第589話 第七章「目覚める住民」前編
目覚めることは、治ることではない。
それでも古い医療は、目を開けた者を治療済みと数えた。
呼びかけへ反応する。
自分の名を言える。
手足を動かせる。
ならば寝台を空け、次の患者を置ける。
寝台の数が命の数より少ない時代には、それが正しかった。
正しいというより、他に方法がなかった。
だが、方法がなかった時代の基準は、方法が増えた時代にも居座る。
王朝より長く、宗教より静かに、病院の帳簿へ。
夢灯都市では、目を開けた者を「帰還者」と呼んだ。
帰る家が焼けていても。
朝の薬を買う金がなくても。
眠っているあいだに仕事を失っていても。
介護していた相手が別の避難所へ運ばれていても。
帰った、と記録した。
記録上の帰還は、現実の行き先を必要としない。
だから制度にとって、これほど安い旅はなかった。
【現実/公共救難線・中央塔側臨時診療車/覚醒/夜明けまで二十九分】
「目、開きます」
「開かせないで」
メイ・カフは、若い救護員の指を止めた。
「でも、まぶたが」
「自分で開くのを待つ。光を入れるなら先に声」
寝台の上で、老女のまぶたが震えている。
呼吸は浅い。
右手が、見えない匙を握る動きを繰り返す。
「ここは公共救難線の診療車。火から離れました。身体には触れません。聞こえたら、指を一度動かしてください」
右の人差し指が動く。
「目を開けますか。閉じたままにしますか」
指が二度。
二度は、閉じたまま。
この町の医療は、二日前まで「反応なし」と記録しただろう。
今は違う。
アサが寝台札へ、ざらつく灰色の帯を足す。
『身体覚醒/視覚保留』
「名前を言えますか」
老女の唇が動く。
「言いたく、ない」
「言わなくていい」
「薬」
「種類は」
「黄色。朝、半分」
「薬袋は」
「家」
「家の場所」
「鐘紙街、第三折り路」
若い救護員が地図を見る。
顔が止まる。
第三折り路は、紙の巨人の最初の一歩で半分潰れている。
白い火も回った。
「家へ戻れます」と言えば、嘘になる。
「家はありません」と言えば、確認前の断定になる。
「安全です」と言えば、何を安全と呼んだのか分からない。
メイは腰の帳簿を開いた。
「薬は、同じ形を診療所で確認します。家は現地確認中。今夜の寝床は、この車両か北側の石造り避難所。どちらも選ばなくていい。決めるまでここにいていい」
「帰還者、ですよね」
「身体は」
「夢は」
「あなたが決める」
「家がないなら」
老女の指が、また匙を握る。
「起きて、何をすればいい」
治療者が最も言いたくなる言葉は、励ましである。
大丈夫。
これから考えましょう。
生きていれば何とかなります。
どれも、未来を担保に取る言葉だ。
本人の持っていない明日を、医療者が勝手に前借りする。
「今は、薬を半分飲む」とメイ。「次に、水。朝食は、あなたが食べられるものを聞く。その先は、決めてない」
「決めてないの」
「うん」
老女の口元が、ほんの少し曲がる。
「正直すぎる医者は、流行らないよ」
「流行病よりはまし」
「言葉遊び」
「診療報酬は出ない」
老女は目を閉じたまま、喉で笑った。
笑ったから、元気とは記録しない。
診療車には、目覚めた者が四十一人。
身体だけ戻った者が十二人。
夢の記憶を保留している者が九人。
夢から声を返しても、身体を起こしていない者が七人。
何も返さない者が、数えられる範囲で二十三人。
数えられない者は、数に入っていない。
これを「覚醒率」と一つの数字にすれば、町は見やすくなる。
人は見えなくなる。
メイは小鍋の底で床を三度叩いた。
「表示、変える」
ユーディの通信が返る。
『今、全市表示は覚醒率七十四』
「消して」
『理由』
「上げるために起こす人が出る」
『代わり』
「身体覚醒。夢退出。記憶返却。生活受入。この四つ」
『項目が増えると、市民が理解しにくい』
「理解しやすい数字が、人を間違って起こす」
『現場の負担』
「増える」
『時間』
「二十七分」
『変更する』
決裁は短い。
短いから、責任が軽いわけではない。
町じゅうの表示板から、一本の太い数字が消えた。
代わりに、四つの欄が出る。
『身体が安全圏へ移った者』
『夢から退出を選んだ者』
『記憶の返却を選んだ者』
『目覚めた後の支えが決まった者』
最後の数字だけ、最も低い。
そして、最も低い数字が見えた瞬間、紙の巨人の右肩が沈んだ。
「動いた!」
救護員が窓を指す。
中央塔へ迫る巨人。
その右肩を覆っていた灯籠の一群が、ふっと薄くなる。
落ちたのではない。
燃えたのでもない。
紙と紙の間へ、空気が入った。
「何をした区画」とセレナ。
単眼鏡を構えたまま、通信越しに問う。
「鐘紙街、第三折り路の住居支援を一件確定。薬と寝床」とメイ。
『夢の返却は』
「まだ」
『感情処理』
「してない」
『記憶』
「受け取ってない」
巨人が軽くなった。
悲しみを癒したからではない。
夢を返したからでもない。
目覚めた身体が、今夜どこへ置かれるかを決めたから。
「四層のうち、現実支援だけでも荷重が下がる」ロロの声。「仮説、数字で出る! 右肩荷重、七パーセント低下!」
