第593話 第九章「二つの帰還路」前編
地図には、入口と出口がある。
入口は、地図を見る者が今いる場所である。
出口は、その者が行きたい場所である。
そう教える学院は多い。
だが、入口を知っている者ばかりではない。
行きたい場所を持っている者ばかりでもない。
どこにも行きたくない者もいれば、行きたいが、着いた後に生きられない者もいる。
航路学は長く、到着を成功とした。
船が港へ着けば成功。
列車が駅へ着けば成功。
患者が目を開けば成功。
兵士が祖国へ戻れば成功。
港の外で殺されても。
駅に家がなくても。
目覚めた後に一人でも。
祖国が兵士を人として受け取らなくても。
到着した、と帳簿へ書いた。
エリア・ルーンベルグは地図を愛している。
だからこそ、地図が人を見捨てる瞬間を、誰より知っていた。
【現実/中央夢灯塔・開花外殻上空/覚醒/夜明けまで三分六秒】
「行き線、張力三十二!」
「帰り線、二十九!」
「差、三!」
「数字で言えば小さい!」
「落ちる人間には大きい!」
銀の二本索が、中央塔と紙の巨人の胸を結ぶ。
一つはハルが渡る線。
一つは戻る線。
同じ太さ。
同じ材質。
同じ術式。
同じ道ではない。
エリアはグリムリリーの柄を石へ打ち込む。
両踵へ、焼けた針を差されたような痛み。
左肺の奥で、空気が半拍遅れる。
「継続九十秒」とメイ。
「百二十」
「九十」
「百」
「医療に値切りは」
「ない、知ってる。九十」
負けたのではない。
自分が地図を畳む時刻を、他人と共有した。
「ハル、まだ」
塔面へ腰索を二本つないだハルが、身を低くする。
「待ってる」
「珍しい」
「褒める?」
「当然を褒めると、次に褒められない時やらなくなる」
「厳しい」
「今、怖いから」
エリアの声は、速い。
怖い時、彼女は命令を増やす。
命令を増やすと、世界が線になる。
線になれば、迷いが減る。
ただし、人も線になる。
「右足から。三歩目で索が白火へ触れる。そこは跳ばず、伏せる。六歩目、巨人の呼吸で胸面が二尺上がる。上がってから渡る」
「うん」
「戻る線へ手を掛けない。左肩へ荷重を入れない。空白へ着いても、すぐ入らない。座標を返す」
「うん」
「私が戻れと言ったら」
「戻る」
「本当に?」
「帰り道があれば」
「条件を足さないで」
「道がなければ戻れない」
「作る」
「だから待ってる」
信じると言わない。
信じるという言葉は、相手へ成功義務を負わせることがある。
待つ。
作る。
戻る。
動詞だけを交換する。
「行って」
ハルが銀線へ足を置く。
一歩。
二歩。
三歩。
白火が索をなめる。
「伏せ!」
ハルは腹を線へ落とす。
火が頭上を通る。
その中に、地球の青空。
父の背中。
港へ向かう十五歳の自分。
どれも、今ではない。
「四、五」
巨人の胸が膨らむ。
「待つ!」
六歩目を止める。
胸面が上がる。
「今!」
ハルが渡る。
空白まで、七メートル。
エリアは彼を見ながら、別の地図を描く。
彼一人の道を描いている場合ではない。
塔の八枚の外殻には、四種類の灯が流れ込む。
悲しみは紫。
記憶は青。
役割は黄。
生活は白。
色は、内容を決めるためではない。
同じ一枚へ混ぜずに運ぶための仮の目印。
仮の色は、長く使うと身分になる。
身分は、長く使うと運命になる。
「色の期限」とエリア。
セレナが記録する。
「夜明け後一日。延長は本人同意」
「本人が眠っていれば」
「保留。代理で色を固定しない」
「救難中に分かりにくい」
「分かりにくさを残す」
「地図屋が言う?」
「分かりやすい嘘より、分かりにくい未定」
言い切った瞬間、エリアは自分の学院時代を思い出す。
最初の実地試験。
空白のある地図を提出し、教官に赤点を付けられた。
『測れなかった場所は、存在しないのと同じだ』
教官はそう言った。
当時のエリアは、悔しくて翌日一人で崖へ戻った。
測った。
崩れた。
左肺を傷めた。
