第587話 第六章「契約のない避難列車」前編
切符は、乗るための紙である。
同時に、乗せたことを証明する紙でもある。
誰が。
どこから。
どこまで。
いくらで。
どの規則へ同意して。
鉄道は、人を運ぶ前に人を文章へ変える。
文章になれない者は、乗客になれない。
名前を言えない。
金を持たない。
目的地が分からない。
追跡されたくない。
同意する意識がない。
そのような者ほど救難列車を必要とするのに、必要とする者ほど切符を買えない。
ミラ・ベルウェザーは、この矛盾を契約の穴と呼んだ。
イヴァ・レイルは、運行の責任と呼んだ。
二人は同じ列車へ乗った。
同じ答えを持っていたからではない。
互いの答えに、気に入らない穴があったからだ。
【現実/夢灯環外縁・公共救難線臨時列車/運行中/夜明けまで五十六分】
「人数、百八十二」
イヴァが言った。
「結び目、百八十七」とミラ。
「五つ多い」
「荷物」
「荷物へ人用を結ぶなと決めた」
「決めた。守られてるとは言ってない」
「確認する」
「全員へ名前を聞く?」
「聞かない」
「契約成立」
「まだ」
元監獄列車を改装した公共救難線。
鉄格子は外されている。
扉は内側からも開く。
寝台には拘束帯でなく、本人が握れば外れる布環。
車内放送の最初には、イヴァ自身の名と、次の停車を本人が決められることが流れる。
乗客の胸には、署名の代わりに色結び。
青は医療。
橙は家族確認。
白は行き先保留。
黒は身元非開示。
ただし、ミラは赤と緑の違いを信号へ使わない。
結び目の形。
布端の切れ込み。
小さな鈴音。
「色だけで作った奴、請求四割増し」とミラ。
「誰へ」
「設計会議」
「あなたもいた」
「自分へ請求するほど会計が健全じゃない」
「健全にして」
イヴァは左耳をミラへ向ける。
信頼。
そして、列車音の中では口元を読むため。
「五つの余分、三つは空寝台」とミラ。「前の乗客が結びを外さず降りた」
「一つ」
「子供が両手へ二本」
「残り」
ミラの風鈴が鳴らない。
「分からない」
署名なしで使える救難路〈フリー・ライン〉は、名前を取らない。
名前を取らないから、追跡から守れる。
名前を取らないから、誰かが途中で消えても分からない。
「人数は身体で数える」とイヴァ。
「寝台の下も?」
「見る」
「身元非開示の人が隠れてる」
「見つけるだけ。名は聞かない」
「見るのも嫌って言ったら」
「安全確認の範囲を説明。拒否なら、車両の総重量で確認する」
「機関が古い」
「誤差三人分」
「一人を見落とすには大きい」
「分かっている」
制度は未完成。
未完成だから、試す。
完成したと宣言してから人を乗せる方が危険である。
その試験は、三十分前から失敗していた。
失敗しているから、事故ではない。
事故になる前に、失敗と呼べている。
公共制度にとって、この違いは大きい。
英雄譚にとっては、ひどく地味だ。
【現実/夢灯環北縁・仮停車場「灰綱」/試験停車/夜明けまで七十一分】
駅舎はなかった。
線路へ渡した板が一本。
雨除けの帆が二枚。
行き先を書かない掲示板が三枚。
その前に、四十三人がいた。
正確には、四十三の身体が見えた。
見えない身体がいるかもしれない。
見えている者のうち、乗らない者もいる。
乗らないが、乗り方だけ知りたい者もいる。
誰かを見送りに来ただけなのに、その誰かが怖くなって乗れなくなれば、見送り人が乗客になることもある。
鉄道は人数を数えたがる。
人間は、数えられる前後で予定を変える。
イヴァは板の端へ塩を一粒落とした。