「一件で?」
「一件じゃない。第三折り路の共同寝床を、石造り避難所へまとめて割り当てた。二十六人分!」
「まとめて?」アサの声が鋭い。
「場所を確保しただけ! 行くかは別!」
「表示」
「『使用可、選択未定』!」
「ならいい」
「よくはない! 二十六人へ寝台十四!」
「不足を隠すよりいい」
「足りないものを見せたら、足りるのかよ!」
「見せなければ、誰か一人が足りない分になる」
誰か一人。
メイは第三寝台を見る。
ソムナの身体は、別車両から中央塔へ近づいている。
体温は三十四・九。
脈は一二六。
入夢時より増えた白い袖札は、遠隔記録では数え切れない。
町の不足分が、彼の記憶になっている。
記憶になり、記憶の欠落になっている。
【夢内/灯籠巨人・右肩居住区/入夢/夜明けまで二十五分】
ソムナは、自分の杖の名前を忘れた。
長い。
先に灯がある。
夢の裂け目を縫える。
右手へ馴染む。
名だけがない。
「杖」と呼べば、使える。
使えるから、困らない。
困らないから、失ったことを数えにくい。
その杖で、彼は紙の扉を叩く。
「身体側から、寝床が一つできた」
返事はない。
最初の醒め目を内側から閉じた人影が、扉の向こうへいる。
顔を見せない。
名も言わない。
「鐘紙街の石造り避難所。第三折り路の人へ、十四床。二十六人が使える。足りない。床でよければ、追加十二。薬は診療所が確認する。家の損害は、まだ分からない」
正確に言う。
大丈夫とは言わない。
扉の向こうで、紙が擦れる。
「家は」
初めて声がした。
若くない。
老いてもいない。
泣き疲れた声。
「確認中」
「燃えたのを、見た」
「夢から?」
「醒め目の向こう」
「うん」
「起きたら、火の続きを見る」
「見るかもしれない」
「夢にいれば、火は白い」
「現実も白い」
「夢の白は、熱くない」
「身体は熱いところにある」
沈黙。
「起きたくない理由を、言わせるの」
「言わなくていい」
「今、聞いた」
「聞いた。答えなくていい」
「ずるい」
「うん」
「夢葬師は、もっと優しく言う」
「僕は、優しくない」
そう言ってから、ソムナは自分がどんな子供だったかを思い出そうとした。
優しかったか。
意地悪だったか。
家族へ何を言ったか。
何も出ない。
記憶を失うとは、空白ができることではない。
空白へ問いを置いた時、その問いが落ち続けることだ。
「身体を、石の建物へ移していい?」
「夢からは出ない」
「身体だけ」
「……名前を出さない?」
「出さない」
「家の損害確認に使わない?」
「使わない」
「夢を見た理由を聞かない?」
「聞かない」
「薬」
「必要なら、身体医が確認する」
「必要って誰が」
「あなた。言えなければ、身体の危険だけメイが判断。夢の内容は使わない」
扉の内側で、結び目が一つほどける。
全部ではない。
醒め目は閉じたまま。
しかし、床の下から一本の糸が現実へ伸びる。
『身体移送のみ同意』
夢を出ない者が、現実の火から逃げる。
それは矛盾ではない。
身体と夢を一つの荷物として運ぶ制度のほうが、長く矛盾を隠していた。
ソムナは糸を受け取る。
白い札が一枚、元の色へ戻った。
彼の記憶は戻らない。
失ったものと、返された荷物は同じではないからだ。
【現実/中央塔側臨時診療車/覚醒/夜明けまで二十二分】
メイは、床へ光る方眼を展開した。
生活の状態を方眼光へ変える診療譜〈デイリー・グリッド〉。
縦に、人。
横に、五つ。
食事。
寝床。
薬。
支える人。
明日の仕事。
「仕事、要る?」
救護員が問う。
「あると重い人もいる。ないと重い人もいる」
「治療項目じゃない」
「目覚めたあとに死ぬ理由は、病気だけじゃない」
最初の列。
パン焼き職人。
身体覚醒済み。
夢退出済み。
記憶返却、保留。
「明日、窯へ戻る」と彼は言う。
両手に軽い火傷。
窯は焼けた。
家も窯の二階だった。
「戻れない」と救護員が言いかける。
メイは止めない。
止める前に、職人が笑う。
「戻れない場所へ戻るんだよ。職人ってのは」
「窯は、倒壊」とメイ。
「火種は」
「救出済み」
「なら焼ける」
「どこで」
「外」
「粉」
「店の地下」
「浸水」
「……したか」
「確認中」
「朝、町が起きる」
「全員をあなた一人で食べさせない」
「誰かが焼かないと」
「誰か、は一人じゃない」
ルメの赤い糸が、方眼の上へ三本置かれる。
『粉を運べる小組』
『石窯を持つ外縁宿』
『焼かない朝食を作れる診療班』
ルメは、一つの声で言わない。
『あなたが焼く場合、二時間で交代』
『焼かない場合、職人でなくなるわけではありません』
『火傷の手で生地をこねると、明後日焼けません』
「三人に説教されると、三倍腹が立つ」
『三倍ではありません』
『別方向です』
『一つは腹が立たない可能性があります』
「全部、立つ」
職人は右手を見た。
「二時間」
「一時間」とメイ。
「一時間半」
「一時間。明日の再診で延長」
「医者の値切りは乱暴だ」
「身体から取る値段より安い」
方眼の『仕事』へ、一本ではなく三本の線が入る。
自分で焼く。
他人へ教える。
今日は焼かない。
どれも、職人を消さない。