第578話 第一章「歩き出す紙の巨人」後編

 分散避難は、地図の上では美しい。

 人を一か所へ集めず、火と眠りの波から距離を取る。

 道を六方向へ分け、広場の過密を避ける。

 現実では、六方向へ六種類の困り方がある。

 鐘紙街では、目覚めた者が眠った家族を運ぶ担架を持っていない。

 紙劇場では、舞台幕を防火布として使うか、落下物を受ける網として残すかで役者と救護員が争う。

 名簿のない宿々では、現在地を申告すれば追跡者に見つかると恐れ、避難放送へ返事をしない者がいる。

『名簿外宿へ』ユーディの声。『氏名は不要。建物番号も不要。火の有無、眠っている身体数、動ける人手だけを、三つの灯で返してください』

 一灯。

 火あり。

 二灯。

 眠った身体あり。

 三灯。

 救助者が必要。

 屋根の奥で、三つすべてが点く。

「場所が分からない」と若い救難員。

「分かる範囲で行く」とラト。

「罠だったら」

「罠でも、火は本物かもしれない」

「誰を信じる」

「信じない。灯を観測する」

 信頼と救助を同じにしない。

 ラトは索を腰へ付け、屋根の番号を記録せず、灯の高さだけを測る。

「ハル、匂い」

 ノクスが先に鼻を上げる。

「焦げ糊、左。薬草、下。人、三……いや、ノクス」

「ナァ」

「人を数える匂いじゃない?」

「グル」

「生きてる人と眠ってる人、同じ匂いだよな」

「ナ!」

「怒るな。俺の鼻の話」

 ハルは軒下へ降りる。

 左肩へ体重を掛けず、腰索を二重にする。

 以前なら、ロープを一本だけで飛び込んだ。

 今は一本が切れた時の二本目を自分から求める。

「索、追加」

 若い救難員が驚く。

「さっき一本で」

「さっきは屋根。今は中が見えない」

「怖い?」

「うん」

 怖いと言える者は、勇敢である。

 この言い方も、物語は好む。

 実際には、怖いと言った後で笑われることもある。

 役立たずと数えられることもある。

 だから勇気とは言葉ではなく、怖いと言った者を作業から外さず、必要な道具を増やす周囲の習慣である。

「二本目、固定」と救難員。

「ありがとう」

「危険手当、あとで」

「ロロの知り合い?」

「この町は無料で燃えない」

 ハルは笑い、軒下へ入る。

 暗い。

 白火は外壁を走り、中へまだ入っていない。

 床に、三人。

 一人は老人。

 一人は若い男。

 一人は、抱かれた幼児。

 全員、眠っている。

 胸の灯籠札が白い。

「三人、確認」

『運べる?』ラト。

「老人と子供。若い人は脚が棚の下」

『棚を上げる』

「紙棚。水掛けたら重くなる」

『持ち上げず、内容を抜く』ロロが通信へ入る。『上から三段目、黒い留め帯。切ると棚板だけ外れる!』

「見えない」

『触れ。ざらつく』

 ハルは右手で探る。

 滑らかな白帯。

 布の赤帯。

 ざらつく黒帯。

「これ」

『切れ』

 短刃。

 棚板が一枚ずつ外れる。

 中から、生活道具が落ちる。

 薬包。

 古い靴。

 記名のない食器。

 何度も繕った毛布。

 火事の中で、持ち出すものを選ぶ時間はない。

「全部置く」とラト。

 老人が、眠ったまま毛布を握っている。

「これだけ」ハル。

「救命優先」

「手を開くと起こすかも」

「毛布ごと」

「荷重」

「一枚」

 持つ。

 生活を全部救えない時、一つを選ぶ。

 選んだ一つが、その人にとって正しい保証はない。

 だから後で、「救ってやった」と言わない。

 三人を屋根へ上げる。

 名を聞かない。

 現在地を公開しない。

 アサが身体へ札を置く。

『火災移送済み/夢退出未定/身元非公開』

 幼児だけが、目を開けかける。

「起こす?」救難員。

