第594話 第九章「二つの帰還路」後編
【夢内/灯籠巨人・中央流路/入夢/夜明けまで二分十二秒】
ソムナの周りへ、道が増える。
橙。
銀。
赤糸。
白い生活線。
夢から身体へ。
身体から寝床へ。
記憶から保管箱へ。
役割から小組へ。
水没していた町が、立体の駅のようになる。
誰も同じ順番で歩かない。
先に身体を安全へ移す者。
夢の場面だけ止める者。
記憶を受け取るが、役割は返す者。
役割を続けるが、悲しみは保留する者。
何も受け取らず、名前だけ確認する者。
「混乱してる」とソムナ。
『混乱を許可した』とエリア。
「道が多い」
『少ないよりいい』
「迷う」
『迷った人用の保留所を置いた』
「保留所で、夜明けを越えたら」
『越える』
「夢が固定される」
『固定と保存を分けるよう、ロロが朝綴じを切ってる』
「間に合わない」
『間に合わせる』
「誰が」
『全員』
「全員って、誰も責任を」
『分担者名を送る』
一人ずつ。
アサ。
メイ。
ルメの三小組。
ミラ。
イヴァ。
カイル。
ユーディ。
ラト。
ロロ。
塔職員。
セレナ。
エリア。
「ハルは」
ソムナが問う。
自分がその名を知っていることに驚く。
『空白』
「役割がない?」
『決めてない』
「危ない」
『知ってる』
「止めて」
『あなたが言う?』
「僕は、役割がある」
『何』
「中央代理受取人」
その言葉を言った瞬間、夢の町が重くなる。
札が彼へ寄る。
役割を名乗る。
制度が、人間を見つける。
『それは職務枠』エリア。
「僕が就いてる」
『あなたと同じではない』
「仕事をしてるのは僕」
『仕事をしていない時のあなたは』
「……」
『どこへ帰る』
ソムナは答えられない。
夢灯都市。
自宅。
診療所。
ゼロスター号の客員席。
知識としてはある。
帰る場所として、浮かばない。
「分からない」
『地図へ空白で置く』
「夜明けまで二分」
『二分あれば、空白は書ける』
「出口は」
『作る』
「誰が」
『あなた以外』
「夢葬師じゃない」
『だから、あなたの仕事にならない』
ソムナは杖を握る。
名前を忘れた杖。
「僕の出口を、他人が作る?」
『嫌?』
「怖い」
『記録した』
「助けて、とは言ってない」
『言ってない』
「作らないで、とは」
『言った?』
「……言ってない」
『保留?』
「保留」
保留は、拒否ではない。
同意でもない。
地図の上へ、ソムナのための白い空間が置かれる。
出口ではない。
出口を作るか決める場所。
【現実/中央夢灯塔・朝綴じ制御室/覚醒/夜明けまで一分五十二秒】
「二つの帰還路、制御へ入れる!」
エリアは叫ぶ。
塔職員が困惑する。
「朝綴じは、一人一経路です」
「だから壊れてる!」
「二経路を入れると、重複帰還になる」
「人が二人になる?」
「帳簿上」
「帳簿を二列に!」
「様式が」
「紙でしょ! 折って!」
紙職人の老女が、帳簿を縦に裂こうとする。
「原本!」セレナ。
「複製、ある?」老女。
「中央棚に」
「燃える?」
「燃える」
「じゃ、今使えるほうが原本さ」
老女は裂かない。
真ん中へ折り目を付ける。
左。
『夢から身体』
右。
『身体から生活』
その間へ、二つの小欄。
『記憶』
『役割』
「四つじゃないですか」と塔職員。
「大きく二つ」とエリア。
「数学的に」
「地図的に」
「違法です」
セレナが答える。
「現行法に、帰還経路を一つへ限定する条文はありません」
「様式が一つです」
「様式は法ではない」
「運用上、法と同じです」
「それが今、巨人になった」
塔職員は、窓の外を見る。
顔のない巨人。
町じゅうの札。
彼は自分の印を外す。
「二列にします」
「責任者名」とセレナ。
「私」
「氏名」
「ヨア・ベル。朝綴じ第三係」
「命令者」
「いません。現場判断」
「記録します」
名を出す。
英雄になるためではない。
後で責任を一人へ押しつけないため、誰がどこを変えたか残す。
「他の係も」とヨア。
七人が名を言う。
全員が同じ責任を負うのではない。
自分が触った折り目だけを負う。
帳簿が二つへ開く。
塔の光が、分かれる。
一つは眠る身体へ。