空白を埋めた。
身体へ空白が残った。
地図は完成した。
彼女は完成しなかった。
「何を止まってる!」ロロ。
「記憶」
「今?」
「今出た」
「戻す?」
「持つ」
「色」
「青」
「確定?」
「仮」
「面倒!」
「あなたが言う?」
ロロは朝綴じ軸の歯を一枚ずつ外している。
「機械は面倒を部品へ分ける! 人は面倒を人へ押す!」
「名言?」
「作業指示!」
【現実/中央塔・第二外殻/覚醒/夜明けまで二分四十秒】
四種類の灯は、身体位置と一致しない。
紫の悲しみ札を持つ者の身体は、北の石路。
青の記憶札は、南の診療車。
黄色の役割札は、本人ではなく、引継ぎ小組へ。
白い生活札は、まだ建っていない寝床へ。
一つの地図へ描けば、線は町じゅうで交差する。
「交差点、百二十一」とエリア。
「衝突する?」カイル。
「魔法線は通る。人が通れない」
「じゃ、線だけ先に」
「線が本人の選択より先に着くと、受取済みにされる」セレナ。
「厄介だな、正しさという奴は」
「王子が言う?」ハルの声が遠くから飛ぶ。
『六歩、空白まで四!』
「前を見て!」
『見てる!』
「口を閉じて!」
『息も?』
「言葉だけ!」
『難しい!』
エリアは地図を四枚に分ける。
一枚目。
夢から身体へ。
二枚目。
記憶から本人鍵へ。
三枚目。
役割から引継ぎ先へ。
四枚目。
身体から、目覚めた後の生活へ。
「四つ」とカイル。
「大きくは二つ」
「算数が王族式か」
「帰る場所が二つ。自分の身体と、自分が生きられる現実」
「記憶と役割は」
「途中駅」
イヴァが通信へ入る。
『途中駅は目的地になれる』
「分かってる。だから、途中で止まれる」
『呼称を訂正。途中駅ではなく、選択駅』
「地図上、長い」
『人の権利を略すな』
「車掌が言う?」
『地図屋が言う?』
ミラが笑う。
『二人とも、相手の職業へ返すの好きだね』
「あなたは」エリア。
『元空賊。返すより奪う』
「今は救難」
『署名なし。返却先あり。矛盾つき』
列車側の人数差。
結び目は百八十七。
身体は百八十二。
荷物一つ。
残り四の説明がない。
「結び目を消さないで」とエリア。
『人数は合った』イヴァ。
「合ってない。身体数と結び目の目的が違う」
『重複かもしれない』
「かもしれないを、削除理由にしない」
『この危機の地図へ残す?』
「端へ。未接続として」
『見えると、不安を増やす』ミラ。
「見えないと、誰かがいなくなる」
『……買う』
「いくら」
『後払い。生還後』
「親切」
『借りじゃない。共同失敗』
四つの未接続記号が、地図の端に残る。
今は救えない問題。
だが、救わなかったことを忘れない印。
エリアは路図を、中央から配らない。
八枚の外殻へ、別々の作業図を送る。
北。
アサと患者相談員。
夢から出る、出ない、途中で止める、理由を言わない。
東。
メイと診療班。
食事、寝床、薬、支援者、明日の仕事。
南。
ルメの小組。
役割を一人へ戻さず、期限と報酬と交代を付ける。
西。
ミラとイヴァ。
身体を運ぶ。ただし目的地未定のまま乗れる。人数差は消さない。
上層。
カイルとユーディとラト。
白火を区画ごとに切り、中央命令が届かない場所へ三文だけを渡す。
内層。
ロロと塔職員。
朝綴じ軸を遅らせ、四層を一つへ圧縮しない。
外縁。
セレナ。
同意、身体位置、出所、撤回時刻を別記録。
空白。
ハル。
まだ役割名がない。
「ハルの欄」とカイル。
「空ける」
「危険だ」
「今決めると、決めた役割しか見えなくなる」
「配達人」
「届ける物が分からない」
「友人」
「関係は役割じゃない」
「無鉄砲」
「職能じゃない」
「じゃ、少年」
「年齢で何をさせるの」
「地球人」
「出身地で役割を決めないで」
「面倒だな!」
「人を一語で使おうとするから!」
空白を残す。
エリアにとって、空白は恐怖である。
だが、恐怖を地図から消すと、地図を持つ者へ移る。
ハルの欄は白いまま。