第581話 第三章「夢の階段、現実の出口」前編
出口は、場所ではない。
扉の向こうに廊下がある。
廊下の先に階段がある。
階段を下りれば外へ出られる。
建築家は、そう書く。
だが、外へ出たところに戻る家がなければ、その扉は避難口であって出口ではない。
家へ戻れても、名前を奪われるなら出口ではない。
身体が目覚めても、本人の言葉を病気として閉じ込めるなら、寝台は別の牢である。
エリア・ルーンベルグは、地図を描く者だった。
だからこそ、線の終点を出口と呼ばないことを、何度も失敗して覚えた。
【現実/中央夢灯塔・外周回廊/覚醒/夜明けまで一時間五十九分】
エリアの路図は、二枚あった。
一枚は現実。
燃える夜市。
眠る身体。
救護所。
崩れた紙橋。
中央夢灯塔へ向かう巨人。
もう一枚は夢。
ソムナから送られる階段。
水没した家。
閉じた醒め目。
眠る住民が「戻りたい」と思っている場所。
二枚を重ねる。
合わない。
「誤差」と若い航路士。
「違う」
エリアの右眉が上がる。
「測定点を増やせば」
「誤差ではない。別の対象よ」
夢の階段が、現実の診療所へ重なる。
そこに眠る身体は、紙劇場の地下。
夢の病室が、現実の市場倉庫へ重なる。
身体は、遠い鐘紙街の屋根。
夢で隣り合う二人が、現実では三地区離れている。
現実で同じ寝台列にいる親子が、夢では別々の朝を見ている。
「夢景を一つの地図へ写すから狂う」とエリア。
「じゃ、どうする」とハル。
彼は回廊の欄干へ片足を掛けている。
「身体の地図と、記憶の地図を分ける」
「今も二枚」
「足りない。身体位置。夢景。覚醒路。現実の避難路。少なくとも四枚」
「増えた」
「現実が増えたのではない。今まで一枚へ押し込めていたの」
エリアはグリムリリーを回す。
銀線が四層へ分かれた。
両踵へ針の痛み。
一度、止める。
「休む?」ハル。
「四十秒」
「短い」
「再開条件、呼吸が四拍で戻る。踵の痛みが五以下」
「今」
「六」
「じゃ、待つ」
ハルは走らない。
四十秒。
その四十秒で、巨人は一歩進む。
火は屋根を二つ渡る。
待つことは何もしないことではない。
能力を使えない者の代わりに、別の目で見る時間である。
「左腕の札」とハル。
「何」
「巨人。左腕だけ、同じ区画名が何枚もある」
セレナが単眼鏡を向ける。
「鐘紙街。年代印が違う」
「同じ町の昔と今?」
「可能性」
夢は住所を更新しない。
失った家へ戻りたい者は、現在の番地でなく、失った日の扉を出す。
「夢の出口位置を、現実の建物へ直接結ばない」とエリア。「必ず身体札を経由する」
「身体札がない人」
「保留。地図へ空欄を残す」
空欄。
正確な地図を愛した少女が、空欄を消さない。
【夢内/灯籠巨人・水没階段区/入夢/夜明けまで一時間五十二分】
ハルは、水へ落ちた。
現実の身体は、夜市南の灯籠倉庫に置かれている。
入口の近く。
救護員二人。
腰へ退出索。
左肩へ補助帯。
場所を三回言った。
「夢灯都市。灯籠倉庫。現実では寝台二番。夢では水没階段」
「言いすぎ」とソムナ。
「お前が忘れるから」
「君も忘れる」
「俺は足で覚える」
水の中を走る。
水は抵抗しない。
代わりに、踏んだ道が別の記憶へ変わる。
一段目は、母の配送店。
二段目は、王都の月冠祭。
三段目は、雷導列車。
「俺の道が混じってる」
「夢景は、入った人の記憶も使う」
「地図に送る」
ハルは足裏で段差を数える。
高さ。
欠け。
滑り。
匂いは役に立たない。
夢では、父のコーヒーと王城の苺と夜市の薬が、同じ風に混じる。
ノクスがいたら全部へ怒るだろう。
「右へ七段。次に一段下がる。手すり、途中で子供の高さ」
現実側のエリアが線を引く。
『同型階段、現実に六つ』
「多い」
『夢は規格を借りる。同じ工房製』
「どれ」
『身体札を』
眠る住民の胸へ、薄い札。
触れない。
読む許可がない。
「起こせば本人へ聞ける」ハル。
「出口を閉じた人もいる」とソムナ。
「身体が燃えたら」
「身体救助はする。夢から出すかは別」
