

『今夜は使用しない』

『明日以降、再選択』

 三人とも、夢を返された。

 三人とも、すぐには使わなかった。

 返却とは、使用命令ではない。

 ソムナは、救護区の隅で立ち止まる。

「メイ」

「何」

「今朝、何を食べた」

「答えを教えてほしい?」

 すぐには言わない。

 失った記憶へ、他人の正解を流し込まない。

「確認したい」

「何を覚えてる」

「薄い粥、たぶん。器は白。窓が……右か左か分からない」

「味」

「塩が少ない」

「一緒にいた人」

「あなた」

「確信」

「記録で見た」

「自分では」

「分からない」

「私が答えると、それが自分の記憶みたいになるかもしれない」

「でも、夜明けまで戻らない」

「戻る保証は術式記録にある。毎回、戻った?」

「今までは」

「今夜も絶対とは言えない」

「怖い」

「うん」

「教えて」

「何を」

「事実として。私の記憶ではなく、あなたの観測」

 メイは、言葉を分ける。

「私の観測。今朝、あなたは薄い粥を食べた。器は青。診療室ではなく、宿の廊下。窓は左。あなたは苦い種を粥へ落として、私に怒られた」

「怒った?」

「怒った」

「何て」

「食べ物と薬を混ぜるな」

「それは言いそう」

「あなたは、粥も薬も同じく身体へ入ると言った」

「それも言いそう」

「これは、私の記憶。あなたへ移さない」

「うん」

「夜明けに戻ったら、違いを確認する?」

「する」

「戻らなかったら」

「戻らなかった部分を、あなたの記録で埋めない。事実として持つ」

「治療者なのに、直さない?」

「身体に必要なことは支える。記憶の穴を、私の話で本人の記憶にしない」

 ソムナは、少し困ったように笑う。

「みんな、直さなくなった」

「必要なものは直す」

「何が必要か」

「一人で決めない」

 その答えも、完成ではない。

 だが、以前より壊れにくい。

 カイルは、救護区の椅子へ座っている。

 立とうとするたび、メイが見る。

 見るだけ。

 命令しない。

 それが一番効く。

「私は動ける」

「判断力」

「少し戻った」

「睡眠」

「七分」

「三日で三時間十四分」

「増えた」

「足りない」

「町が」

「あなたが寝ても、町はある」

「私が盾を」

「一枚で眠気を受けて、膝をついた」

「角度を変えれば」

「次は、盾ではなく人へ任せる」

「王子が寝ている場合か」

 ハルが隣へ座る。

 左腕を固定している。

「王子じゃない夢も持ってるんだろ」

「だから?」

「港の料理人は、徹夜で鍋を持つ?」

「店による」

「健康な店なら交代」

「王家は健康でない」

「知ってる。だから直すんじゃないのか」

「今、この危機で」

「今、寝ることも修理だ」

「ロロの言い方を盗むな」

「来歴表示。出典ロロ。編集ハル。販売範囲カイル一名」

「返却する」

「受け取れ」

 カイルは、原本灯籠を胸へ抱えている。

 封印。

 私有。

 非公開。

 灯籠獣へ細い反応はある。

「これを町から出せば」と彼。

「獣の反応が減るかもしれない」とソムナ。

「試す?」

「原因ではない。反応線一本」

「一本でも」

「あなたの原本を、危険物だからまた遠ざける?」

 カイルが黙る。

 十四年前。

 危険だから。

 子供だから。

 王子だから。

 大人たちが夢を持っていった。

「持つ」とカイル。

「危険なら」とメイ。

「身体と一緒に移動する。夢だけを隔離しない」

「同意」

「寝る」

 全員が、一度だけ動きを止める。

「今?」ハル。

「寝ろと言ったのはお前だ」

「驚いただけ」

「何分」とメイ。

「二十分」

「十七」

「なぜ減らす」

「起こされる前提で決める癖」

「二十分。途中で身体異常があれば起こす。夢内容は編集しない」とソムナ。

「お前は入るな」

「入らない。出口外」

「母の声を使うな」

「使わない」

「苺」

「本物の苺を、起きた後」

「一個」

「二個」とハル。

「なぜ増やす」

「借金」

「一個半」

「交渉は起きてから」

 カイルは、椅子ではなく寝台へ移る。

 自分で。

 原本灯籠を、手の届く場所へ置く。

 右手首の星痕は一枚も開いていない。

「現在地」とソムナ。

「夢灯都市。夜市救護区。灯籠獣発生中」

「隣」

「ハル。メイ。ソムナ。ノクス」

 ノクスは寝台の下で、燻製魚を食べている。

「それ、ロロの」とカイル。

「キュ」

「眠る前に気づくな」とハル。

「王族の観察力」

「狐の盗難にしか使われてない」

「平和利用だ」

「平和?」

「眠る」

 カイルは目を閉じる。

 一枚目の盾が、薄く浮く。

「カイル」とハル。

「聞こえる」

「夜市。俺がいる」

 盾が消える。

 カイルは、呼吸を三度整える。

 眠る。

 灯籠獣が歩いている町で。

 王子が眠ることは、責任放棄ではない。

 王子が眠っても動く町を作ることが、責任だった。

 十八分後。

 カイルは、自分で目を開ける。

 二十分に足りない。

「早い」とメイ。

「夢を見た」

「内容」

「言わない」

「身体」

「吐き気なし。眠気、まだある。盾、なし」

「食事」

「苺」

 ハルが、二個出す。