「身体確認」とメイの遠隔声。「刺激しない。保護者と思われる二人も眠っている。呼吸、皮膚色、体温」

「呼吸、速い」

「熱」

「三十七くらい」

「測る。夢の内容は聞かない」

 幼児の指が、老人の毛布をつかむ。

 家族かもしれない。

 違うかもしれない。

「家族」と記録すれば、後で権限になる。

「同伴」とセレナが訂正する。「関係未確認」

「細かい」救難員。

「細かくしないと、この人が目覚める前に家族が決まります」

 関係まで、救難者が選ばない。

 紙劇場では、舞台幕が裂かれた。

 役者が泣く。

「百二十年、使った幕だ!」

「防火布にする!」

「劇場の魂だぞ!」

「人が焼ける!」

「分かってる!」

 分かっているから、泣く。

 カイルが幕の端を持つ。

「王家が買い取る」

 ロロが即座に怒鳴る。

「勝手に値段決めるな!」

「補償するという意味だ!」

「王家が持ち主になる言い方!」

「では、使用料を」

「今、契約する時間ない!」

「何と言えばいい!」

 役者が幕を切る。

「借りろ!」

「返せない」

「返せる形で返せとは言ってない!」

「なら、借りる」

「何を返す」

「火の止まった劇場で、最初の客になる」

「王子が?」

「王子でない席を一枚買う」

「それは高い」

「値切るな!」

 幕が広げられる。

 白火を受け、夢の場面を映す。

 舞台の上で、上演されなかった朝の劇。

 役者は見ない。

「今のは、作品じゃない」

 自分で切った幕を、防火路へ敷く。

 救われた物語は、元の形へ戻らない。

 名簿外宿の三人。

 紙劇場の幕。

 鐘紙街の担架不足。

 別々の場所で、別々の正しさが衝突する。

 ユーディは中央から答えを送らない。

『各区画、決定したことと、決められなかったことを二列で返して』

 決定。

 未決。

 地図上へ、未決の灯が増える。

「未決、多すぎ」と若い救難員。

「隠せば減る」とセレナ。

「減らしたい」

「人も減る」

 若い救難員は、未決灯を消さない。

 その時、巨人の北脚が一歩遅れた。

 名簿外宿の札が集まる場所。

 紙の表面へ、持ち出せなかった毛布と、関係未確認の三人が映る。

「重い区画」とハル。

「人の数?」

「違う」とロロ。「札の重なり。あの脚だけ、紙が何層もある!」

 最初の手掛かりは、悲しみの大きさではない。

 同じ場所へ何度も貼られた、返却先のない暮らしだった。

「巨人の進路」とハル。

 エリアがグリムリリーを地面へ打つ。

 銀の路図が、町の上へ立体で広がる。

 巨人の三歩。

 火の三方向。

 眠りの拡大。

 避難所。

 中央夢灯塔。

「中央塔へ向かってる」

「なぜ」とカイル。

「分からない。脚の向きと、次に重心を置ける屋根から推定」

「止める?」ハル。

「倒した場合の落下範囲が、現在の火災範囲より広い」

「じゃ、登る」

「目的」

「中を見る」

「夢の中なら」とソムナ。

 彼は、いつの間にかハルの後ろへ立っていた。

 薄い青緑の髪へ紙灰が乗っている。

 長い袖の札が、風もないのに鳴る。

 綴灯杖ピロウの先には、橙色の小さな出口灯。

 目の下の隈は、二日前より濃い。

 この二日で眠った時間を、メイは合計していた。

「五時間二十分」とメイ。

「今、聞いてない」とソムナ。

「身体は聞いてる」

「夢内へ入れる」

「誰が」ハル。

「僕」

「一人で?」

「最初は」

「最初が一番危ない」

「最初は、夢の境界が分からない。大勢で入れば出口を同じだと誤認する」

「誤認?」エリア。

「巨人の夢は一つに見える。でも、胸にいる人と指にいる人が、同じ街を見ているとは限らない」

「私が地図を」

「内側の座標を返す。現実の身体位置と重ねて」

