第579話 第二章「夜明けまでの町」前編
夜明けは、誰にでも平等に来る。
この言い方は、太陽を所有していない者が好む。
早朝から働く者にも。
眠れなかった者にも。
牢へ入れられた者にも。
家を失った者にも。
同じ時刻に朝が来る。
ゆえに平等だ、と。
しかし、同じ時刻に来ることと、同じものを持ってくることは違う。
ある者にとって朝は出勤である。
ある者には退院であり、ある者には追放であり、ある者には昨夜の火事を明るい場所で数え直す時間である。
夢灯都市の夜明けは、夢を終わらせるだけではなかった。
夢を、誰のものとして残すかを決めた。
【夢内/灯籠巨人・胸郭街/入夢/夜明けまで二時間二十六分】
ソムナは、水の中を歩いた。
足首。
膝。
腰。
水位が上がっているのではない。
道が沈んでいる。
巨人が一歩進むたび、夢の町が身体の内側で傾いた。
胸郭街の広場が肩へ流れ、肩にあった家が腕へ落ちる。窓の外を、別の区画の屋根が魚のように通り過ぎた。
夢の地理は、現実の地理を守らない。
守るのは、眠る人間が「ここへ戻りたい」と思った位置である。
同じ家を、十年前と昨日の姿で思い出す二人がいれば、家は二つになる。
同じ階段を、逃げ道と待合室として覚える二人がいれば、階段は上にも下にも続く。
「現在地」
耳元の灯から、アサの声。
『夢灯都市。灯籠巨人の胸部に相当する夢景。身体は夜市救護区、第三寝台。夜明けまで二時間二十五分』
「聞こえる」
『名前』
「ソムナ・リル」
『一回目』
「試した?」
『条件だから』
「うん」
返事の後に一拍。
ソムナの声は普段から遅い。
今の遅さが性格か、記憶の欠落か、通信の歪みか。
アサは決めつけない。
『最初の出口を作った後、失ったもの』
「分からない」
『確認できるもの』
ソムナは袖を見る。
白くなった札。
そこには、朝食の絵を描いていたはずだった。
湯気のない温かいスープ。
豆。
根菜。
誰と食べたか。
「今朝、食べた」
『何を』
「……スープ」
『誰と』
「メイ」
『味』
「苦くない」
『正しい』
「正しいって、何」
『メイが塩を入れ忘れた』
「それ、正しいの?」
『出来事として』
ソムナは少し笑った。
笑えた。
自分の名。
朝食。
メイ。
まだある。
何が消えたかは、消えたまま。
水面の下から、手が出た。
紙の手。
老人の手。
子供の手。
右と左が同じ腕へつながっている手。
「助けて」
一つの声ではない。
「起こして」
「待って」
「家がない」
「仕事へ遅れる」
「仕事へ戻りたくない」
「母を忘れたくない」
「母を思い出したくない」
「ここがどこか教えて」
「ここがどこか言わないで」
要求は互いに矛盾する。
矛盾しているから、一人の声にまとめてはならない。
ソムナは綴灯杖を横へ払う。
橙の糸を五本。
五つの窓へ。
一つ目。
夢を出る。
二つ目。
夢の場面だけ止める。
三つ目。
夢は続け、身体位置を確認する。
四つ目。
記憶を持ち帰らず目覚める。
五つ目。
今は何も選ばない。
「全部、出口?」
水中の子供が聞く。
「全部、今の場所から動く方法」
「五つ目、動かない」
「動かないと決める場所へ動く」
「言葉遊び」
「うん」
子供は五つ目へ触れた。
灯は消えない。
夢も終わらない。
ただ、水が膝から足首へ下がる。
選べないことを選んだだけで、身体へかかっていた引力が少し弱くなる。
ソムナは二つ目の醒め目を縫う。
記憶が一つ抜ける。
杖へ巻いていた退出札の順番を、思い出せなくなった。
赤が停止。
白が記録停止。
