第580話 第二章「夜明けまでの町」後編

 二つ目の扉は、舞台幕だった。

 幕を開けると、観客が一人もいない劇場。

 舞台中央に、少女が立っている。

 手に、台本。

「最初から」と、誰もいない客席へ言う。

 照明が点く。

「最初から」

 同じ台詞。

「最初から」

 何度目か分からない。

「止めますか」ソムナ。

「まだ失敗してない」

「何を」

「台詞」

「同じ台詞」

「次が出ない」

「台本は」

 少女が持つ紙は白い。

「覚えてた」

「今は」

「思い出す」

「現実の台本を確認する?」

「夢の中でできなきゃ、現実でもできない」

「夢と現実は、同じ試験じゃない」

「上手い人は、夢でも上手い」

「誰が言った」

「先生」

「先生は、今ここにいる?」

「いない」

「なら、先生の採点はない」

「私がいる」

「自分で採点する?」

「する」

「合格条件」

「次の台詞が出る」

「出なかったら」

「最初から」

 輪。

 出口を置けば、逃げたと感じる。

 場面を止めれば、失敗が確定する。

「台詞を、思い出さない選択」とソムナ。

「ない」

「作る」

「台本が終わる」

「今夜だけ」

「明日、忘れてたら」

「現実の台本があるか確認する」

「燃えてたら」

「分からない」

「また、それ」

「うん」

 少女は白い台本を握る。

「夢の中で、台詞を預ける場所は」

 ソムナは幕の裏へ、小さな棚を縫う。

『今夜だけ預ける』

 台本を置く。

 少女の両手が空く。

 照明は消えない。

 舞台も終わらない。

 ただ、最初からと言う必要がなくなる。

「何をする?」

「座る」

「役者が?」

「足、痛い」

「夢で?」

「現実でも」

 少女は舞台へ座る。

 ソムナも、少し離れて座る。

「案内人は急いでるんじゃないの」

「急いでる」

「行けば」

「一人で座る?」

「一人だった」

「今は二人」

「仕事?」

「保留」

 少女は笑う。

「便利な言葉」

「乱用すると、何も決めなくなる」

「今は」

「今は、座る」

 三呼吸。

 ソムナは立つ。

「出口は」

「いらない」

「身体位置」

「知りたい」

『紙劇場裏、救難幕の下。身体安全。左足首に軽い打撲』

「舞台、燃えた?」

『一部』

 少女の顔が固まる。

「台本」

『確認中』

「起きる」

 急に言う。

「今?」

「台本」

「身体は安全。急がなくても」

「起きる!」

 ソムナは醒め目を作りかける。

 止める。

「台本を救うため?」

「私の!」

「起きた身体で火へ戻る?」

「取りに」

「身体側が止める」

「なら、夢から出ても同じ!」

「同じじゃない。起きると、走れると思う」

「走れる!」

「左足首」

「夢では痛くない!」

「現実では痛い」

 少女は怒る。

「私の身体なのに!」

「うん」

「決めるの、私!」

「うん」

「じゃ、出口!」

「出口を置く。身体側で、火へ戻るかは別に決める」

「分けるな!」

「分ける」

「卑怯!」

「安全」

「同じ意味?」

「違う。安全は、ときどき卑怯」

 少女は泣きそうな顔で、醒め目を使う。

 現実側へ戻る。

 台本は、夢の棚に残る。

 少女の身体が目を開けた時、最初に聞くのは劇場の状態だろう。

 そこでまた、選ぶ。

 一度の出口で、全部を決めない。

 三つ目の朝は、薬棚だった。

 棚が天井まで続く。

 瓶が一万。

 すべて同じ黄色。

 少年が、瓶を半分に割ろうとしている。

「何を」

「祖母の薬」

「どれ」

「黄色」

「全部」

「だから、半分」

「量?」

「朝、半分」

「瓶を?」

「薬を」

「形」

「黄色」

 夢では、情報が一つだけ残り、残りを同じ色へ塗る。

「現実の薬袋を確認する」

「祖母、起きてない」

「身体位置」

『鐘紙街から救出。石造り避難所へ移送中。黄色の薬、診療所が照合』

「僕が渡さないと」

「診療所が」

「僕の仕事」

「何歳」

「十一」

「誰が頼んだ」

「祖母」

「いつ」

「毎朝」

「今日も?」

「起きてないから、頼めない」

「頼めないを、頼んだにしない」

「でも、飲まないと」

「身体医が確認する」

「知らない人」

「名前を送る。メイ・カフ」

「信用できる?」

「僕はしてる」

「君、誰」

「ソムナ」

「信用できる?」

「分からない」

「自分で?」

「うん」

「じゃ、何でメイは」

「僕が間違えた時、止めるから」

「止める人が、信用?」

「僕には」

 少年は薬瓶を置く。

「祖母の薬を、知らない人へ渡す」

「今朝だけ」

「僕は、何をする」

「自分の身体を確認」

「仕事じゃない」

「うん」

「何もしない?」

