第582話 第三章「夢の階段、現実の出口」後編
【夢内/水没階段・第三踊り場/入夢/夜明けまで一時間四十七分】
ハルとソムナの前へ、三つの扉が並ぶ。
見た目は同じ。
白い紙。
丸い取っ手。
「どれが誰」とハル。
「開ければ」
「開けない」
「なぜ」
「向こうが閉じてるかも」
「叩く」
ハルは一つ目を二回。
返事、一回。
二つ目。
返事なし。
三つ目。
三回。
「合図、違う」とソムナ。
「共通じゃない?」
「患者ごと」
「覚えてる?」
「袖札」
ソムナは自分の袖を見る。
札が多い。
どれがどの扉か。
一枚目へ、丸が二つ。
二枚目は、ざらつく縁。
三枚目は、穴が三つ。
「一つ目、二回へ一回。入ってよいが、近づく前に声」
「二つ目」
「返事なし。現状維持」
「三つ目」
「三回は、身体位置だけ」
「開けない?」
「開けない」
同じ扉へ、違う意味。
共通規格は速い。
個別合図は遅い。
「全部、覚えるの」
「札にする」
「札を失ったら」
「聞き直す」
「聞けなかったら」
「何もしない」
「救助遅れる」
「勝手に入るより」
「危険でも」
「うん」
一つ目へ声を掛ける。
「ソムナ。案内人。ハル、同伴。扉の前」
「入って」
女の声。
扉を開ける。
中は、洗濯場。
紙の衣服が水の中へ揺れている。
女は、同じ一枚を何度も絞る。
「身体位置を確認していい?」ソムナ。
「先に、これを干す」
「夢の服」
「夫の」
「夫は」
「寝てる」
「あなたの身体も」
「知ってる」
「どこ」
「ここ」
「現実の位置」
「ここ」
夢景と身体を同じだと思っている。
「外の地図では、身体札が中央塔外周」
「違う」
「確認する?」
「夫を置いていけない」
「夫の身体位置は」
「隣」
「札は」
洗濯場に、二人分の寝台がある。
夢では隣。
現実の身体札を照合する。
女は中央塔外周。
夫は紙劇場裏。
離れている。
「嘘」と女。
「地図は」
「一緒に寝た!」
「夢では」
「昨日も!」
「火災で、別々に運ばれた可能性」
「戻す!」
女が扉へ走る。
「夢から出る?」
「夫のところへ!」
「身体位置を先に伝える」
「分かってる!」
「夢から出ても、夫の身体へは着かない」
「じゃ、何の出口!」
怒り。
正しい。
出口と呼んだ。
出れば行きたい場所へ行けると思わせた。
「身体へ戻る出口」とソムナ。
「夫へは」
「現実の救助班がつなぐ」
「同じにして」
「できない」
「案内人なのに」
「道が二つ」
「一つにして!」
「一つにすると、夫の夢へあなたを入れるか、身体を間違った場所へ起こす」
「どっちも嫌」
「うん」
「なら、何を選ぶの」
「今は、夫の身体位置を確認する」
エリアへ送る。
夫の札。
紙劇場裏。
『救護班、確認。呼吸安定。右腕軽傷』
「声」と女。
「眠ってる」
「起こして」
「本人の退出条件が分からない」
「妻が言ってる!」
「家族は、本人の夢退出を決めない」
「家族なのに」
「家族だから、決めたい?」
「当たり前!」
「夫が、あなたの夢を決めても?」
女が止まる。
「私は」
「嫌?」
「……場合による」
「今は、夫が何を望むか分からない」
「待つ?」
「身体は救助する。夢は、本人の合図を探す」
「遅い」
「うん」
「火が」
「現実側で、先に身体を運ぶ」
夢から出さなくても、身体は会わせられるかもしれない。
エリアが二本の現実線を引く。
中央塔外周から、石造り避難所。
紙劇場裏から、同じ避難所。
『到着予定、女六分。夫十一分』
「同時じゃない」
「先に着いて待つ?」
「夢の中でも待ってる」
「二か所で」
「変?」
「人は、一つの場所だけにいない」