「別々なの、面倒」
「人は面倒」
「それ、治療者が言う?」
「簡単だと思う治療者より安全」
ハルは、閉じた醒め目の前へ来る。
人影はまだ押さえている。
「俺なら、持ち上げられる」
「何を」
「手」
「やらない」
「分かってる」
言いながら、拳を握る。
分かっていても、身体は先へ行きたがる。
ハルは人影の横へ座った。
「俺、起きたくない時あった」
返事なし。
「父さんが帰る夢、何回も見た。目が覚めると、帰ってない。だから夢の中で待つ方が、まだましだった」
人影の肩が少し動く。
「でも、同じじゃない。何が嫌か、俺は知らない」
閉じた糸に触れず、横へ小さな灯を置く。
「火が来たら、身体は運ぶ。夢は、今閉じたままでいい」
人影の手が、糸から一瞬だけ離れる。
すぐ戻る。
選び直している。
ソムナがハルを見る。
「何」
「夢の中だと、少し待てる」
「現実は燃えてる」
「うん」
「褒めるな」
「褒めてない」
【現実/中央塔外周回廊・路図卓/覚醒/夜明けまで一時間四十九分】
エリアの地図には、同じ階段が九本あった。
夢内の水没階段は一つ。
現実の規格階段は六つ。
住民の記憶に残る過去の階段が二つ。
「合計九」と若い航路士。
「足し算しないで」
「数は九」
「種類が違う」
「地図上では線」
「線だから同じに見える。だから、足さない」
エリアは色を変えない。
色覚差がある者もいる。
白火の中では色が飛ぶ。
線の形を変える。
現実の階段は実線。
夢景は波線。
記憶上の過去位置は点線。
身体未確認は、線を引かず余白へ番号だけ。
「余白、地図じゃない」と若い航路士。
「余白も、地図が占有してはいけない場所」
「そこへ救助班を出せない」
「出さない。先に確認班」
「間に合わない」
「救助班を誤配したら、別の人が間に合わない」
最短は、一人だけを見れば速い。
町全体を救う時、最短線を重ねると、交差点で人が詰まる。
「身体札、第一組」とセレナ。
六角単眼鏡の像を、地図へ投げる。
一枚目。
胸に『鐘紙街・第九灯』。
身体は中央塔外周の救護席。
夢内では、妻を待つ食卓。
二枚目。
『紙劇場・第四十一灯』。
身体は劇場裏。
夢内では、同じ水没階段の踊り場。
三枚目。
『名簿外宿・無番号』。
身体位置は非公開。
夢内では、階段の最上段。
「同じ夢景なのに」と若い航路士。
「同じではない」
「見た目は」
「三人が、同じ規格の階段を借りている」
「夢の住所は?」
「場所ではなく、関係」
「関係を地図に?」
「描く」
「人間関係?」
「今は、階段と本人」
「同じ言葉で混乱する」
「混乱を消すため、人を場所へ押し込まない」
エリアは、夢景の座標を「階段A」と呼ばない。
『妻を待つ食卓へ続く階段』
『台詞を預けた舞台へ続く階段』
『身元非公開者が現在地だけ確認した階段』
「長い」と若い航路士。
「略称は、本人が決める」
「本人、眠ってる」
「なら長いまま」
地図が読みにくくなる。
読みにくさは、現場の負担である。
しかし、読みやすさのために人を同じにすると、負担は地図から人へ移る。
「航路科の試験なら落第」と若い航路士。
「知ってる」
「先生に怒られる」
「先生は今、ここにいない」
「規則は」
「ある。だから、規則違反として記録する」
「自分で?」
「地図を直した後、審査へ出す」
「今の救難が失敗扱いになる」
「なるかもしれない」
「怖くない?」
「怖い」
「平気な顔」
「地図へ怖いって書く?」
「書かない」
「なら同じ」
若い航路士の反論が、正しい。
エリアは地図の端へ小さく書く。
『主線担当、判断速度上昇。両踵痛、五。未知位置への過剰補完傾向あり。確認者を置く』
「自分を地図へ?」
「地図を描く人も、地形」
「動く」
「だから更新」
若い航路士が、確認者欄へ自分の名を書く。
「命令?」
「希望」
「痛みが六なら止めて」
「五で交代」
「自分で言える?」
「言う」
「言わなかったら」
「止める」
「成立」
地図を描く者にも、撤退条件が付く。