第588話 第六章「契約のない避難列車」後編
三番車の床下で、音がした。
車輪音ではない。
工具箱でもない。
息を殺した者が、殺しきれなかった咳。
イヴァが非常制動へ手を掛ける。
「急停車しない」とミラ。
「床下に人」
「急停車したら落ちる」
「速度を三割へ。次の仮軌条まで四十秒」
「前方、曲線」
「分かっている」
放送口を開く。
『三番車床下にいる方へ。私はイヴァ・レイル。あなたの名は聞きません。列車を四十秒後に減速します。今、動かないでください。返答できれば、床を一度。できなければ、返答しなくていい』
床が、一度鳴った。
『身体は一人ですか。一人なら一度。二人なら二度。分からなければ三度』
一度。
『けが。あるなら一度。ないなら二度。分からないなら三度』
三度。
「便利ね」とミラ。
「何が」
「分からないを三度にした」
「以前はなかった」
「以前の車掌なら、答えを一つにした」
「以前の空賊なら、床板を剥がした」
「今も剥がすよ。説明してから」
列車が減速する。
停刻標が、曲線外側へ四つ。
一つの標で車両全体を止めれば、後部が浮く。
イヴァは停止条件を車輪ごとに分けた。
右手が震える。
左手の穿票鋏で、四つの停車穴を開ける。
ミラは義足の帆を閉じた。
風を盗めば止められる。
だが、盗んだ運動量をどこへ返すか決まっていない。
使わない。
能力を持つ者の成長は、できることが増えるだけではない。
できることを、しない理由が増えることでもある。
列車は仮軌条へ滑り込み、止まった。
三番車の床板へ、ミラが平手を置く。
「開ける。嫌なら二度叩いて」
返答なし。
「返答なしを同意にする?」イヴァ。
「しない。火災も水没もない。待つ」
「次の医療駅が遅れる」
「何分」
「四分」
「待てる」
「誰が決めた」
「運行表。次の患者の薬は十四分余裕」
「四分を越えたら」
「別の開け方を相談」
床下から、掠れた声。
「登録、しない?」
「しない」とミラ。
「降ろさない?」
「危険なら移す。行き先は決めない」
「手を、見ない?」
「見ないで引き上げる方法は、遅い」とイヴァ。「布を下ろし、自分で結んでもらう。顔と手を隠したまま上がれる。けがの確認は、あなたが見せる範囲から」
「追手が、車内に」
「いる証拠」
「分からない」
「なら、黒結びの区画へ。係員二人。乗客は入れない。追手がいるかは後で確認」
「二人とも、運行局?」
「私は元運行局。ミラは元空賊船長」
「どっちも嫌」
「選べる人材が悪い」とミラ。
床下で、短い笑い。
布が下ろされる。
自分で結ぶ音。
上がってきたのは、顔を灰布で覆った痩せた人物だった。
性別も年齢も問わない。
右足首が腫れている。
「触れる」と救護員。
人物は首を振る。
「固定具を渡す。自分で巻く。図が必要?」
頷く。
救護員が図を置く。
触れない。
列車は四分二十秒遅れで再発車した。
身体数が一つ増えた。
乗車時の結び目は増えない。
途中で黒結びを一つ渡したから、現在の結び目は増えた。
最初の人数も、最初の結び目も、どちらも正しかった。
現在とは、違った。
四分二十秒の遅れは、次の仮駅で六分になった。
薬品貨車が先へ出る。
救護員が一人、そちらへ移る。
乗客二人が、予定を変えて降りる。
一人は結びを外す。
もう一人は外さない。
「外して」とイヴァは言わない。
降りた者が、結びを持っていたいこともある。
自分が乗客だった証拠。
戻れる印。
途中で降りたという、自分で決めた記録。
代わりに、車両側の座席札を返す。
身体数は二減る。
結び目総数は一しか減らない。
「また合わない」とミラ。
「合わなくていい数字を、合うと思ったのが誤り」
「でも、誰か落ちた時に分からない」
「身体数は別に取る」
「名前なしで」
「区画ごとの荷重、乗務員の目視、本人の自己申告、寝台占有、熱像。四つ」
「熱像は夢灯の火と人を間違える」
「だから決定打にしない」
「目視は隠れた人を落とす」
「だから床下確認を説明する」
「自己申告は返答できない人を落とす」
「だから寝台と荷重」
「荷重は壺と人を間違える」
「だから四つ」
「四つ全部、穴がある」
「穴を重ねない」
ミラが、笑った。
短く三回。
「何」
「車掌が、契約みたいなこと言った」
「契約は嫌いではない」
「一人で目的地を決める契約が嫌い」
「あなたは」
「契約へ入れない人を落とす契約が嫌い」
「同じ列車へ乗れる」
「同じ穴へ落ちない限り」
イヴァは穿票鋏を一度鳴らす。
「試験規則を追加する」
「また?」
「身体数と結び目が一以上ずれ、四系統で説明できない場合、次の安全停車場で運行を止める」
「救難要請が来ても?」
「別列車へ引き継ぐ」
「別列車がなければ」