女は洗濯物を離す。
「身体だけ、同じ避難所へ」
「夢は」
「夫の合図が分かるまで、ここ」
「うん」
同じ家にいる夢を壊さず、現実の身体を近づける。
一つの出口で全部を合わせない。
二つ目の扉は、返事がない。
ハルは、触らない。
「火が来たら」
「身体位置を先に」
札。
名簿外宿・無番号。
公開位置なし。
「エリア、身体札、非公開」
『本人鍵が必要』
「眠ってる」
『救難目的の位置照会、本人が事前許可していない』セレナ。
「火災」
『生命危険の一時照会は可能。公開せず、救助班一名だけへ』
「誰」
『ラト』
ラトだけへ、位置が送られる。
ハルには来ない。
「俺たち、夢側なのに」
『必要ない』
「出口をつなぐ」
『身体位置を知らなくても、身体札の識別鍵だけ返す』
数字でも地名でもない。
ざらつく三角札。
夢側へ、同じ形だけが出る。
「場所なしで、つながる?」
「人を座標にしない」とソムナ。
「言い方、格好いい」
「今、考えた」
扉の前へ、三角札を置く。
返事はない。
身体はラトが救う。
夢は閉じたまま。
位置は公開されない。
地図には、場所でなく鍵形だけが残る。
三つ目の扉。
三回返事。
身体位置だけ。
ソムナが問い、エリアが返す。
『睡蓮棚町、南水路。身体は舟上。火なし。舟の係留索が切れかけ』
「身体、流れる」とハル。
「救助班」
『近い班なし。水路班、八分』
「俺、夢から行けない?」
「夢の舟へ行っても、現実の索は結べない」
「分かってる」
分かっていても、身体が先へ行きたがる。
扉の向こうから、子供の声。
「どこ」
「身体は舟。南水路」
「母は」
「同じ舟?」
『身体、一人』
「夢ではいる」
「母の身体札は」
エリアが照合する。
同姓。
同住所。
別の避難所。
「北石路」
「一緒じゃない」
「火災で分かれた」
「舟、流れる?」
「索が切れかけ」
「起きる」
「舟の上で?」
「結ぶ」
「身体は眠ったままでも、救助班が向かう」
「八分」
「うん」
「索、先に切れる」
「可能性」
「起きる!」
子供の選択。
ソムナは出口を作る。
エリアが止める。
『身体の周り、水。覚醒直後に立つと転落』
「出口を開ける前に、姿勢を変える」
「夢から?」ハル。
「身体へ、指示を送る」
夢内の子供へ言う。
「起きたら、立たない。舟の底へ伏せる。索を結ばない。赤い浮輪を抱える」
「結べる」
「覚醒直後、方向が違うかもしれない」
「僕、違わない」
ハルが口を挟む。
「違う時ある」
「君は」
「俺も、できると思った。起きた瞬間、塔が空に見えた」
「怖い?」
「怖い」
「浮輪、どこ」
『身体の左』エリア。
夢では左右が逆かもしれない。
「起きて、目を開けず、両手で床を探す。硬い輪を抱える」
「索は」
「救助班」
「八分」
「舟が流れたら、追う」
「母は」
「北石路で安全」
「本当?」
「身体札と救護班確認」
「夢じゃない?」
「現実の報告」
子供は三呼吸。
「起きる」
醒め目。
現実側で、舟の子供の瞼が開く。
『身体覚醒』エリア。
「目を開けない!」ソムナ。
『閉じたまま』
「床」
『両手、探索』
「輪」
『抱えた』
係留索が切れる。
舟が流れる。
子供は立たない。
八分後の救助班を、舟の現在位置へ更新する。
地図が動く。
「夢の出口、現実の出口じゃない」とハル。
「うん」
「でも、つなげる」
「別々に」
エリアの地図へ、二本の線。
夢から身体。
身体から救助。
最初の二つの帰還路が、まだ名もなく描かれる。
エリアの踵が六へ上がる。
若い航路士が、地図槍へ手を掛ける。
「交代」
「あと、舟の更新」
「僕が」
「夢線は」
「読み上げて」