「私はイヴァ・レイル。次の停車は三つ。石造り避難所、移動法廷、行き先保留車。名前は言わなくていい。料金は今は取らない。降りる駅は途中で変えられる。乗らないことも選べる」
「今は、って何だ」
帆の下から、片目に白濁のある老人が言った。
「運行費は消えない。生還後、自治線の会計へ公開する。利用者個人への請求はしない」
「無料じゃないのか」
「無料ではない。あなたから取らない」
「同じだろ」
「違う」とミラ。「無料って言葉は、働いた奴の値段を消す。取らないって言葉は、誰が払うかを残す」
「難しい娘だ」
「難しい料金は、簡単に人を縛る」
老人は鼻を鳴らした。
「耳が悪い。色もよく見えん」
「色は補助」とイヴァ。「乗車は一つ結び。医療は二つ結び。行き先保留は輪。身元非開示は布端へ三本の切れ込み。音が必要なら鈴。触って分かる」
「鈴は聞こえんと言った」
「だから触る」
ミラが老人の掌へ、結び布を置く。
固い一つ結び。
隣に、ほどける輪。
布端の三つの刻み。
「これは」
「乗る。行き先は保留。名前は取らない」
「全部、布一枚か」
「布一枚へ人生全部は書けない。だから必要なことだけ」
「必要を誰が決める」
「今、あんたが一個増やした」
老人の口元が動いた。
笑ったのか、歯が痛んだのか、ミラは決めなかった。
「降りる時、起こせ」
「どこで」
「まだ決めん」
「契約保留」
「それを言わないと死ぬ病気か」
「言わずに助けられると、借りになる病気」
老人は布を受け取った。
乗客、一。
行き先、零。
運行局なら不備と呼ぶ。
公共救難線は、出発可能と記した。
次に来たのは、灰色の壺を抱いた女だった。
年齢は三十か、五十か。
顔へ煤がつき、年齢を隠している。
壺へは、橙の結び布が二本。
「二人」と女は言った。
イヴァの視線が壺へ落ちる。
「身体は一人」
「この中に一人」
「遺骨?」
「夫」
「荷重は一人分ではない」
「人じゃないって言うの」
「言っていない。安全計算の身体数は一。あなたが守る生活数は二。どちらも記録する」
「記録したら、名前を取る?」
「取らない」
「壺を荷物庫へ入れろって?」
「入れない。膝へ置く。急停車用の布環だけ付ける。壺へ人用の結びは使わない」
「夫は乗客じゃない?」
問いは、鉄道法の外から来た。
死者は運賃を払わない。
席を使わない。
途中下車を望まない。
だから古い時刻表は、死者を荷物と数えた。
だが、遺骨を失えば生者が降りられないことを、時刻表は数えない。
イヴァは穿票鋏を鳴らさなかった。
「夫は、あなたが降りる条件」
「人じゃないのね」
「私が決めない」
「逃げた」
「はい」
女は壺を抱き締める。
「正直ね」
「正直で遅れることがある」
「嘘で早く着くよりはいい」
ミラが壺へ、荷重用の平結びを付けた。
「これは荷物の印じゃない」と彼女。「落としたら列車を止める物の印」
「人と同じ?」
「人なら、落とす前に止める」
「言い方が悪い」
「値引きはしない」
女は初めて笑った。
身体数、一。
守る対象、二。
結び目、三。
数字は、早くも一致しなくなった。
「一列に並ばせないの」
十三歳ほどの少女が問う。
手首に、誰かが消した戸籍印の火傷。
隣に、彼女より背の高い少年がいる。
少年は喋らず、少女の袖を握る。
「一列は速い」とイヴァ。
「並ばせないの」
「並ばせる。乗る人、質問だけの人、休む人、離れたい人で線を分ける」
「名前を言わない人の線は」
「全部」
「分けたら、どの線へ行ったかで分かる」
イヴァが答える前に、ミラが板へ四本の索を置いた。
同じ色。
同じ太さ。
行き先だけが、足裏の結び数で分かる。
