第592話 第八章「紙の街が燃える」後編
【現実/中央夢灯塔・第一外殻/覚醒/夜明けまで九分】
ハルは塔を走る。
銀線が腰。
右手に短刃。
左腕は身体へ固定。
塔の壁は垂直ではない。
折り紙の面が交互に傾き、三歩ごとに足場の向きが変わる。
一。
二。
三。
足裏のざらつき。
乾いた墨。
焦げた糊。
「一番折り、通過!」
『記録』エリア。
「次、右下!」
『あなたの右? 塔の右?』
「俺の右!」
『塔面番号で言って!』
「番号どこ!」
『足元!』
「燃えてる!」
『じゃ、匂い!』
「薬草糊!」
『第五面! 次は上へ四歩、左へ二!』
路図は命令ではない。
足裏の情報と、互いに訂正し合う。
白火が壁を走る。
ハルの前へ、夢の場面が開く。
地球の台所。
母の背。
鍋の湯気。
違う。
母は、この角度で鍋を持たなかった。
そもそも、ハルの家の台所に紙灯籠はない。
「偽物」
白火は嘘を見せるのではない。
誰かの夢へ、ハルの不足を貼り合わせる。
入りたいと思う形へ。
「ハル!」
カイルの声。
深紅の小盾が足元へ出る。
火の場面が割れる。
「見えてた」
「止まっていた!」
「一秒」
「落下には長い!」
「王子の説教、今?」
「怖い時ほど長くなる!」
「知ってる!」
「なら走れ!」
ハルは走る。
白火へ短刃を入れない。
火を切るのではなく、下の管理墨を断つ。
場面が消える。
火はそこで止まり、別方向へ逃げる。
「六番、切断!」
『切断時刻、夜明け八分四十二秒前』セレナ。
「細かい!」
『後で、あなたが夢へ入ったと疑われた時に必要です』
「俺が?」
『白火の前で一秒停止』
「証拠にするな!」
『だから時刻と身体位置を残す!』
証拠は、人を疑うためだけにあるのではない。
疑われた人を、疑いから戻す道でもある。
塔の内部。
紙棚が回っている。
一段目、感情札。
二段目、記憶札。
三段目、役割札。
四段目、生活支援札。
本来は分かれていない。
メイとルメと住民たちが分け始めた結果、棚の上で初めて四色へ光っている。
「朝綴じ軸、速度上昇!」ロロ。
「夜明け前なのに」
「巨人が近いから、未処理量を先読みしてる!」
「先読みを止める!」
「停止命令、中央代理受取人の承認が要る!」
「ソムナは夢の中!」
「だから自動承認へ切り替わってる!」
「本人がいないのに承認?」
「職務がいる!」
「職務は人じゃない!」
「制度は知ってる! 知ってて、同じに扱ってる!」
知っている誤りは、無知より強い。
無知なら、教えられる。
知っている者は、利益を計算して残している。
ロロが朝綴じ軸へ工具を入れる。
二本の補助腕。
一本は軸を押さえ、一本は歯車を外す。
本人の両手は、震えている。
紙粉。
煙。
呼吸が狭くなる。
「吸入!」メイ。
「今、手が」
隣の紙職人が吸入器を取る。
「口、開けな」
「自分で」
「手、足りないんだろ」
「……二回」
噴霧。
一。
二。
ロロは咳をする。
歯車を離さない。
「代わる」と塔職員。
「この角度、三度以内!」
「分かる」
「分かるじゃなく、復唱!」
「三度以内。軸の戻り、右。歯の欠け、二枚。力を抜く時は声を出す」
「渡す」
ロロが工具を渡す。
補助腕を増やさない。
人の手を、道具として扱わず借りる。
彼は一歩下がる。
下がれた。
紙の巨人が、中央塔へ手を伸ばす。
距離、三十メートル。
指先から、何千枚もの札。
妻の死。
子供の誕生日。
舞台幕の畳み方。
朝の薬。
借金。
焼けた家。
言えなかった謝罪。
言う必要のなかった謝罪。
一つの手。
「接触したら、朝綴じが始まる!」
ユーディが放送を開く。
『全区画。中央塔の朝綴じを、通常運用から外す』
町じゅうが聞く。
『保留、拒否、部分返却を、未処理として一括しない。中央代理受取制度を、夜明けまで暫定停止――』
塔の鐘が鳴る。
放送が途切れる。
「停止命令、届いてない!」
黒い管理線が燃え、中央通信が落ちた。
局長の言葉は、町の半分へしか届かない。
命令が全員へ届かない時、中央は二つの選択をする。
届くまで待つ。
届いた者だけで進む。
ユーディは三つ目を選ぶ。
伝言を分ける。
「聞こえた人、隣へ。正確でなくていい。『中央へ集めない』『拒否を未処理にしない』『ソムナへ全部送らない』。この三つだけ!」
