第596話 第十章「誓いを撤回する」後編

【夢内/無夢域/入夢/夜明けまで三十一秒】

 ソムナの身体が崩れる。

 肉ではない。

 糸の人形が、糸を失う。

 左腕が薄くなる。

 右肩が透ける。

「消える?」ハル。

「役割から外れてる」

「人は」

「分からない」

「身体はある」

「夢内の僕が、何でできてるか」

「お前」

「それ、答えじゃない」

「答えだろ」

「名前も記憶も夢も、抜けてる」

「身体がある。今、嫌だって言う。怒る。怖い。十分」

「人間の定義が雑」

「細かくしたら、今のお前が外れる」

「だから雑に?」

「余白を残す」

「エリアみたい」

「褒め言葉」

「本人には言わないで」

「なんで」

「地図が美しいって話へ戻る」

 ソムナが少し笑う。

 笑った顔を、ハルは覚える。

 彼が忘れても。

「患者が撤回してる」とハル。

「聞こえる」

「お前の誓いの相手が、条件を変えた」

「全員じゃない」

「全員じゃないから、一人で受ける?」

「残った人を」

「残った人は、預けたい人だけ」

「預ける人が、一人なら」

「受けるか、お前が選ぶ」

「拒否したら」

「別の受取先を作る。今なければ、保留」

「保留のまま夜明け」

「越える」

「固定」

「ロロが分けた」

「失敗したら」

「失敗する」

「それで」

「次に直す」

「死ぬ人が」

「出るかもしれない」

「言い切るの」

「出ないとは言えない」

「僕が受ければ、減る」

「お前が消える数を、患者数から外すな」

「僕は案内人」

「案内人も、帰る」

「帰らない案内人もいる」

「選んだ?」

「選んだ」

「いつ」

「一時間前」

「条件、変わる前」

「誓いは」

「撤回できる」

「言わせたい?」

「言わなくていい」

「ここまで来て?」

「言うかは、お前が決める」

「言わなかったら」

「一緒に残る」

 ソムナが顔を上げる。

「それ、脅し」

「選択」

「僕が残れば、あなたも残る」

「うん」

「僕に責任を」

「俺の選択の責任は俺」

「でも、僕の判断へ影響する」

「する」

「ずるい」

「人間関係」

「言葉遊び」

「関係の説明」

 夜明けまで二十三秒。

 ソムナは苦い種を探す。

 袖にない。

 現実の身体の舌の下に、一粒ある。

 夢内では味がしない。

「本音を言う時、苦い種を噛まない」とハル。

「それも、見てた?」

「うん」

「嫌い」

「ごめん」

「謝るの、速い」

「撤回も速くていい」

「誘導」

「撤回」

「あなたが撤回して」

「何を」

「僕を連れて帰る」

「言ってない」

「思ってる」

「帰るか聞くって言った」

「帰らないって言ったら」

「聞く。理由は要らない。身体は救う」

「アサみたい」

「褒め言葉」

「本人には」

「言う」

 ソムナは目を閉じる。

 夢を見ない少年が、夢の中で目を閉じる。

 暗くならない。

 もともと何も映っていない。

「全員を夜明けへ連れていく、という誓いを」

 札糸が震える。

「条件が変わったため、撤回します」

 言葉は小さい。

 町じゅうへ届かない。

 誓いは、宣言の音量で成立したのではない。

 左手首の輪痕と、自分の選択で結ばれた。

 撤回も同じ場所へ届く。

「これまで受けた札を、持ち主へ勝手に返しません」

 ソムナは続ける。

「出所別に止めます。受け取る、預ける、拒否する、保留するを、本人へ返します」

 ハルは黙る。

「僕は、道を示します」

 一拍。

「使うかは、決めません」

 さらに一拍。

「僕自身の道も、他人へ決めさせません」

「うん」

「まだ帰るって言ってない」

「聞いた」

「一緒に残るも、撤回して」

 ハルは詰まる。

「条件が変わったら」

「今変えて」

「……お前が残っても、俺は戻る」

「本当?」

「戻って、身体を助ける。夢の出口は残す。待つ場所を作る」

「父親と同じにしない?」

 ハルの胸が、一度止まる。

 待たせた父。

 帰らなかった父。

「しない」

「どう違う」

「現在地を返す」

「毎日?」

「できる限り」

「できない日」

「できないって送る」

「約束?」