「上から見ても、どれがどれか分からない」
「係員も?」
「足で踏めば分かる」
「係員に分かるじゃない」
「列車を出す奴には必要」
「その人が売ったら」
「四割の問題」とミラ。
「何の」
「制度は、悪い人がいない前提だと四割しか役に立たない。係員が売る。名簿を盗む。結びの意味を漏らす。だから意味を駅ごとに変える。今日の輪は保留。明日は医療かもしれない」
「昨日の結びを持ってたら」
「読み直す。時間がかかる」
「逃げてる時に?」
「かかる」
「役に立たない」
「半分は」
「残り半分で助けるの?」
「残りを増やすために、あんたが穴を見つけてる」
少女は黙った。
褒められたと思わなかった。
利用されたとも思わなかった。
どちらかをミラが決めなかったからだ。
「二人で一つの結びにして」
「身体は二人」イヴァ。
「追われてるのは一つ」
「急停車で一人落ちた時、分からなくなる」
「別々にしたら、別々に連れていかれる」
二人の要求は矛盾する。
一緒に扱ってほしい。
別々の身体として守ってほしい。
行政は、どちらかを選ばせる。
生活は、両方を要求する。
イヴァは二本の布を出した。
一本ずつ手首へ結び、布端を細いほどける糸でつなぐ。
「身体は二。希望は一緒。離れる時は、どちらからでも切れる」
「切ったら、相手に分かる?」
「鈴は付けない。分からない」
「勝手に離れられる」
「離れられない結びにはしない」
少女は少年を見る。
少年が初めて口を開く。
「僕が切るかもしれない」
「うん」と少女。
「怒る?」
「怒る」
「切っていい?」
「いい」
同意は、相手が喜ぶことではない。
相手が怒る自由を残したまま、選べることだ。
二人は乗った。
身体数、二。
結び目、二。
関係線、一。
また、数字が増えた。
試験列車が発車するまで、十一分遅れた。
旧時刻表なら失敗。
救難線なら、まだ判定保留。
乗らないと決めた者が七人。
質問だけして帰った者が三人。
乗ると言ってから降りた者が二人。
乗らないと言って、扉が閉じる直前に乗った者が一人。
最後の一人は、切符を持っていた。
三年前の古切符。
行き先は、存在しない十三番駅。
「これは使えるか」
男は帽子を目深にかぶっていた。
「使わなくていい」とイヴァ。
「無効か」
「今の列車は、切符なしで乗れる」
「なら、この紙は」
「あなたが持っていていい」
「証拠だ」
「何の」
「俺が一度、乗客だった証拠」
イヴァの右手が震えた。
十三番駅。
そこから連れ出した四十七人。
名前を守るために、権利まで止めた三年間。
男の顔を、彼女は知っているかもしれない。
知らないかもしれない。
知っていると口にすれば、身元非開示を破る。
「今も乗客です」とイヴァ。
「紙がなくても?」
「身体が乗れば」
「途中で降りたら」
「降りた人」
「乗客じゃなくなる」
「元乗客になる」
「証拠は」
イヴァは古切符へ穴を開けなかった。
代わりに、新しい無地札を一枚重ねる。
「今日、乗った。名前なし。行き先保留。降車後も記録を残すかは、あなたが決める」
「残さない」
「なら、札は渡す」
「運行局には」
「人数だけ」
「人数は、俺を証明しない」
「はい」
「また消える」
「あなたの手元の札は残る」
「燃えたら」
「私には、あなたを証明できない」
言い切った。
鉄道は、人を文章へ変える。
文章へ変えなければ守れない権利がある。
文章へ変えれば奪われる安全もある。
両方を完全に守る切符は、まだない。
男は古切符と無地札を胸へ入れた。
「未完成だな」
「試験運行です」
