第595話 第十章「誓いを撤回する」前編

誓いは、破ってはならない。

 人類は、この短い文を好んだ。

 誓いを守る者は美しい。

 誓いを破る者は醜い。

 物語にしやすく、裁判に使いやすく、兵士を前線へ留めやすい。

 だが誓いには、期限がある。

 相手がいる。

 条件がある。

 条件が変われば、同じ言葉を守ることが、最初の目的を裏切る場合もある。

 飢えた村へ一年分の麦を届けると誓った男が、洪水で村そのものが移転した後も、旧村の空地へ麦を積み続けたなら、それは忠義ではない。

 死者を忘れないと誓った王が、生者を死者の時代へ閉じ込めたなら、それは追悼ではない。

 誓いを破ることと、誓いを撤回することは違う。

 破るとは、約束した相手へ結果だけを押しつけること。

 撤回とは、条件が変わった事実を示し、これ以上その言葉へ相手を縛らないこと。

 撤回には勇気が要る。

 なぜなら、守り続ければ善人でいられる誓いほど、撤回した者は悪人に見えるからだ。

【夢内/灯籠巨人・無夢域/入夢/夜明けまで五十七秒】

 ハルは、水へ落ちなかった。

 空へも落ちなかった。

 黒い紙の上へ、立った。

 上下がない。

 風がない。

 匂いがない。

 夢の中なのに、夢景がない。

 遠くへ橙色の灯が一つ。

 その下に、ソムナが座っている。

 長い袖から、何千本もの札糸が伸びている。

 首。

 肩。

 左手首。

 指。

 背中。

 人に糸が結ばれているのではない。

 糸が、人の形を作っている。

「ソムナ」

 少年が顔を上げる。

 薄紫の瞳。

 薄い青緑の髪。

 知っている顔。

 しかし、その目にハルは映らない。

「誰」

「ハル」

「教わった?」

「会った」

「どこで」

「今日」

「今日、長い」

「一生分くらい」

「意味が分からない」

「俺も」

 ソムナは右手の杖を持ち直す。

「夢へ入る同意、した?」

「黒い紙を二回叩いた。中から二回返った」

「聞こえた、の合図」

「入口を開けた」

「開いたのは、僕じゃない」

「誰」

「役割」

「また役割」

「中央代理受取人は、未処理の札が来れば開く」

「じゃ、同意じゃない」

「うん」

「出る?」

「来たばかり」

「俺が」

「あなたを出す」

 ソムナが杖を振る。

 橙糸がハルの胸へ伸びる。

 ハルは避けない。

 糸が触れる。

 止まる。

「拒否」とハル。

「危険」

「拒否」

「あなたの身体は巨人の外」

「知ってる」

「夜明け」

「知ってる」

「死ぬ」

「死なないために来た」

「僕を説得するなら、時間が」

「説得しない」

「じゃ、何」

「聞く」

「何を」

「誓いを続けるか」

 ソムナの袖札が鳴る。

 嘘をつく時、声より先に紙が鳴る。

「続ける」

 札が鳴った。

「嘘」

「ノクスじゃないのに」

「札」

「風」

「風がない」

 ソムナは自分の袖を見る。

「覚えてるんだ」

「何を」

「僕が嘘をつく時」

「前に、袖札が同じ音で鳴った」

「僕の嘘を記録してた?」

「記録じゃない。覚えてた」

 言葉遊びが、空白へ一つ落ちる。

 落ちても音がしない。

 無夢域の外では、町じゅうの声が流れている。

「記憶を、今は受け取らない」

「仕事だけ返す」

「悲しみを預ける」

「寝床が決まるまで起きない」

「身体は運んで」

「家族へは知らせないで」

「家族へだけ知らせて」

「ソムナへ預ける」

「ソムナへ預けない」

 最後の声で、札糸が一本切れる。

 ソムナの左肩が軽くなる。

「今」ハル。

「何」

「患者が、お前へ預けないって言った」

「聞こえた」

「術、入らなかった」

「拒否には入れない」

「じゃ、他の札が来た理由」

「同意」

「本人の?」

 ソムナは答えない。

「町の代理同意」

「緊急時、必要」

「必要だった」

「今も緊急」

「条件が変わった」

「何が」

「生活の受取先が増えた。役割も分けた。記憶は本人鍵。夢の出口は複数。列車も来た」

「全員じゃない」

「全員に同じものが要らない」

「帰れてない人がいる」

「帰らない人もいる」

「危険なのに」

「危険でも」

 夜の初めに、アサが言った言葉。

 ソムナの目が細くなる。

「それを尊重して、死んだら」

「お前のせいじゃない、とは言わない」

「じゃ」

「俺も困る。メイも、アサも、本人の周りも。お前一人で納得しないように、一緒に困る」

「役に立たない」

「一人で全部背負うより?」

「人が死ぬ時、分担しても死ぬ」

「一人で背負っても死ぬ」

「数を減らせる」

「誰の数」

「患者」

「お前は」

「案内人」

「患者じゃない?」

「今は、職務中」

「身体、三十四度台」

「聞いた」

「記憶、失ってる」

「代償」

「患者」

「違う」

「何が」

「僕は患者じゃない」

 ソムナの声だけが速くなる。

 本気で反対する時、相手の文を途中で止める。

「幼い時、夢を売られた」ハル。