「あなたの出口」とアサ。

 ソムナは一拍遅れる。

「中で作る」

「先に」

「入口と同じ位置へ作ると、巨人が動いた時にずれる」

「自分用を後回しにする理由にはならない」とメイ。

「一つ作るたび、覚醒記憶を一つ失う」ソムナ。「最初の一つを自分へ使えば、住民の一人が遅れる」

「順番を誰が決めた」とハル。

「僕」

「患者は」

「まだ話せない」

「話せないのを、賛成に数えるな」

 ソムナの袖札が鳴る。

 嘘ではない。

 迷い。

「今、夢へ入らないと、誰も話せないまま夜明けになる」

「戻る条件」とユーディの通信。

 個人名を、役職より先に呼ぶ。

『ソムナ。戻る条件を言って』

「第一、心拍が一分四十を越えたら身体側から切断。第二、僕が自分の名前を二回続けて間違えたら切断。第三、夢内で出口灯を三つ失ったら、残りを置かず帰る」

「切断権」とセレナ。

「メイ、アサ、僕」

「本人が判断不能なら」

「メイとアサ」

「局長や王子は」

「持たない」

 カイルが犬歯を見せる。

「王子の権限をくれないのか」

「夢の中で寝てる人へ命令したい?」

「景気が悪いな。いらん」

「僕の身体位置」

「夜市救護区、第三寝台」とメイ。

「現在地を読む人」

「私」とアサ。

「夢の記録」

「記録しない」とセレナ。「身体数値、入退出時刻、本人が持ち帰ると選んだ発言だけ。夢景そのものは証拠採用しません」

「うん」

 ソムナは苦い種を一粒噛む。

 普段なら、苦さに眉を寄せる。

 今は動かない。

「味」とメイ。

「苦い」

「低血糖」

「なし」

「体温」

「三十五・六」

「毛布」

「夢へ持っていけない」

「身体へ掛ける」

 ソムナは寝台へ横たわる。

 長い杖を右手。

 左手首の古い契約輪を、アサが隠さず確認する。

「途中でやめる合図」とアサ。

「灯を二回消す」

「理由は要らない」

「うん」

「僕らが止める時も、理由を後で説明する。今は止めるだけ」

「うん」

 ソムナは目を閉じる。

 夢を見られない少年が、町じゅうの夢へ入る。

 それは泳げない者が海へ潜るのとは違う。

 泳げない者は、水を知らないわけではない。

 ソムナは、自分の夢だけを知らなかった。

 他人の海図を何百枚も持ち、自分の岸を一つも持たない。

「ソムナ」とハル。

 薄紫の瞳が、一度だけ開く。

「何」

「全員を連れて帰るって言うな」

「言ってない」

「思ってる」

「夢は証拠にならない」

「顔は、今ここ」

「帰ってから訂正する」

「帰れ」

「命令?」

「頼み」

 ソムナは、苦い種を舌の下へ置いた。

「保留」

 灯が消える。

【夢内/位置未確定・水没した灯籠街/入夢/夜明けまで二時間二十八分】

 ソムナの足が、水へ沈む。

 冷たくない。

 濡れない。

 それでも水である。

 町の屋根が足元にあり、窓が水面の下で開いている。

 魚の代わりに紙札が泳ぐ。

 空には、現実の紙巨人が逆さに立っていた。

 その胸が、都市だった。

 その都市の中に、さらに同じ都市が沈んでいる。

「現在地」

 ソムナは自分へ言う。

「夢灯都市。灯籠巨人の内側。覚醒中の身体は夜市救護区、第三寝台」

 返事はない。

 綴灯杖を水面へ突く。

 橙の糸が一本、沈んだ階段へ伸びる。

 夢の断片を縫う共有術〈ドリーム・ステッチ〉

 階段の最上段へ、小さな裂け目ができる。

 朝の色。

 患者がいつでも見つけられる夢の出口〈ウェイク・シーム〉

 一つ。

 ソムナの覚醒記憶から、何かが抜ける。

 何を失ったかは、失った本人には分からない。

 袖の紙札が一枚、白くなる。

 遠くで、巨人の目が開いた。

 目の中にいたのは、眠る町じゅうの人だった。