第577話 第一章「歩き出す紙の巨人」前編

巨人とは、大きな人のことではない。

 大きいだけなら、山も塔も王城も巨人である。

 腕があり、脚があり、こちらを見下ろす顔があっても、それだけでは人形にすぎない。

 巨人になるには、歩かなければならない。

 歩くとは、場所を選ぶことである。

 踏むものを選び、避けるものを選び、向かう先を選ぶ。

 ゆえに古い物語の巨人は、いつでも国を滅ぼした。

 身体が大きかったからではない。

 一歩を置く場所の相談へ、小さい者を参加させなかったからだ。

 夢灯都市に現れた紙の巨人も、歩いた。

 ただし、その一歩を選んだ者は、どこにもいなかった。

【現実/夢灯都市・夜市屋根/覚醒/夜明けまで二時間三十九分】

 紙灯籠獣は、二本の脚で立っていた。

 獣と呼ぶには腕がある。

 巨人と呼ぶには顔がない。

 災害と呼ぶには、胸の奥へ人の暮らしが映りすぎていた。

 燃える白い紙を幾重にも貼り合わせた身体。

 屋根ほど大きな肩。

 塔を越える頭部。

 目の位置には、誰かの台所。

 口の位置には、誰かの寝室。

 胸には、共同人格ルメの赤い糸を模した光が、完成しない円を描いている。

 腕を広げるたび、町じゅうの夢を入れる紙灯籠〈スリープ・ランタン〉が一斉に白くなった。

 屋根の上で、紙職人が眠った。

「倒れる!」

 ハルは走った。

 三歩。

 一、二、三。

 屋根瓦ならぬ、圧縮夢紙の薄板を蹴る。沈む。戻る。左肩を使わず右手で軒索をつかみ、身体を横へ投げた。

 紙職人の膝が折れる。

 屋根の端まで、あと半歩。

 ハルの右手が襟へ届く。

 左肩が抜ける方向へ引かれた。

「ロープ!」

 言えた。

 三まで数えられない時にしか出なかった「助けて」の代わりではない。具体的な道具の名だった。

 エリアの地図槍から銀線が飛ぶ。

 ハルの腰を回り、屋根棟へ固定。

 同時に、深紅の盾が足元へ展開する。

「景気の悪い寝相だ!」

 カイルが紙職人の身体を盾で受けた。

 盾は受け止める。

 痛みは受け止めない。

 カイルの背が一瞬だけ固まり、右籠手の輪状星痕が赤く開いた。

「肋骨」

 メイの声が飛ぶ。

「昔のだ」

「痛みは今」

「二」

「十段階で」

「王族式で二」

「一般式へ換算」

「四」

「交代」

「あと一人――」

「交代」

 カイルは盾を消した。

 消せた。

 王子が盾を消せるようになるまで、王国は何百年もかかった。

 盾を出す訓練は、一日で始められる。

 盾を出さない決断は、母の死と、数え切れない失敗を要した。

 紙職人は眠ったまま呼吸している。

 メイが瞳孔と脈を確認する。

 アサが胸へ「退出可」の札を置く。

「起こす?」ハル。

「身体を安全へ」とアサ。「夢から出すかは、その後」

「今、屋根が燃えてる」

「だから身体を先に」

 現実は、本人の同意を待たずに燃える。

 治療は、現実を理由に本人のすべてを奪ってよいわけではない。

 その二つは、いつも同時に正しい。

 白い火が、夜市の軒から軒へ走る。

 赤くない。

 熱はある。

 煙もある。

 しかし炎の中心だけが白く、燃えた紙へ夢の残像を映す。

 焼け落ちた看板の中で、知らない家族が朝食を取る。

 崩れた劇場幕の上で、昨日上演されなかった芝居が続く。

 火の粉一つ一つに、返されていない夢の断片がある。

「火を消すな!」

 ロロが怒鳴った。

 補助腕は二本しかない。

 夢夜市の火災で焼けた二本は、救護区の整備台へ寝かされている。残った二本のうち一つで圧力計、もう一つで火止め板。本人の左手は工具、右手は吸入器を握っていた。

「消すなって何!」ハル。

「水槽の水を直接掛けるな! 夢紙が水吸って三倍になる。屋根ごと落ちる!」

「じゃ、何を」

「現実側の枠を外す! 燃える紙と建物を分けろ!」

「分け方!」

「黒い留め糸だけ! 橙は夢灯、白は避難標、赤はルメの仕事糸! 切るな!」

「色、多い!」

「人生の糸を二色で済ませようとすんな!」

 ハルは黒い糸を探す。