「言わないで」

「治療費のため」

「知ってる」

「同意してない」

「言わないで」

「良い子だったって」

「止めて」

 紙札が鳴る。

 今度は嘘ではない。

 怒り。

 ソムナは袖の札を一枚、折らずに破った。

「人の台帳を、勝手に読むな!」

「ごめん」

 ハルは即座に言う。

「でも、今の誓いと同じだ」

「同じじゃない!」

「家族を救うため、自分の夢を売る。町を救うため、自分の記憶を売る」

「今は僕が選んだ!」

「選んだ。だから、やめるのもお前が選べる」

「一度選んだら」

「変えられる」

「都合よく」

「都合が変わった」

 ハルは一歩近づく。

 札糸が足へ絡む。

 誰かの悲しみ。

 誰かの仕事。

 誰かの家。

 踏まない。

 線の隙間へ足を置く。

 一。

 二。

 三。

 足で道を覚える。

「お前の誓い、何」

「全員を夜明けへ連れていく」

「全員って誰」

「町の人」

「お前は」

「案内人」

「町の人じゃない?」

「……」

「夜明けへって、どこ」

「夢が固定されない場所」

「夢へ残るって選んだ人は」

「危険を説明して、それでもなら」

「連れていかない」

「身体は救う」

「夢は残す」

「うん」

「じゃ、全員じゃない」

「言葉の」

「条件」

 ハルは言葉を切る。

「誓いが、もう実際と合ってない」

 ソムナは黙る。

「全員を連れて帰る道はない。帰る場所が違う。帰らない人もいる。身体だけ帰す人も、記憶を保留する人も、役割を返す人もいる」

「だから、全部の道を」

「お前一人が持つ?」

「案内する」

「道を持つのと、示すのは違う」

「……」

「誓いを破れって言ってない」

「同じ」

「違う。破るなら、黙って逃げればいい。撤回するなら、相手へ言う」

「全員へ?」

「聞こえる人へ。聞こえない人の権利は、勝手に賛成にしない」

「撤回したら、僕は」

「善人じゃなくなる?」

 紙札が鳴る。

 ソムナは怒る。

「そういう言い方、嫌い」

「俺も嫌い。でも、お前は自分を嫌う時、清廉さを使う」

「……誰から聞いた」

「今までのお前から」

「僕を束にして証言させないで!」

「束じゃない。積み重ね!」

 二人とも怒鳴る。

 無夢域に、初めて反響が生まれる。

【現実/中央塔・患者権利卓/覚醒/夜明けまで四十二秒】

 アサは、千枚の退出札を配れない。

 時間がない。

 人数が多い。

 眠っている者もいる。

 だから、鍵を配る。

 患者が運営へ持つ拒否権〈ペイシェント・キー〉

 金属の鍵ではない。

 言葉。

 指の動き。

 結び目。

 灯の消灯。

 家族以外の同伴者。

 何もしない保留。

 本人が「やめる」を示す方法を、運営側が先に認める。

「全区画へ」とアサ。「中央代理同意を、取り消せます。理由は要りません」

 通信が半分落ちている。

 声は伝言になる。

「代理、取り消せる!」

「理由なし!」

「今は決めなくていい!」

 正確な法文ではない。

 セレナが補う。

「撤回は、過去の救難を遡って違法にしません。これ以後の受取権を止めます。身体救命の一時代理と、夢・記憶・役割の最終受領を分けます」

「長い!」ラト。

「削れません!」

「三つに!」

「過去を責める話ではない! これからを止められる! 身体救助と夢の受取は別!」

 ラトが路地で叫ぶ。

 住民が返す。

「これからを止める!」

「身体と夢は別!」

「理由なし!」

 ユーディは中央決裁札を出す。

 白紙。

 非常権限の文面を、今から書く。

「中央代理受取制度、暫定停止。開始、今。終了、夜明け後十二時間。延長なし。継続するなら公開審理」

「夜明け後十二時間?」セレナ。

「記録移行に必要」

「停止なのに移行」

「止めた瞬間、宙に浮く札がある」

「受取先」

「本人指定保管。指定不能は、複数監査鍵」

「局長鍵は」

「一つだけ。単独で開かない」

「王家」カイル。

「一つ」

「私が拒否する」

「王子の席を空ける?」

「患者組合へ渡す」

「王家が持たないと、旧法上」

「旧法が今、巨人になっている」

 カイルは自分の印を決裁札へ押さない。

 王権を使わないことで、王権が空けた席を示す。

「患者組合鍵」とアサ。

「受ける。ただし、患者全体を一つの人格としない」

「鍵を三つに分ける?」

「拒否経験者。治療継続者。家族でも職員でもない外部監査」

「時間」

「ない」

「仮」

「仮で」

 決裁札へ、終了時刻が書かれる。

 ユーディが印を押す。

 セレナが時刻を記録する。

「夜明け三十七秒前。中央代理受取制度、停止命令発出」

 命令は、塔の半分へしか届かない。

「届かない区画!」

「患者鍵を先に使う!」アサ。

 一人目。

 灯を二回消す。

 二人目。

 ざらつく札を裏返す。

 三人目。

「ソムナへ預けない」と声にする。

 四人目。

 何もしない。

 何もしないことを、継続同意に数えない。

 札糸が、巨人から一本ずつ外れる。