橙が退出。
だったか。
「アサ」
『聞いてる』
「札の順番」
『順番は決めていない。色だけで読ませないため、形も違う』
赤は丸穴。
白は二本切れ。
橙はざらつく縁。
「そうだった」
『思い出した?』
「教わった」
『分けて記録する』
思い出したのではない。
今、知り直した。
その差を、アサは消さない。
【現実/夜市救護区・第三寝台/入夢中/夜明けまで二時間十八分】
ソムナの体温は、三十五・三まで下がっていた。
メイが毛布を一枚増やす。
「増やしすぎると発汗」と若い救護員。
「足先だけ。胸は計測」
「夢側へ影響は」
「分からない。少なくとも身体の低体温は現実」
ソムナの右手が、空中で縫う動きをする。
指先は冷たい。
左手首の輪痕だけが薄く光る。
夢売買契約の痕。
幼い時、家族の治療費のため、自分の夢を売られた。
善意だった。
必要だった。
同意はなかった。
三つは、同時に成立する。
「脈、一〇八」とメイ。
「まだ条件以下」とセレナ。
「数値だけなら」
セレナは記録紙へ書く。
『入夢八分。体温低下。右手に反復運動。発言内容は記録せず』
「夢景、聞かない?」ユーディ。
「本人が持ち帰った範囲だけ」
「巨人の構造把握に必要」
「緊急目的で聞くなら、用途、保存期間、公開先を先に」
「今決める時間が」
「ある。三十秒」
ユーディは胸の白紙決裁札を一枚抜く。
紙面を三度叩く。
「用途、救難経路の把握。保存、夜明け後二十四時間。公開、現場指揮と本人。事件監査へ転用する場合は再同意」
「本人が覚えていなければ」
「アサと患者組合の代理監査。ただし、代理同意ではなく用途監査」
「記録します」
決める。
あとで直せる形で。
ハルは寝台の横にいない。
火災側へ走った。
それでも三十秒ごとに通信石へ言う。
『ソムナ。現在地、夜市北屋根。俺は起きてる』
返事は要らない。
夢の中で、聞こえているかも分からない。
現在地を返す。
父が残さなかったものを、別の誰かへ残す。
【夢内/灯籠巨人・水没階段区/入夢/夜明けまで二時間十三分】
階段は、水の中から空へ伸びていた。
一段ごとに、違う朝がある。
紙職人の朝。
子供の朝。
夜市で働く者の朝。
昼を知らない常夜都市では、朝は光の色でなく、仕事の交代音だった。
上から三段目で、ルメが掃いている。
灰色の長い作業衣。
胸から袖へ赤い糸。
右手は老人。
左手は子供。
足跡は一歩ごとに人数を変える。
「掃除、今?」ソムナ。
『私――私たちは、夢の水が階段へ残ると、起床者が滑ると判断しました』
「夢の水で?」
『夢で転んだ記憶を持ち帰り、現実で足を庇う人がいます』
「掃くのを、誰が頼んだ」
ルメの声が増える。
『依頼記録はありません』
『以前から行っていました』
『誰かがすると思われています』
『誰かにしてほしかったのだと思います』
「やめられる?」
箒が止まる。
『やめた場合、滑る人が出ます』
「質問は、結果じゃない」
『……やめることはできます』
「今、やめたい?」
ルメの輪郭が三つへずれる。
一つは掃きたい。
一つは休みたい。
一つは質問を決められない。
『一つの回答へ統合しないでください』
「うん」
ソムナは、階段の横へ三つの札を置く。
続ける。
交代する。
保留。
箒を持つ手が一つ減る。
別の手が、壁へ座る。
ルメは消えない。
仕事を一つやめても、いる。
「巨人のこと、知ってる?」
『私たちの灯りが、胸部にあります』
「あなたたちが作った?」
『いいえ』
「誰が」
『誰か一人の仕事ではありません』
ソムナは眉を寄せる。
