第583話 第四章「悲しみの重量」前編
悲しみには重さがある、と人は言う。
胸が重い。
足が動かない。
背負いきれない。
比喩である。
比喩であるから、自由に使える。
秤へ載せなくてよい。
同じ家族を失った二人へ、どちらがより重いか尋ねなくてよい。
ところが、魔法のある世界は、ときどき比喩へ秤を持ち込む。
悲しみが本当に重くなる。
紙灯籠が沈む。
橋が落ちる。
その時、最初に疑うべきは感情ではない。
秤を作った者である。
【現実/夜市南・灯籠倉庫外壁/覚醒/夜明けまで一時間三十九分】
「壁を壊す!」
カイルが言った。
「証拠と寝台ごと壊す気か!」ロロ。
「では扉を開けろ!」
「扉の蝶番が内側へ溶けてる!」
「壁のどこなら」
「今見てる!」
ロロは外壁へ耳でなく、工具を当てた。
夢紙建築は、木より軽く、布より硬い。
火災時には表面が焼け、芯が水分を吸い、どこが支えになっているかを音だけで読むのが難しい。
右眼の度入りレンズを下ろす。
煙で視界が滲む。
二本の補助腕が外壁を叩く。
コン。
コン。
低い。
「ここ、荷重あり」
半歩横。
コン。
軽い。
「ここは空洞」
「壊す」とカイル。
「待て! 上の梁がどこへ落ちる」
「ハルのいない側」
「どっちだよ!」
ラト・シムが右手袋を外す。
「救護員」
倉庫内の通信石から咳。
『寝台二番、南壁から四歩。頭が東。梁、胸の上ではない。足側へ一本』
「本人は」
『入夢中。呼吸、浅いが維持』
ラトは短刃の背を二度叩く。
「南壁、床から一・二。幅一・五。切る。落ちる紙は外へ引く」
「誰が決めた」とロロ。
「今、俺が。お前の音と救護員の位置で」
「外れたら」
「記録へ残す。先に切る」
許可を待ちすぎた男が、理由を言って刃を入れる。
カイルは盾を壁へ押しつけない。
崩れた紙を受ける角度へ、半盾を三枚。
「三枚」とメイの遠隔声。
「見えてないのに数えるな」
『星痕の反応が見える』
「便利な医師だ」
『四枚目を出したら止める』
「出さない」
ラトが切る。
ロロが残る二本の補助腕で外側へ引く。
若い修理工二人が、同じ方向へ引く。
「ぼくの合図まで!」
「今?」
「まだ!」
白火が切れ目から噴く。
カイルの盾が受ける。
「今!」
壁が外へ倒れた。
内部。
寝台。
ハル。
救護員。
梁。
ハルの赤いマフラーだけが、火の中で現実の赤だった。
「寝台を先!」ラト。
「梁が足へ」とカイル。
「盾で上げるな!」ロロ。「紙芯が折れて全体が落ちる!」
「では」
「くさび。三か所」
ロロは工具を投げる。
一つをカイル。
一つをラト。
一つを若い修理工。
自分の手だけでやらない。
「角度、同じ!」
「どの角度」とカイル。
「ぼくの左手を見ろ!」
「左手、多いぞ!」
「生身!」
三つのくさび。
同時に入る。
梁が二指ぶん上がる。
寝台を滑らせる。
ハルの左肩が壁へ当たりそうになる。
カイルが左手で支える。
私的な慰めに使う手。
「運ぶぞ、落下少年」
ハルは眠ったまま。
夢の中では、別の街を走っている。
現実では、三人に運ばれる。
【現実/夜市東広場・臨時計測所/覚醒/夜明けまで一時間二十七分】
ハルの身体を列車用寝台へ移した後、ロロは秤を作った。
「休め」とメイ。
「測る」
「吸入」
「した」
「いつ」
「倉庫前」
「一回」
「回数を交渉しないんだろ」
「覚えていた」
「今、褒めるとこ」
「吸って」
ロロは吸う。
苦い顔。
補助腕が二本とも下がる。
秤は、港の荷札用を改造したものだった。
片側へ灯籠札。
反対側へ穴あき銅片。
物理重量。
夢灯反応。
糊の層数。
返却先の結び数。
四つを別に測る。
「悲しみの重量って測れんの?」ハルの通信。
夢内から。
「お前、起きてねえのにうるさいな!」
『身体、助かった?』
「助かった!」
『誰が』
「カイル、ラト、救護員、修理工二人、ぼく!」
『ありがと』
「後で労働六人ぶん!」
『高い』
「命が懸かったら危険手当!」
『成立』
ミラなら、契約成立と言う。
ハルが言うと、ただの借金である。
ロロは最初の札を載せる。
妻を失った老人の灯籠。
夢反応は強い。
映る像は濃い。
物理重量は軽い。
「強い悲しみ、軽い」と若い修理工。
「言い方」とメイ。
「札が軽い」
「本人の感情は測っていない」
「はい」
返却先。
『本人・保留可能』
糊は一層。
結びは一つ。
二枚目。
舞台幕の畳み方。
夢反応は弱い。
