第590話 第七章「目覚める住民」後編

 二列目。

 十歳ほどの子供。

 身体覚醒。

 夢退出、未定。

 記憶返却、拒否。

「忘れたくない?」と救護員。

「戻したくない」

「何を見たの」

 アサの杖が床を鳴らす。

「その質問は、治療に必要?」

「内容で危険を」

「夢内容を話さないと危険評価できないなら、何を評価してるの」

 救護員が口を閉じる。

 子供は、アサの「退出可」の札を見る。

「戻さなくていい?」

「今は」

「ずっと?」

「ずっとを、今決めなくていい」

「忘れたら、決められない」

「記憶は保管する。誰も見ない。受取鍵はあなた」

「なくしたら」

「再発行は、あなたと患者組合の二鍵。家族だけでは開けない」

「家族が、見たいって言ったら」

「あなたが嫌なら、見せない」

「家族なのに」

「家族だから見られるものと、家族でも見られないものを分ける」

 子供は長く考える。

「身体だけ起こす」

「もう起きてる」

「じゃ、身体だけ帰す」

「帰る先、選ぶ?」

「メイの鍋がある車両」

「理由」

「言わない」

「了解」

 方眼へ、寝床と食事の線。

 記憶は空白。

 空白は不足ではない。

 本人が残した、占有済みの空間である。

 三列目。

 介護者。

 目は開いている。

 身体は動く。

 夢からも出た。

 だが、自分の母がどの避難所にいるかを聞こうとしない。

「探さないの」と若い救護員。

「探したら、また私が世話をする」

「家族でしょう」

 メイは、救護員を睨まない。

 睨むと、次から質問そのものを隠す。

「その言葉を、今ここで使う理由」とだけ聞く。

「心配だと思って」

「誰を」

 救護員は答えられない。

 介護者が笑う。

「母を心配してるように見えない私を、心配してるんでしょう」

「……はい」

「私は母が嫌いじゃない。十二年、起こして、食べさせて、寝かせた。嫌いなら、もっと早く逃げた」

「じゃ」

「今夜だけ、誰かにやってほしい」

 ルメの三つの手が上がる。

『移送確認をします』

『投薬時刻を引き継ぎます』

『明朝、継続するか再確認します』

「三人とも、無償?」と介護者。

『一人は有償』

『一人は町の共同時間』

『一人は以前あなたに助けられた返礼』

「返礼、誰」

『今は言わない選択です』

 介護者は、初めて泣いた。

 泣いたから、救われたとは記録しない。

 方眼の『支える人』へ、三本。

 『仕事』は、今夜だけ空白。

 巨人の胸から、紙が一枚剥がれた。

 風へ飛ばない。

 小さな灯籠へ折り直され、診療車の窓辺へ来る。

 札には、母の朝の薬を飲ませる手順。

 介護者は受け取らない。

「ルメへ」

『受け取りではなく、今夜の委託として記録します』

「細かい」

『細かくしないと、明日も私たちの仕事になります』

「正しい」

『正しさは、期限を付けます』

 赤糸へ、夜明け後一回目の鐘まで、と結ばれる。

 四層。

 感情。

 記憶。

 役割。

 生活。

 夢灯都市は、これらを一つの灯籠へ入れた。

 妻を失った悲しみと、朝の薬の手順と、パン窯の温度と、帰る家の鍵を同じ「夢」と呼んだ。

 なぜなら、同じ器へ入れれば管理が楽だったからだ。

 分類が少なければ、役人は減る。

 窓口が一つなら、予算も一つ。

 誰が何を返されたかを、人ごとに考えなくてよい。

 制度は、人間を単純化すると速くなる。

 速くなった制度は、自分を文明と呼ぶ。

 巨人とは、その速度の形だった。

「分ける」とメイ。

 小鍋を机へ置く。

「四枚札。本人が一枚ずつ選ぶ」

「二十八分で?」救護員。

「二十一分」

「もっと無理」

「全部決めさせない。保留を選べる」

「保留が増えたら、夜明けに間に合わない」

「間に合わせるのは、誰の目的」

「町を救う」

「町は、何でできてる」

 救護員が黙る。

「人」と言えば、きれいだ。

 人だけでは町にならない。

 水路。

 窯。

 薬。

 橋。

 帳簿。

 眠る場所。

 働かない時間。

「選べる状態」とメイ。「それを夜明けまで作る」

「全員が選べなかったら」

「選ばなかった権利を残す」

「巨人が」

「巨人を軽くするために患者を起こさない」

 窓の外で、その巨人が中央塔へ一歩近づいた。

 塔まで、二百八十メートル。

【夢内/灯籠巨人・中央流路/入夢/夜明けまで十八分】

 ソムナは、町の名を忘れた。

 灯籠が多い。

 夜が長い。

 紙の屋根。

 自分の家がある。

 名だけがない。

「現在地」

『夢灯都市』とアサ。

「夢灯都市」

『あなたの身体は、中央塔側診療車、第三寝台から第一寝台へ移動。体温三十四・七。脈一三三』

「僕は」

『ソムナ・リル』

「教わった」

『記録する』

「メイは」

『身体医』

「違う。僕にとって」