「一個半と言った」

「半分は俺」

「なぜ」

「一緒に食べる」

「借金返済になっていない」

「共同購入」

「契約が雑だ」

「食え」

 カイルは一個。

 ハルは半分。

 残り半分。

 ノクスが狙う。

 カイルが先に取る。

「これは私の」

「キュ」

「来歴札を付けるか」

「食べ物へ七枚は多い」とハル。

「所有者、カイル。取得者、屋台。支払者、ハル。編集者なし。同意、共同。販売範囲、二人。返却条件、胃へ入ったため不可」

「市場に毒されてる」

「市場を改善した成果だ」

 苺は酸っぱい。

 薬ではない。

 母でもない。

 今夜、友人と食べた果物。

 新しい来歴。

 灯籠獣は、夜市から離れる。

 止まってはいない。

 小さくもなっていない。

 市場所有索を外した分だけ、片方の前脚が不揃いになった。

 歩くたび、町の別の灯籠を吸う。

 家。

 診療所。

 役所。

 劇場。

 学校。

 名簿のない宿。

 白い火の身体が、都市の塔より高くなる。

 夢灯網の管理局長ユーディ・カンデラから、公開通信。

『全区画へ。中央管理塔への夢灯籠集中は行わない。各区画で身体安全を確保し、来歴札のある灯籠を分類。未確認灯籠は切断せず保留』

 共有夢事件で危機局長だった人物。

 共有予知を一つの命令へ変え、群衆を動かした失敗を知っている。

『市民へ。眠気を犯罪や意志不足と扱わない。眠った者の所持品を勝手に処分しない。夢内容を聞き出さない。現在地を返し、本人の退出条件を確認』

 制度は、一度の事件で完成しない。

 失敗した者が、次の失敗で違う選択をする。

 町は、その選択を積み重ねて続いていく。

 ハルたちは夜市の屋根へ上がる。

 全員ではない。

 ロロは補助腕の治療。

 メイは救護。

 アサとソムナは地下の退出支援。

 セレナは情報掲示。

 カイルは十八分の睡眠後、屋根の端。

 エリアは中央塔。

 役割が分かれている。

「進路」とハル。

 エリアの声が通信石から届く。

『北東から中央夢灯塔へ変更』

「なぜ」

『中央塔から、市内全区へ管理索が伸びている。獣の足跡が、索の密度へ寄っている』

「原因?」

『相関』

「壊す?」

『まだ。中央索を切れば、医療灯籠と退出灯も止まる』

「また、切れない」

「切れないのではない」とカイル。「分けてから切る」

「今夜中に?」

「分からない」

 知らない。

 王子が言う。

 地図師が言う。

 夢葬師が言う。

 証人が書く。

 それでも、足は動く。

 紙灯籠獣が、中央夢灯塔の前で立ち上がる。

 四脚だった身体が、二脚に見える。

 角が腕のように開く。

 巨人影。

 獣。

 人。

 どちらでもある。

 見た者の夢に合わせ、輪郭が変わっている。

「形も一つじゃない」とエリア。

「呼び名」とハル。

「灯籠獣で続ける。変更するなら観測理由を付ける」とセレナ。

「そこまで」

「呼び名が、対応を決める。獣なら狩ろうとする。巨人なら話そうとする。災害なら避難する。病なら治療する」

「今は」

「現象」

「呼びにくい」

「だから、勝手な対処が減る」

 中央塔の鐘が鳴る。

 夢灯網の時計。

 夜明けまで、二時間四十一分。

 市民の覚醒率が表示される。

 八十二。

 七十九。

 七十四。

 下がっていく。

 灯籠獣が塔へ触れる。

 白い火が、管理索を通って全区へ走る。

 夜市で眠気が再び強くなる。

 ハルの膝が落ちる。

「現在地!」

 エリアの声。

「夜市屋根! ハル! 起きてる!」

「隣!」

「カイル!」

「いる」

 カイルの声も、眠い。

「盾」

「出すな!」

「出してない」

「眠る?」

「今は立つ」

「俺は」

「立てないなら座れ」

 ハルは屋根へ座る。

 座ったまま、町を見る。

 何万人もの灯籠。

 何万人もの眠り。

 返された夢。

 返されていない夢。

 売られた記憶。

 記録されなかった朝。

 紙灯籠獣の胸に、無数の残光像。

 父に似た背中も。

 母の白い袖も。

 ルメの灯りも。

 名も知らない子供たちも。

 どれが本物かではない。

 どれが誰のものかも、まだ分からない。

「ハル」とカイル。

「何」

「苺大福の借金」

「今?」

「忘れる前に」

「二個」

「一個半」

「この町が起きたら、二個」

「条件が大きい」

「怖いから」

 カイルが、少し笑う。

「私もだ」

 夜明けまで、二時間四十分。

 警報が、都市全域へ流れる。

『覚醒率、七十パーセントを下回りました』

『現象拡大中』

『夜明けまでに町全体が同時睡眠へ移行する可能性』

『原因、未特定』

『恒久的解決、未確認』

『各区画は、身体安全と現在地確認を優先してください』

 誰も、答えを持っていない。

 だから、知らないことを隠さない。

 ハルは立てないまま、羅針盤の蓋を弾く。

 針は、灯籠獣を指さない。

 中央塔も。

 父の影も。

 カイルの原本も。

 針は、足元の屋根板を指す。

 現在地。

「まず、ここからだ」

 紙灯籠獣が、燃える両腕を広げる。

 町の全灯籠が、一斉に白くなる。

 王子は眠れない。

 今度は、町じゅうが眠ろうとしていた。