「客で試すのか」
「完成品だと偽って試すよりは」
「言い訳は上手くなった」
「車掌でしたから」
「今もだろ」
イヴァは返事をしなかった。
穿票鋏も鳴らさなかった。
列車が動き出す。
車輪は、雷鎖環のように規則正しく鳴らない。
夢灯環の空路へ敷かれた仮軌条は、灯籠の熱で伸び縮みし、三拍ごとに一度、音が遅れる。
イヴァは遅れを数える。
ミラは、数えない。
「三番車、十二キロ重い」
「壺」
「三キロ」
「老人の工具袋」
「七」
「辛い魚煮」
「二」
「買ったの」
「救難線の食事試験」
「また勝手に項目を増やした」
「空腹で同意を取ると、同意じゃなくて飢えの答えになる」
「会計」
「店主へ受領札。利用者へ請求なし。自由港基金から仮払い」
「基金残高」
「聞くと食欲が消える」
「言って」
「赤字」
「額」
「三百二十一ルク、八十七セント」
怒るほど細かい。
「今、怒っている?」
「赤字へ」
「誰へ」
「無料って書いた看板へ」
「書いていない。署名なしと書いた」
「読めない人には同じ」
ミラは魚煮の蓋を開けた。
唐辛子と焦がした油の匂い。
「食べる?」
「発車後九分は飲食しない」
「何の規則」
「急停車時の誤嚥防止」
「今、十一分」
イヴァは時計を見る。
十一分四秒。
ミラが木匙を差し出す。
イヴァは左耳を彼女へ向けたまま、受け取る。
「対価」とミラ。
「あなたが食事試験を勝手に増やした記録を残す」
「嫌がらせ?」
「監査」
「友情より高い」
「友情を運賃にしない」
「成立」
二人は同じ鍋から食べなかった。
感染対策で匙を分けた。
関係が近いことと、境界がないことは同じではない。
「車掌さん」
小さな声が、イヴァの左側からした。
聞こえない。
少女が二度目に呼ぶ前に、ミラが床を踵で二度叩いた。
イヴァが振り返る。
六歳ほどの子供。
左右の手首へ、それぞれ一つずつ白い輪を結んでいる。
「一人で二つ?」
イヴァが問う。
「一個は、まだ乗ってない子」
「どこにいる」
「夢」
「身体は」
「分かんない」
「名前は」
「言わない」
「その結びは、あなたの身体数には入れない」
「じゃあ捨てる?」
「捨てない」
「数えないのに?」
「希望として別に数える」
「希望って、人?」
「人かもしれない」
「荷物?」
「違う」
「じゃあ何」
イヴァは答えを探した。
時間を止める能力を持つ者なら、答えが出るまで世界を待たせられたかもしれない。
彼女の停刻標は、列車と条件を止めるだけだ。
子供の問いは止まらない。
「今は、探す理由」
「理由は乗れる?」
「あなたと一緒なら」
「途中で僕が降りたら」
「結びを、次の係員へ渡せる」
「誰も受け取らなかったら」
「列車へ残す」
「列車が壊れたら」
「次の列車へ」
「最後の列車だったら」
「私が持つ」
イヴァは言ってから、口を閉じた。
また一人で預かる答えを出した。
小さな結び一つだから、持てると思った。
小さい責任ほど、一人へ集まりやすい。
「私だけでは持たない」と言い直す。「車内掲示へ一つ。あなたへ一つ。救難線の事務局へ一つ。三つに分ける」
「増えた」
「身体は増えていない」
「結びは増えた」
「はい」
子供は満足したのか、困ったのか分からない顔で戻った。
ミラが囁く。
「今の二本目、人数へ入る?」
「入れない」
「結び目総数には」
「入る」
「最初から一致しない設計」
「身体数と、守る理由を同じ数字にしない」
「やっと言った」
「あなたが先に言って」
「言ったら、車掌が自分で決めたことにならない」
「親切の値段は」
「高いよ」
「請求先」
「保留」