一つは目覚めた後の町へ。
間に、記憶と役割の駅。
最初の人が、二つの帰還路を使う。
身体は西側診療車。
夢は巨人の左腕。
記憶札は本人指定保管。
朝の仕事は、鐘係。
彼は夢から身体へ戻る。
目を開けない。
指だけ動かす。
次に、身体から生活へ。
生活とは、歩くことではない。
鐘を鳴らす仕事を、今朝は他人へ預ける。
薬を一杯。
寝床を列車。
家族への連絡は保留。
それらが決まった時、初めて路図の右側へ灯がつく。
「帰還、一」と塔職員。
「二」とエリア。
「一人です」
「二回帰った」
「数え方が」
「一人を増やさない。帰還を増やす」
塔職員は、新しい欄へ二本の線を引く。
次。
身体へ戻るが、生活は保留。
次。
夢に残るが、身体だけ安全圏。
次。
記憶を受け取るが、役割を拒否。
次。
役割を受け取るが、悲しみは指定保管。
地図は、汚くなる。
線が途中で止まる。
戻る。
枝分かれする。
空白へ入る。
エリアは、その汚さを美しいとは言わない。
人の苦しみを美しい地図へ変えるのは、地図屋の傲慢だ。
ただ、正確だと思う。
正確さは冷たい。
冷たいから、抱きしめる代わりにはならない。
しかし、抱きしめる相手を間違えないための床にはなる。
【現実/巨人胸部への銀索上/覚醒/夜明けまで一分十一秒】
ハルが空白へ着く。
黒い紙片。
白火が避ける。
夢景がない。
匂いも薄い。
ノクスの声が、塔側から飛ぶ。
「ナァ!」
「聞こえてる!」
「グルル!」
「匂いがないのが匂い?」
「ナ!」
「怒るな!」
紙片へ右手を置く。
冷たい。
ソムナの左手首の輪痕と同じ冷たさを、ハルは知らない。
それでも、他の紙と違う。
「現在地」エリア。
「巨人の胸。赤糸の切れ目。黒い紙。夢景なし」
「身体位置」
「俺は、巨人」
「あなたの身体」
「ここ」
「確認」
「ソムナは」
黒い紙へ耳を当てる。
音がある。
水。
紙札。
たくさんの声。
その奥。
「名前」と、誰かが聞いている。
「教わった」と、少年が答える。
「いる」
「入口は」
紙片の縁に、縫い目がない。
出口もない。
「切る?」ハル。
「切れば、夢景へ穴が開く」
「入れる」
「戻れる保証がない」
「帰り線」
「現実のあなたを戻す線。夢内の出口じゃない」
二つの帰還路。
夢から身体。
身体から生活。
ハルには両方ある。
巨人から塔へ戻る銀線。
塔から、仲間と船へ戻る現実。
ソムナには、どちらもない。
夢の中の彼は、中央代理受取人として、夢から出る対象に登録されていない。
現実の身体は診療車にあるが、目覚めた後の生活欄が職務継続中で閉じている。
「ソムナの線」とハル。
エリアは地図を見る。
白い空間。
出口を作るか決める場所。
そこから先がない。
「ない」
「作るって言った」
「本人、保留」
「保留の場所までは」
「ある」
「そこへ行く」
「何をする」
「聞く」
「何を」
「帰るか」
「答えなかったら」
「待つ」
「夜明けまで一分」
「一分、待つ」
「その後」
「一緒に困る」
エリアは、地図へ一本の線を引きかける。
ハルからソムナへ。
止める。
それは、ハルがソムナを連れ戻す道に見える。
連れ戻す。
救う。
説得する。
どれも、相手の答えを先に決める動詞だ。
エリアは線を途中で止める。
「入口だけ作る」
「出口は」
「本人と作って」
「地図屋が仕事放棄」
「地図が決める範囲を放棄する」
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
「記録した」
「セレナみたい」
「嫌?」
「今は、いい」
黒い紙の縁へ、銀線が半分だけ縫われる。
入口。
戻り先のない入口。
ハルは短刃を置く。
切らない。
右手の指で、紙を二度叩く。
中から、二度。
退出の合図ではない。
聞こえたという返事。
黒い紙が、内側へ開く。
ハルの身体が沈む。
「ハル!」
エリアは銀線を締める。
現実の腰索は残る。
意識だけが、夢へ落ちる。
塔の鐘が、夜明け前の最後の半鐘を鳴らす。
エリアの路図には、町じゅうの二つの帰還路がある。
ソムナの線だけが、空白だった。
そしてハルは、その空白へ入った。