「その時に、乗客へ説明して選ぶ」
「規則じゃない」
「規則に例外を書かない。例外時の手続きを書く」
「成立」
「あなたも署名して」
「署名なしの救難線に?」
「運営者は署名する」
「不公平」
「権限があるから」
「もっと不公平」
「だから署名する」
ミラは右小指の古い船長契約の刺青を、紙へ押した。
インクではない。
皮膚の凹凸を炭で写す。
イヴァは左手で名を書く。
右手の震えを隠さない。
二人の下に、空欄がある。
乗客代表。
救護員代表。
次の地域管制。
今は埋まっていない。
「空白」とミラ。
「未完成」
「怖い?」
「はい」
「車掌が言うんだ」
「怖くない制度は、止め方を忘れる」
列車は、夢灯都市の外縁を走る。
窓の向こうで、紙灯籠が風に揺れる。
まだ巨人ではない。
まだ町は眠っていない。
まだ緊急要請は届いていない。
だから二人は、間に合うと思っていた。
制度を一度止めて、数え直す時間があると。
未来は、規則を読まない。
署名欄の空白は、走っているあいだも空白だった。
「乗客代表を決めます」
イヴァが放送すると、三番車から老人の声が返る。
『決めないと乗れんのか』
「乗れます」
『なら決めん』
四番車から、壺を抱いた女。
『代表になったら、他の人の行き先を決めるの』
「決めません。運行記録を見て、異議を残す役です」
『字が読めない』
「読み上げます」
『名前は書くの』
「書かなくていい」
『責任だけある?』
「異議を言う責任ではなく、言える権利です」
『言わなくてもいい?』
「はい」
『それ、代表じゃないでしょう』
「はい」
放送口の向こうで、いくつか笑いが起きた。
「名称を変更する」とイヴァ。「乗客確認席」
「席にしたら、誰か座ると思う?」ミラ。
「空席でも、運行を始められる」
「誰も見なかったら、監査にならない」
「見ない権利を残す」
「運営者が見ないでほしい時に、全員が見ないかもしれない」
「記録は公開する」
「公開された記録を読む時間は誰が払う」
「……基金」
「赤字、増えた」
「額」
「まだ決まってない。決まってない赤字が一番高い」
その時、十三番駅の古切符を持った男が、前方扉へ来た。
「読むだけなら、やる」
「代表ではなく確認者」とイヴァ。
「名前は」
「いらない」
「報酬」
ミラが先に口を開く。
「一時間十四ルク。危険手当なし。運行中に避難誘導をしたら別勘定」
「金を取るのかと思った」
「仕事へ金を払う」
「乗せてもらってる」
「運賃と労働は相殺しない」
「借りが残る」
「残さないために分ける」
男は少し考えた。
「十ルクでいい」
「値下げの理由」
「字を読むのが遅い」
「遅い時間も労働」
「十四」
「成立」
男が空席へ座る。
イヴァは試験規則を一行ずつ読む。
男は、分からない箇所で止める。
「『安全確認の範囲』って、誰の安全だ」
「乗客と乗務員」
「追手から隠れる安全も?」
「含む」
「列車が重すぎて落ちない安全と、見つからない安全が喧嘩したら」
「その場で説明し、優先を一人で固定しない」
「時間がなかったら」
「代理判断をする。後で範囲を監査する」
「誰が」
「乗客確認席、地域管制、外部監査」
「全部いなかったら」
イヴァは答えられない。
ミラも、金額へ逃げなかった。
「その時は」とイヴァ。「私が決める」
「一人で決めない制度じゃないのか」
「一人で決めた事実を隠さない制度」
「違うな」
「違います」
男は紙の余白へ、名前ではなく、古切符の穴形を写した。
「異議。最後に一人へ戻る」
「記録する」
「直せるか」
「今は直せない」
「なら、出発を止めるか」
「現在の運行を止める危険と比較する」
「便利な言い方だ」
「不便な現実です」
男は鼻を鳴らした。
「十四ルク分は聞いた」
「まだ十七分」とミラ。
「残りで、改善案を書く」
「追加料金は」
「込みだ」
「安売り」
「初回割引」
ミラは短く三回笑った。
その笑いを聞き、壺を抱いた女が食事容器を返しに来る。
「魚煮、おいしかった」
ミラの右手が、反射で硬貨を求める形になる。
ありがとうを受け取ると、借りが生まれる。
かつて彼女はそう考えた。
今も、身体はそう考える。
「その親切、いくら――」
途中で止める。
女が眉を上げる。
「何」
「味の報告。受領」
「料金は」
「取らない」
「無料?」
「あなたからは」
「さっきと同じね」
「同じことを、二回言えるようになった」
「成長が小さい」
「小さい方が返済しやすい」
女は壺を抱えたまま戻る。
ミラは硬貨を出さなかった。
礼も言わなかった。
受け取った、とだけ言った。
契約外の言葉は、まだそれだけで精一杯だった。
列車の前窓へ、橙の緊急伝羽が貼りつく。