物理重量は、最初の札の七倍。
「ただの手順が?」
「ただじゃねえ」とロロ。「でも、重さの理由は内容じゃない」
返却先。
『中央代理受取人』
糊は六層。
同じ結び目が、紙の裏で何度も折り返している。
三枚目。
朝の薬を渡す手順。
重量、九倍。
四枚目。
誰かへ言ってほしかった「おかえり」。
重量、三倍。
五枚目。
家賃の支払日。
重量、十一倍。
「感情が強いほどじゃない」とセレナ。
「返却先が同じほど」とロロ。
同じ場所へ札を束ねるたび、夢灯網は一枚ずつ補強紙を重ねる。
失わないため。
誤配しないため。
中央受取人が一人で持てるようにするため。
保護のための補強が、巨人を重くしている。
「誰が中央代理」とユーディ。
札の名欄は白い。
ロロは削る。
紙の下へ、薄い圧痕。
文字ではない。
輪。
小さな契約輪。
「ソムナの手首」とメイ。
「同じ形」とセレナ。「本人名ではなく、職能認証」
「夢葬師?」
「正確には、現在接続中の夢案内人」
ユーディの半面紙がわずかに動く。
「緊急時の未返却夢は、接続中の案内人へ一時保管」
「知ってた?」ロロ。
「旧規定の存在は。現行網で自動適用されるとは知らなかった」
「知らないを、消すな」とセレナ。
「消さない」
「誰が規定を作った」
「百七年前の夢疫病時。案内人が患者の夢を一晩預かり、夜明けに返す」
「一晩なら善意」とメイ。
「当時は、患者数三十二」
「今は」
公開表示。
『未帰還者、一万一千八百四十二』
規模が変わった。
制度は変わらなかった。
善意は、人数を増やすだけで暴力になる。
ロロは、秤を三台へ増やした。
一台目。
紙そのものの重さ。
二台目。
夢灯網が札を引く力。
三台目。
持ち主へ返す時に必要な支持力。
「同じ重量を三回?」若い修理工。
「同じじゃない」
「秤の針」
「一台目は下へ。二台目は中央塔へ。三台目は返却先へ引かれる」
「重さに向きがある?」
「重力に向きはある」
「下」
「この町では、夢灯網が第二の下を作ってる」
浮遊世界の技師は、下を一つと考えない。
大地の引力。
船の人工重力。
誓星術の負担先。
契約の請求先。
落ちる方向は、物理だけではない。
「三台目、どう作る」
「本人鍵」
「眠ってる」
「覚醒者の札だけ」
メイが止める。
「実験へ使うなら、治療と分ける」
「札を返すだけ」
「返却先を変えて重量を見る?」
「うん」
「同意文」
「時間ない」
「短くする」
アサが札を作る。
『あなたの夢札の返却先を、三呼吸だけ中央代理から本人指定保管へ変えます。夢内容は見ません。重さだけ測ります。途中でやめられます。結果は救難へ使用。後の調査へ使う場合は再確認』
「長い!」ロロ。
「削る場所」
「ない!」
「なら読む」
覚醒者へ一人ずつ。
最初の協力者は、舞台幕の畳み方を預けた老舞台係。
「悲しみじゃないから」と彼は言う。
「悲しみでも測れる」とロロ。
「嫌だね」
「じゃ、やらない」
「手順ならいい」
「内容で可否を決めるのは、本人」
「今、俺が言った」
「確認」
老舞台係の札を三台へ載せる。
一台目。
十二グラム。
二台目。
中央塔方向へ、七・四キロ相当。
三台目。
返却先支持、九・一キロ。
「紙十二グラムが、九キロ?」
「紙が重いんじゃない。六層の補強と、中央まで引く網」
「三呼吸、切替」とアサ。
本人指定保管へ。
一。
二台目の針が、七・四から一・二へ落ちる。
二。
三台目、九・一から一・五。
三。
中央代理へ戻る。
針が跳ねる。
「内容、変わってない」と若い修理工。
「返却先だけ」とセレナ。
「一件」とロロ。
「証明には足りない」
「知ってる」
二人目。
家賃の支払日。
三人目。
亡くした子の名前を呼ぶ夢。
四人目。
朝の窓を開ける仕事。
五人目。
言わなかった謝罪。
内容は違う。
夢反応も違う。
返却先を本人指定保管へ変えた三呼吸だけ、中央方向の荷重が落ちる。
「五件」とセレナ。
「共通、中央代理」
「内容強度との相関、低い」
「帰る先との相関、高い」
「言葉を選んで」とメイ。「悲しみが軽い、と言わない」
「札の中央負荷が、感情反応と比例しない」
「それ」
ロロは測定板へ大きく書く。
『悲しみの重さではない』
『返却先集中による支持負荷』
「見出し、長い」と若い修理工。
「短くして人を傷つけるより安い」
「ロロが?」
「何」
「金より言葉」
「言葉で請求書は払えない!」
「戻った」
若い修理工は笑う。