「誤る」
「訂正して」
「私が描く方が速い」
「速いから、交代しない?」
痛いところを突く。
エリアは柄を離す。
銀線が一瞬揺れる。
若い航路士が受ける。
「主線、渡す。私は確認」
「全部?」
「七分」
「五」
「六」
「医療に値切りはない」
「あなた、医者じゃない」
「メイが言う」
『五』と通信からメイ。
「聞いてた?」
『身体は聞いてる』
エリアは五分、壁へ座る。
地図を見続ける。
描かない。
他人の線が、自分の線と違うのを我慢する。
若い航路士は、舟の線を少し太く描く。
「太い」
「見失わない」
「他の線を隠す」
「透明度を下げる」
「そう」
「命令?」
「提案」
「採用」
エリアが描かなくても、地図は続く。
【現実/夢灯都市・六区画/覚醒者による分割救難/夜明けまで一時間四十四分】
エリアは救助班を分けた。
夢の隣人を、同じ班へ入れない。
現実の身体位置で分ける。
鐘紙街。
夜市。
紙劇場。
診療所。
名簿外宿。
中央塔。
「夢景の案内は誰が」とユーディ。
「ソムナとハル。現実は各区の班長」
「情報がずれたら」
「夢位置を身体位置へ上書きしない。両方残す」
「締切」
「十六分ごとに再照合」
「長い」
「八分では、ソムナの記憶消費が増える」
「十二」
「成立」
決める。
中央の最適解ではない。
全員が納得するまで待つ案でもない。
十二分後に直す前提の仮線。
エリアの両踵が再び痛む。
「五」と自分から言う。
ハルがいないからではない。
誰かへ示すためでもない。
「交代」と若い航路士。
「主線は私。記録更新を渡す」
全部を渡さない。
全部を抱えない。
役割を分ける。
最初の三人が、夢から戻った。
現実の身体は、それぞれ別の場所。
一人目。
夢では水没階段の三段目。
現実では紙劇場の舞台下。
二人目。
夢では同じ家の窓。
現実では診療所の廊下。
三人目。
夢では二人の間にいた。
現実では名簿外宿の屋根裏。
「一対一じゃない」と若い航路士。
「だから、同じ夢を見ているから同じ場所にいる、を捨てる」とエリア。
四人目の身体札が点滅する。
ハル。
夢内位置、水没階段。
現実位置、夜市南灯籠倉庫。
倉庫の外周線が赤くなる。
「火?」
通信が乱れる。
『南倉庫、白火侵入!』
「救護員」
『一名退出。一名、寝台二番を運搬中――梁が落ちた!』
「ハルの身体」とカイル。
『倉庫内。出口一、閉塞。出口二、夢紙積載で通行不可』
エリアの地図では、夢のハルはソムナのすぐ隣にいる。
手を伸ばせば届く。
現実の身体は、燃える建物の中。
夢で近いことは、現実で救えることを意味しない。
「ハルへ伝える?」
ユーディの問い。
エリアは一秒だけ迷う。
夢内で動揺すれば、帰還路を失うかもしれない。
伝えなければ、本人の身体について本人抜きで決める。
「伝える」
地図針を通信線へ刺す。
「ハル。正確に聞いて。あなたの身体が置かれた南倉庫で火災。出口二つとも塞がれた。救助班を向かわせる」
夢の水面で、ハルが止まる。
『俺、今ここにいる』
「身体は倉庫」
『戻る?』
「戻れば、煙を吸う可能性。今は夢側で呼吸を保って」
『誰が行く』
エリアは地図を見る。
最も近い者。
最も速い者。
最も大きな盾。
「カイルとロロ。市民保安のラト」
『俺も』
「あなたは、運ばれる側」
ハルが黙る。
運ばれる。
助けられる。
自分の物語で、自分が走れない。
「頼んで」とエリア。
『……カイル』
「聞こえてる」とカイル。
『俺を、運べ』
冗談がない。
「任せろ、とは言わん」
『何で』
「背中を預けろ。三人で運ぶ」
『分かった』
倉庫の屋根が、地図の上で崩れた。