住民が叫ぶ。
「中央へ集めるな!」
「拒否は未処理じゃない!」
「ソムナへ全部送るな!」
紙橋の向こう。
診療車。
石路。
屋根。
塔。
言葉が少しずつ変わる。
「中央へ送るな!」
「拒否は処理済み!」
「一人へ預けるな!」
完全ではない。
完全な命令を待てば、時間が終わる。
歴史上、多くの都市は誤った命令で滅びた。
同じくらい多く、正しい命令が届くのを待って滅びた。
夢灯都市は、不正確な三つの文で動く。
【現実/中央夢灯塔・第三外殻/覚醒/夜明けまで五分】
ハルは、最後の火抜き折りへ到達する。
足場がない。
塔面が外側へ反り、下は白火。
折り目は、二メートル先。
左腕で飛びつけば届く。
届くが、戻れない。
昔のハルなら、飛んだ。
肩が抜けても、誰かが拾う前提を持たずに。
「索、短い!」エリア。
「延長!」
「接続点がない!」
「カイル!」
「盾を足場にする!」
「痛み」メイ。
「一秒なら二!」
「一般式」
「三!」
「一秒」
深紅の盾が、空中へ薄く出る。
ハルは飛ぶ。
左腕を使わない。
両足で盾を蹴り、腰索へ体重を預け、右手を折り目へ伸ばす。
届く。
盾が消える。
カイルの膝が折れる。
「交代!」
住民二人が彼を支える。
ハルは折り目の黒線へ短刃を入れる。
硬い。
白火が右袖へ移る。
「切れない!」
「旧王家線!」ロロ。「金属粉入り! 刃を寝かせるな、立てて押す!」
「右手だけで?」
「腰で!」
ハルは短刃の柄を腹へ当てる。
足を塔面へ突く。
腰索を引く。
自分の力ではない。
エリアの銀線。
カイルの一秒。
ロロの角度。
紙職人が見つけた裏図。
セレナの切断時刻。
ノクスの匂い。
全部を、一つの身体で押す。
「切れろ!」
黒線が断つ。
塔の外殻が、八枚の花びらへ開いた。
落ちない。
公共救難列車が、鉄の輪として受ける。
白火は一つの中央へ走れず、八方向へ分かれる。
四層の棚も、それぞれ別の外殻へ露出する。
朝綴じ軸の速度が落ちる。
「止まった?」
「遅くなっただけ!」ロロ。
「何分」
「二分!」
「夜明けまで」
「四分!」
「余裕」
「算数が雑!」
巨人の手が、開いた塔の中央へ入る。
指先は、もう止められない。
塔の棚が、巨人の札を読み始める。
悲しみ。
記憶。
役割。
生活。
四つに分けたはずの光が、中央軸の前で再び一つへ寄る。
「物理的に分けても、受取人が一人だから戻る!」
ロロの声。
「ソムナの誓い」
ハルは塔面へぶら下がったまま、夢の中を見ようとする。
見えない。
白火の中に、無数の場面。
そのどこにもソムナの顔はない。
他人の夢を案内する者は、自分の夢を持たない。
自分の夢を持たない者は、巨人のどこへいる。
「空白」とハル。
『何』エリア。
「巨人の中で、何も映ってない場所」
『地図にない』
「ない場所を探す」
『また、それ』
「得意」
『存在しない駅と同じにしないで』
「同じじゃない。あれは制度から消された。これは最初から描かれてない」
『違いの根拠』
「ソムナは夢を見ない」
白火は、夢がある場所を燃える。
ならば、燃えていない一枚がある。
巨人の胸。
赤い糸の円。
完成しない円の切れ目。
「そこ」
ハルは指す。
巨人の胸の中央に、炎の映らない黒い紙片。
塔まで、十二メートル。
夜明けまで、三分二十秒。
紙の町は燃えている。
しかし、燃えているから道がないのではない。
火が避けた一枚だけが、まだ誰の夢にもなっていない。
ハルは腰索を外さない。
「エリア。二本目」
「何へつなぐ」
「あの空白」
「距離十二。巨人、移動中。固定点なし」
「固定しない」
「飛ぶ気」
「渡る」
「道がない」
「作って」
「無茶」
「依頼」
エリアが息を吸う。
左肺が、短く鳴る。
「条件」
「肩を使わない。腰索二本。途中で方向を失ったら止まる。あなたが切れと言ったら切る」
「最後だけ、嫌」
「じゃ、戻れと言ったら戻る」
「戻れる道を作る」
銀の線が、白火を越える。
一つは行き。
一つは帰り。
紙の巨人が、中央塔へ指を掛けた。
塔が軋む。
朝綴じの第一歯が、動く。
ハルはまだ飛ばない。
道が一つでは足りないことを、ここまでの旅でようやく知ったからだ。