 ノクスが先に噛んだ。

 二本の尾が別方向を指す。

 右の尾は焦げた糊。

 左の尾は、貼り替えられた札。

「どっち」

「ナァ!」

「両方違う?」

「グルル」

「俺の翻訳に怒るな!」

 ノクスはハルの耳を噛み、黒糸の結び目へ前脚を置く。

「そこ!」

 ハルが短刃を入れる。

 枠だけが外れる。

 燃える夢紙は屋根から離れ、エリアの銀線へ吊られた。

「処理先」とエリア。

「空いてる広場!」

「誰にとって空いている」

「今それ言う?」

「地図上は空地。現実には眠った人が十二人」

「じゃ、川!」

「水路は夢灯網の冷却路。紙が詰まれば中央塔が止まる」

「空!」

「風下に診療所」

「どこも駄目じゃん!」

「だから、切る前に置き先を決めるの!」

 エリアの声が速い。

 未知の構造へ興奮しているのではない。

 選べる場所が減る時、彼女の言葉は地図の線より鋭くなる。

 カイルが半マントを外し、燃える紙の下へ広げた。

「ここへ落とせ」

「燃えるぞ」

「防炎礼装だ」

「王子の服って便利」

「外交と火事へ同じ服で行ける。国家の節約だ」

「一着いくら」ロロ。

「知らん」

「燃やす前に調べろ!」

「国が残れば請求しろ!」

「国が残らなかったら誰に!」

「ハル」

「なんで俺!」

「地球通貨で払え」

「桁が分かんない!」

 冗談がある。

 怖い。

 だから、ある。

 紙の巨人が一歩を出す。

 北脚。

 夜市の屋根が震える。

 脚の表面へ、町の区画札が貼られている。

 鐘紙街。

 屋根芝居区。

 睡蓮棚町。

 外灯区。

 名簿のない宿々。

 市場地下層。

 統合診療所。

「町ごとの札」とセレナ。

 六角単眼鏡を右眼へ当てる。

 左眼は煙に弱い。右手首は記録筆の使いすぎで固まり始めているため、筆を左へ持ち替えた。

「巨人の皮へ貼られた順序、記録します。誰も剥がさないで」

「燃えてる」とハル。

「燃えた位置も証拠」

「救助と証拠、どっち」

「救助。だから位置だけ記録し、現場保全は捨てる」

 セレナは羽根型札を一枚だけ飛ばす。

 全部を記録しない。

 証拠を守るため人を残さない。

 巨人の北脚は、遅い。

 一歩へ九秒。

 南脚は、五秒。

 右腕は、二秒。

 左腕は、ほとんど動かない。

「重いところほど遅い」とハル。

「見たままでは」とセレナ。「札が多い区画ほど遅い、可能性。重量は未測定」

「測る!」

 ロロが飛び出す。

「二本で?」ハル。

「二本しかないから、他の手を借りる!」

 近くの若い修理工へ圧力計を渡す。

「針が三を越えたら言え。読める?」

「読める」

「ぼくの工具を落とすな」

「いくら」

「落としたら二百。落とさなかったら危険手当十」

「逆じゃない?」

「責任と報酬は別!」

 他人へ道具を渡す。

 ロロにとって、それは補助腕を一本増やすより難しい修理だった。

 巨人が人へ触れる。

 殴らない。

 つかまない。

 紙の指が屋根の上を撫でるだけ。

 触れた者の灯籠が白くなり、身体が眠る。

 夢灯網の公開表示。

『市民覚醒率、六十八パーセント』

 二分前より二。

『六十七』

 一分を待たず、さらに一。

 ユーディ・カンデラの声が全区へ届く。

『各区画へ。選択肢を三つ。締切を一つ』

 声は低い。

 口元を隠す黒い半面紙の向こうでも、言葉が短い。

『第一、覚醒者は現在地を申告し、身体救難へ参加。第二、眠気が強い者は安全姿勢を取り、同伴者を一人決める。第三、判断不能者は、最寄りの睡眠救護所へ移送。夜明けまで二時間三十四分。夢内容の申告は求めない』

「中央へ集めない」とエリア。

「前回の失敗を変えた」とセレナ。

 ユーディは全員を一つの広場へ追い込まない。

 各区画で身体を守る。

 ただし、各区画の判断だけでは巨人の全体像が見えない。

 失敗を修正すれば、別の欠点が出る。

 制度が生きているとは、欠点がなくなることではない。

 欠点が移動した時、それを新しい誰かの人格へ押しつけずに見つけ直せることだ。