「してもいい」

「何を」

「決めなくていい」

「保留」

「知ってる?」

「みんな言う」

 少年は、薬棚の床へ座る。

「保留、嫌い」

「なぜ」

「待ってる間、何もしてないみたい」

「待つ仕事を、誰かに頼まれた?」

「今、君に」

「頼んでない」

「じゃ、僕の?」

「うん」

 少年は少し考え、黄色い瓶を一つだけ抱える。

「これは持つ」

「中身、分からない」

「祖母のじゃなくても、黄色を忘れないため」

「記憶札にする?」

「僕が持つ」

「うん」

 ソムナは、出口を二つ置く。

 身体位置だけ見る窓。

 夢から出る醒め目。

 少年は窓を見る。

 石造り避難所の寝台。

 自分の身体。

 隣に祖母。

 メイが黄色い薬を照合している。

「起きない」

「うん」

「見てる」

「うん」

 夢に残り、現実を確認する。

 帰還は、一度の扉ではない。

 四つ目の場所へ向かう途中、ソムナは立ち止まる。

「何」とアサ。

『聞こえてる』

「さっきの男の顔」

『どの男』

「妻を待ってた」

『夢内容は記録していない』

「僕も、顔が」

 輪郭が出ない。

 覚えていたはず。

 記憶が抜けた。

「名前は聞かなかった」

『聞かない選択だった』

「忘れたのと、聞かなかったのが、同じになる」

『違う』

「僕の中では」

『だから、外から区別を返す。名前は聞いていない。顔は、あなたが見た。今は思い出せない』

「戻る?」

『夜明けまで一時間四分。条件は』

「まだ」

『帰るかを聞いた』

「帰らない」

『理由は』

「まだ、人がいる」

『記録』

「正しい?」

『あなたの理由として』

 アサは、善いとも悪いとも言わない。

 ソムナは次の醒め目を縫う。

 記憶が一つ抜ける。

 今度は、抜けた瞬間が分かった。

 メイがスープへ何を入れ忘れたか。

 塩。

 知識として、まだある。

 だが、メイが困った顔で鍋を見た場面が消えた。

「塩」とソムナ。

『何』メイ。

「今朝、入れ忘れた」

『覚えてる?』

「言葉は。顔がない」

『私の顔?』

「鍋を見た顔」

『私は覚えてる』

「返さないで」

『返さない。私の記憶として持つ』

「うん」

 他人が覚えている。

 安心ではない。

 自分の過去を他人が持つ怖さもある。

 ソムナは怖さごと、次へ進む。

 ソムナは出口を作り続ける。

 三つ目。

 四つ目。

 五つ目。

 記憶が抜ける。

 ゼロスター号で、自分の席がどこにあったか。

 ノクスが袖のどちら側へ潜るか。

 カイルから借りた苺大福の数。

 小さい。

 小さいから、止めにくい。

 人は、指一本を失う前なら止まる。

 昨日の会話一つなら、もう一つ進める。

 六つ目。

「名前」

『確認』とアサ。

「ソムナ・リル」

『一回目』

「ソムナ・リル」

『二回目。同じ』

「まだ帰らない」

『条件は三つの出口灯を失った時も』

「失ってない」

 腰の出口灯は四つ。

 作った数より少ない。

「誰かが使った?」

『現実側の覚醒、二人増加』

「なら」

『出口一つ、消灯位置が不自然』

 エリアの声が通信へ混じる。

『ソムナ。最初に作った醒め目の位置を送って』

「胸郭街、沈んだ階段。灯の向き、北――」

 北がない。

 巨人の身体が回っている。

「現実の北じゃない。階段を上がると、苔の匂いがする側」

『夢内の匂いは混線する』

「右壁に、子供の手形。三つ」

『確認した』

 銀の線が遠く、水中へ現れる。

 エリアの路図。

 最初の醒め目へたどり着く。

 裂け目は閉じていた。

 破壊ではない。

 外から縫い潰されたのでもない。

 内側から、橙の糸を二回折り返して結んである。

 アサが長い沈黙の後に言う。

『その結び方は、退出拒否の合図』

「誰が」

『分からない』

「危険なのに」

『危険でも』

「夜明けに固定される」

『それでも』

「理由を」

『聞ける状態なら、聞く。答えなければ追わない』

 水の向こうに、人影がいる。

 顔は見えない。

 両手で、閉じた醒め目を押さえている。

「起きたくない?」ソムナ。

 返事はない。

「起きた後が怖い?」

 返事はない。

「ここにいたい?」

 返事はない。

 ソムナは、結び目へ手を伸ばす。

 ほどける。

 彼なら、ほどける。

 夢葬師の指は、閉じた出口を開けられる。

 人影が、さらに強く押さえた。

 ソムナは手を止める。

 出口を作る者は、出口を使わせる権利まで持たない。

 分かっている。

 分かっているから、急いでいる時ほど苦しい。

 夜明けまで二時間一分。

 巨人の足音が、水没した町を揺らす。

 閉じた醒め目の向こうで、現実の火の色が赤くなる。