『夢灯都市。市民同時睡眠。紙火災。中央塔周辺の地上避難路、二本断絶』
イヴァの穿票鋏が一度鳴る。
「次の停車を変更する」
「乗客へ聞く」とミラ。
「緊急救難。現在の目的地到着が二十七分遅れる」
「反対した人」
「別車両を切り離し、予定線へ」
「機関、足りる?」
「一両なら」
「過積載」
「分かっている」
分かっているが、列車は増えない。
イヴァは放送口を開く。
『乗客へ。私はイヴァ・レイル。次の停車候補を追加します。夢灯都市救難。到着遅延、二十七分。予定線を継続する車両を一両残します。変更、継続、保留を、結び目で示してください。返答できない人は、現在の車両のまま。生還後、判断の代理範囲を監査します』
「返答できない人を連れてく」とミラ。
「今、全車両を分ければ医療寝台が足りない」
「正しい」
「正しいだけでは足りない」
「言えるようになったね、車掌」
「あなたのせい」
「対価は」
「この列車を止めないこと」
「高い」
投票。
変更、百三十九。
継続、二十一。
保留、二十二。
合計は百八十二。
結び目は百八十七。
余分な五つは、まだ残る。
【現実/夢灯都市・西側火災縁/到着/夜明けまで三十六分】
雷導列車は、線路のない空を走ってきた。
車輪の下へ、イヴァの停刻標が短い軌条を作る。
一つの中央線ではない。
車両ごとに別の停止位置。
ミラが先頭屋根へ立つ。
左義足の小帆が開く。
横風を盗まず、受けて返す。
「都市側、橋の長さ!」
エリアの通信。
『百十二メル。中央で十三メル欠損』
「列車、九両!」イヴァ。
「一両十三、連結余白込み百二十一!」
「橋にするなら乗客を降ろす」
「降ろす先が燃えてる」
「寝台車二両を救護所へ。貨車四両を橋。機関車と三両は退路」
「線路」
「ロロが受け金を」
『今作ってる!』
「二本腕で?」ミラ。
『町の修理工が二十六人いる! ぼくの腕を数えるな!』
「景気がいい」
列車が分かれる。
乗客を載せたままの車両は、避難広場へ。
空にした貨車は、連結器を伸ばして紙橋の欠損へ横倒しになる。
橋は、走るための列車を止めて作る。
イヴァの胸が一度乱れる。
強雷場。
不整脈。
「交代」とミラ。
「停止位置が」
「口で言え」
「あなたは車掌ではない」
「船長でもない。今は操舵手。役職不足なら、仕事で埋める」
イヴァは穿票鋏を渡さない。
停止条件だけを渡す。
「四両目、三拍遅らせる。七両目、右へ二。中央貨車は橋へ固定したら権限をロロへ」
「成立」
ミラが義足の帆で屋根を滑る。
急減速。
右膝へ負担。
顔をしかめる。
「痛み」とイヴァ。
「三割」
「十段階」
「三」
「正直」
「請求が後だから」
四両の貨車が、燃える街路へ架かる。
紙の火の上を、鉄の橋が通る。
ラトの索救難班が渡る。
眠る住民を寝台ごと運ぶ。
アサの退出札を胸へ置き、夢から出るかは決めない。
「人数!」イヴァ。
「橋へ百六」とミラ。
「渡り終えた側、百五」
「一人足りない」
「結び目」
「百九」
「さらに合わない」
イヴァの声から放送調が消える。
「止める」
「橋を?」
「人数確認。三十秒」
「火は待たない」
「一人を落としたまま進めない」
「橋全体を止めたら百人が焼ける」
二人の穴が衝突する。
ミラは匿名を守りたい。
イヴァは誰も置いていきたくない。
「重量」とミラ。
「誤差」
「車両ごとじゃない。橋の前後で、ロロの荷重計」
『聞こえてる!』ロロ。『前後差、四十七キロ! 子供一人分か荷物!』
「荷物確認」とイヴァ。
「名前は聞かない」とミラ。
橋の下。
白火の中で、黒い結び目が揺れる。
寝台から落ちた荷袋。
中に人はいない。
重量四十六キロ。
「人は合う」とミラ。
「一キロ、誤差」
「解決してない」
「今は渡す。後で試験を止めて直す」
「止める?」
「止める」
イヴァは、自分の制度を守るために運行を続けない。
橋の交通が再開する。
最後の貨車が、中央塔外周へ届く。
ハルは寝台から起き上がろうとする。
「まだ」とメイ。
「ソムナへ行く」
「身体確認」
「終わった」
「煙吸入、左肩、覚醒直後の方向感覚」
「全部、動ける」
「動けると、走れるは違う」
ミラが寝台の横へ滑り込む。
「運ぶ?」
「いくら」
「今は署名なし。生還後、決める」
「親切」
「借りじゃない。救難制度」
「ありがとう」
ミラの風鈴が、鳴らない。
一瞬だけ、返す硬貨を探す手が止まる。
「保留」と彼女。
イヴァは橋の入口へ、白い結びを付ける。
行き先保留。
夢から戻るか。
記憶を受け取るか。
家へ帰れるか。
まだ決められない者も、橋を渡れる。
列車は、燃える町へ一本の鉄路を架けた。
夢の出口ではない。
目覚めた後に立つ場所へ続く、現実の橋だった。