 通信の向こうで、息が止まる。

 メイ本人が答える。

『朝、塩のないスープを食べた相手』

「それだけ?」

『今、証明できるのは』

 ソムナは、水の中で笑った。

「ひどい」

『記憶を埋めない』

「うん」

『戻ったら、増やす』

「戻ったら、ね」

 彼の前へ、何千枚もの札が流れる。

 先ほどまで、すべて彼の左手首へ向かっていた。

 今、少しずつ分かれている。

 食事は診療車へ。

 寝床は石造り避難所へ。

 薬は薬師組へ。

 介護は三つの小組へ。

 パン窯は外縁宿へ。

 悲しみと記憶は、まだ彼へ来る。

 だが、役割と生活が離れただけで、札の重さは半分以下になる。

「軽い」

『身体側の巨人、胸部荷重十一パーセント低下』とロロ。

「僕の身体は」

『軽くない』とメイ。

「正直すぎる医者は」

『流行らない』

 それを、自分がさっき聞いたかどうか。

 分からない。

 ソムナは杖を握る。

 名を忘れた杖。

 中央へ向かう札の流れを、四つに分ける。

 悲しみ。

 記憶。

 役割。

 生活。

 完全には分かれない。

 悲しみの中へ、朝食の匂いがある。

 薬の手順の中へ、母への怒りがある。

 仕事の中へ、自分の名がある。

 分類は、世界を切る。

 切らなければ運べない。

 切りすぎれば、元の人が消える。

「線は、仮」とエリアの声。

 夢内へ銀の路図が差し込む。

『四つに分ける。でも、移した後に結び直せるよう接点を残す』

「地図が、縫い物へ口を出す」

『縫い物が、道を独占しないで』

「言葉遊び」

『役割分担』

 ソムナは橙糸を一本、銀線へ結ぶ。

 その瞬間、閉じていた最初の醒め目から、灯が一つ出た。

 夢の中の人影は、まだ出ない。

 身体だけが、火から移された。

 寝床と薬が用意された。

 朝の役割を今夜だけ他人へ渡せた。

 そして今、記憶札を一枚だけ、扉の隙間から差し出す。

『家の鍵』

 焼けたかもしれない家の鍵。

「受け取る?」ソムナ。

「保留」

「どこへ」

「私の名前で、預ける」

「名前、聞いていい?」

 長い沈黙。

「まだ」

「うん」

 名のない預かり札を作る。

 匿名ではない。

 本人だけが知る結び方。

 扉の結び目が、もう一つほどける。

 夢からは出ない。

 しかし、夢の中で一人ではなくなった。

【現実/中央塔側臨時診療車/覚醒/夜明けまで十四分】

 町の表示板が変わる。

『身体安全圏 八十一』

『夢退出 七十六』

『記憶返却 五十八』

『生活受入 六十四』

『保留 十九』

『拒否 十一』

 拒否が、数字として現れた。

 以前なら、十一の失敗。

 今は、十一の意思。

 巨人の皮が、音を立てる。

 びり、と。

 胸から右肩へ走る裂け目。

「崩れる?」

「違う!」ロロ。「貼り合わせが緩んでる! 札が持ち主か、別の受取先へ移ってる!」

 何百枚もの紙が、巨人から剥がれる。

 落下する。

 カイルの盾隊が構える。

「燃えてるぞ!」

「水は駄目!」

「分かってる!」

 紙は盾へ落ちる前に、小さく折れる。

 灯籠。

 封筒。

 薬包。

 切符。

 パンを包む紙。

 墓へ置く花形。

 元の用途へは戻らない。

 誰かが選んだ、新しい器になる。

 診療車の窓へ、小さな紙袋が一つ飛び込む。

 中に、焦げていない家の鍵。

 名のない札。

『今は預ける』

 メイは鍵を帳簿へ貼らない。

 封をし、本人鍵の箱へ入れる。

「返却率へ数える?」救護員。

「数えない」

「巨人は軽くなった」

「本人は受け取ってない」

「でも、預け先を選んだ」

「なら、選択済み。返却未了」

「項目が増える」

「人が減るよりいい」

 救護員は新しい欄を作る。

『本人指定保管』

 帳簿は見にくくなる。

 町は、少し正確になる。

 その時、中央塔の鐘が鳴った。

 夜明け前の第一予告鐘。

 紙の巨人が、塔へ顔のない頭を向ける。

 軽くなったはずの身体で、速度を上げた。

「なぜ!」

 窓の外で、エリアの銀線が急角度に折れる。

『重量が下がって、歩行が速くなった! 目的地は変わらない!』

 治療が成功した。

 成功したから、災害が速くなった。

 人の荷物を下ろすことと、巨人を止めることは同じではない。

 メイは小鍋を腰へ戻す。

「目覚めた人、動ける人だけ、火災線へ」

「治療は」

「続ける。歩きながら」

「巨人を止める?」

「違う」

 メイは寝台のソムナを見る。

 彼の唇が、無音で誰かの名を呼んでいる。

 自分の名ではない。

 誰の名か、本人はもう分からない。

「巨人が塔へ着いても、人を戻せる町を作る」

 住民が目覚める。

 一斉ではない。

 同じ朝でもない。

 一人ずつ。

 違う場所へ。

 違う荷物を持ち。

 持たない荷物を選びながら。

 その不揃いな覚醒の上を、白い火が走った。