「期限つき。今は、夜明けまで」

 ソムナはうなずく。

 お互いの誓いへ、終了時刻を付ける。

【現実/夢灯都市全域/覚醒・入夢混在/夜明けまで十七秒】

 患者鍵が使われる。

 一つ。

 十。

 百。

 拒否。

 保留。

 部分返却。

 指定保管。

 生活だけ受取。

 役割だけ委託。

 巨人の札が、出所ごとに光る。

 これまで、一人へ向いていた糸。

 今、町じゅうへ開く。

 鐘紙街。

 屋根芝居区。

 睡蓮棚町。

 名簿のない宿々。

 市場地下層。

 診療所。

 個人鍵箱。

 患者組合。

 保留棚。

 出所別に戻る。

 戻る、といっても持ち主へ押しつけない。

 持ち主の前へ、選べる距離で止まる。

 巨人の右腕が崩れる。

 崩壊ではない。

 何千枚もの灯籠へ分かれる。

 一つ一つに、別の折り方。

 別の重さ。

 別の行き先。

「一体性、低下!」ロロ。

「中央圧、分散!」

「朝綴じ軸、逆流!」

「逆流止め!」

 塔職員が手動弁を閉じる。

 閉じすぎれば、札が夢内へ詰まる。

 開けば、ソムナへ戻る。

「四十パーセント!」

「三十五!」

「人の気持ちを弁で調整してる!」ハルの身体側でカイルが叫ぶ。

「弁が調整してるのは紙圧!」ロロ。

「同じに見える!」

「見えるだけ!」

「見えるものを説明しろ!」

「今してる!」

 言葉が走る。

 火も走る。

 小灯へ分かれた紙は、空へ舞う。

 白火をまとったまま。

 一つの巨人なら、一つの落下範囲だった。

 千の小灯は、千の火の粉になる。

「分かれたほうが危険!」ラト。

「夢の荷重は下がった! 物理火災は増えた!」ロロ。

 論理の答えは、物理危機を解かない。

 むしろ正しい答えが、新しい危機を作る。

 カイルが空を見上げる。

「盾列、散開!」

「どこへ!」

「灯ごと!」

「千ある!」

「千人で持て!」

「千人いない!」

「持てる数を持て! 持てない灯の落下先を空けろ!」

 ユーディが三つの放送へ分ける。

『触れてよい灯。本人札あり、白縁』

『触れず保護する灯。保留、灰縁』

『近づかない灯。拒否、黒穴』

「色だけじゃ駄目!」ミラ。

『形。白縁は丸、灰は角、黒穴は中央穿孔』

「音!」イヴァ。

『丸は一鈴、角は二鈴、穿孔は無音』

 視覚。

 触覚。

 音。

 同じ情報を、違う感覚へ。

 小灯が町へ降る。

 住民は、自分の灯を見つける。

 取る者。

 手を出さない者。

 他人の灯へ道を空ける者。

 持ち主が来るまで傘を差す者。

 巨人の頭が分かれる。

 顔のない一つの頭から、無数の小さな窓。

 そこへ、一人ずつ違う朝が映る。

【夢内/無夢域/入夢/夜明けまで九秒】

 ソムナの身体から、糸が外れる。

 腕が戻る。

 肩。

 指。

 同時に、足元の黒い紙が裂ける。

「巨人が分かれた」

「うん」

「ここも」

「帰る?」

 ハルが聞く。

 ソムナは、周りを見る。

 無夢域。

 自分の夢がない場所。

 職務が作った空白。

「保留」

「分かった」

「あなたは戻って」

「戻る」

「今」

「出口」

「ない」

「作る?」

「僕の術、記憶が」

「使わない」

「どうやって」

 黒い紙の外。

 町じゅうの人が、自分の灯を選んでいる。

 一人の術ではない。

「呼ぶ」とハル。

「誰を」

「みんな」

「全員?」

「全員じゃない。聞こえる人」

「言葉、直した」

「お前に怒られたから」

「怒ったの、覚えてない」

「俺が覚えてる」

「それを、僕の記憶にしないで」

「分かった。俺の記憶として話す」

 夜明けまで五秒。

 黒い紙が大きく裂ける。

 外から、銀線。

 赤糸。

 橙の灯。

 白い生活線。

 四つが届く。

 出口ではない。

 出口を作る材料。

「選ぶ?」ハル。

 ソムナは手を伸ばさない。

「保留」

「うん」

 夜明けまで三秒。

 二。

 一。

 夢灯都市の夜が、終わる。

 紙の巨人は、もういない。

 代わりに、何千もの小さな灯が、燃える町の上へ降っていた。

 そして無夢域には、帰るかをまだ決めていない二人が残った。