「原因を聞いた」
『私たちも、以前その言い方をしました』
共同人格ルメは、一人の犯人を探す質問を嫌う。
町じゅうの誰かが、少しずつ預けた仕事から生まれた。
誰か一人がルメを作ったわけではない。
「何が集まってる」
『悲しみ』
『返却されていない記憶』
『目覚めた後に行う仕事』
『眠る人の身体を支える生活』
四つの声。
最後の声だけ、夢の外から聞こえた気がした。
「生活?」
『パンを焼く人が眠れば、朝食を誰が作るか』
『介護者が眠れば、介護される人を誰が起こすか』
『家が燃えれば、目覚めた身体をどこへ戻すか』
「夢じゃない」
『巨人は、夢と仕事を分けていません』
水面の下へ、札が流れる。
一枚を拾う。
『出所 鐘紙街・第九灯』
『内容 妻の死を思い出す夜』
『返却先 中央代理受取人』
二枚目。
『出所 屋根芝居区・第四十一灯』
『内容 舞台幕の畳み方』
『返却先 中央代理受取人』
三枚目。
『出所 名簿外宿・無番号』
『内容 朝の薬を飲ませる手順』
『返却先 中央代理受取人』
「同じ」
悲しみも。
技能も。
介護も。
全部、同じ先。
「中央代理受取人は誰」
札の名欄は白い。
白いのに、触れると冷たい。
ソムナの左手首の輪痕と同じ冷たさ。
彼は手を離す。
「僕?」
ルメは答えない。
答えられないのではない。
一つの声へ統合しない。
水没階段の先には、朝が三つあった。
一つは、鐘の鳴る朝。
一つは、誰も起こしに来ない朝。
一つは、昨日が続いているだけの朝。
夢の中で扉は、部屋を分けない。
人が「ここから先は別だ」と思ったところへ現れる。
最初の扉は、食卓の上に立っていた。
皿が四枚。
椅子が三脚。
湯気のないスープ。
男が一人、空の椅子へ話している。
「今日も遅いな」
返事はない。
「先に食べるぞ」
匙を持つ。
口へ運ばない。
「起きますか」とソムナ。
「誰だ」
「案内人」
「医者?」
「違う」
「神官?」
「違う」
「役に立つ?」
「分からない」
男は笑わない。
「妻が帰るまで、朝にしない」
「妻は」
「死んだ」
「いつ」
「毎朝」
夢の中では、死は一度で終わらない。
目が覚めるたび、いないことを知り直す。
ゆえに男は、朝を止めた。
「夢から出る出口を置けます」
「いらない」
「場面だけ止めることも」
「止めたら、妻が来ない」
「続けても」
ソムナは文を止める。
続けても来ない。
正しい。
正しいから、言ってよいとは限らない。
「身体の場所を知るだけ」
「どこだ」
現実側へ問う。
『鐘紙街北、石造り避難所へ移送中』とアサ。
「家は」
『火災確認中』
「妻の皿は」
現実にあるか、分からない。
ソムナは答えない。
「分からないのか」
「うん」
「案内人なのに」
「道しか」
「道の先を知らない?」
「知らない」
「役に立たないな」
「うん」
男は、初めてソムナを見る。
「役に立たないって言われて、怒らないのか」
「怒る時もある」
「今は」
「急いでる」
「俺を急がせる?」
「急いでるのは僕」
男は匙を置く。
「身体の場所だけ、教えろ」
「石の避難所へ移送中。家は確認中」
「夢は」
「ここ」
「妻は」
「僕には分からない」
「正直だな」
「流行らない」
「医者じゃないだろ」
「身体医が言われた」
男は空の椅子へ向き直る。
「出口は置くな」
「身体位置の灯だけ」
「置け」
ソムナは白い小灯を置く。
醒め目ではない。
石造り避難所の床へつながる、身体確認の窓。
男は覗かない。
窓があることだけを確認する。
第一の朝は、まだ始まらない。